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『まぼろしの維新』 西郷隆盛、最期の十年 (集英社文庫) – 2018/4/20 津本 陽 (著)

2018年08月19日 | 本と雑誌

『まぼろしの維新』 西郷隆盛、最期の十年 (集英社文庫) – 2018/4/20
津本 陽 (著)(1929年 - 2018年5月26日 89歳没)
2件のカスタマーレビュー
 
西郷どん放送開始後の出版だ。
西郷は「慶応の功臣にして明治の逆賊」とも言われる。
つまり、しかし、勝組も負け組も両方経験した西郷だからそこ、これほどまでに人気があるのだろう。
どちらか一方だけ、またその順序が逆であってもいけない、と思う。
歴史にタラレバは無意味というが、らたればこそが歴史を深く味わう、
また何度も学ぶ手段だろう。
 
西郷、負け組の始まり(その以前はさておき)、政府出仕から明治6年の政変そして西南戦争の描写は実証的で細密で、海音寺潮五郎の史伝『西郷隆盛』を思わせる。会社経営の経験をもつ著者は、人間西郷の魅力を様々の人物を描くなかから浮かび上がらせる。
西南戦争の描写はすこし速読になってしまった。
実は、読了まであと少しのところで、これを書かななければならなくなった。
田原坂から薩軍の敗戦濃厚となるあたりから、タイトルの「まぼろしの維新」
が、徐々に浮かび上がる。
西郷の動向や、肉声は、ぽつぽつとしか語られない。
敗走を始めたころ、世論は西郷に対する同情に傾いていた。
そこから「まぼろし」は浮かび上がり、そして現在をも照射する。
宮崎から鹿児島に入るあたりの地元での西郷人気はすさまじい。その描写は圧巻だ。
その人気は、英雄不死伝説ではなく、タラレバでもなく、まぼろしとして
資料を駆使して語られる。
西郷の味方は、庶民だけではない。
西郷討死の報に、明冶天皇は「朕は西郷を殺せとは言わなかった」と言ったのだった。
驚いたのは、島津久光と忠義も政府に建白書を提出し
「大久保、川路をも出頭させ、際本のうえで」、真実の罪あるものを罰すべきである」と訴えている。
久光が内田正風に(石川)県令を辞任させたのは、これまで仇のように憎悪していた西郷を政府に出仕させ、その力量で自分の政府における自分の立場を強化しようと考えていたためであった。p481
wiki内田正風 幕末は島津久光の側近として、倒幕活動に参加。明治時代は官権として県令を務めていた。後に官僚を辞職し、島津家に再び仕えた。
内田正風はあまり知られていない人物だが、けっこうな紙幅が費やされている。
もし西郷が生きていればを語るためである。
そして維新の三傑の一人木戸孝允も休戦すべきだと主張していた。
p395もし政府が西郷らと大久保、川路らを会わせ、事件の真相をあきらかにすれば、それで事は決着し、事実無根であればその場で事は決着しただろうp395
大久保、川路(日本警察の父)の立つ瀬はちじまるばかりだ。(陸軍大将である西郷にしても国憲を犯し許可なく兵馬を動かし武器を武器を携行したのであるから国賊ではあるのだが)
また、沖永良部からの帰り、喜界島から西郷が無断で?連れ帰って、西洋の見聞もあるあの村田新八もだ。
村田は西郷助命を桐野、池上へ相談したが聞き入れななった。
その村田のすすめで一同を集め、西郷に直接訴えた藩士に
西郷は「お前んさあが決めりゃよか」

内田正風のはたらき(久光の西郷軍への協力を西郷につたえる)に西郷が応じていたら、軍資金、商船、武器、旧藩主につながる薩摩士族・・・
このレバは、おもしろく、ナゼならなかったのかは、それに対する西郷の手紙に示されている。読んでのお楽しみだが、まぼろしになった理由は、その文面からさらに想像力を駆使しなければならない、ここが読みどころだった。
読んだのはここまで。残りの三十数ページに、クライマックスがあるのかもしれない。

amazon 登録情報
文庫: 525ページ
出版社: 集英社 (2018/4/20)
 

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