古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

日本書紀における「銀」字単独使用の意味について

2018年08月21日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀において、「銀」と記されている記事の多くは、「金銀」とともにあげられている。その数は20例に及ぶ。貴金属の意味で、鍍金や象嵌ほか工芸品に残されている。本邦において記録として鉱石の「銀」がはじめて産出したのは、天武紀三年三月のことである。

 三月の庚戌の朔丙辰に、対馬国司守(つしまのくにのみこともちのかみ)忍海造大国言さく、「銀(しろかね)始めて当国(このくに)に出でたり。即ち貢上(たてまつ)る」とまをす。是に由りて、大国に小錦下位を授けたまふ。凡そ銀の倭国(やまとのくに)に有ることは、初めて此の時に出(み)えたり。故、悉に諸の神(あまつかみ)祗(くにつかみ)に奉る。亦、周(あまね)く小錦より以上(かみつかた)の大夫等(まへつきみたち)に賜ふ。(天武紀三年三月)

 それ以降の記事には、「銀」が「金」とは別に単独で用いられている例がある。無文の銀銭が使われていたようである(注1)。天武紀十二年と持統紀五年に記事が見える。

 夏四月の戊午の朔壬申に、詔して曰はく、「今より以後(のち)、必ず銅銭(あかがねのぜに)を用ゐよ。銀銭(しろかねのぜに)を用ゐること莫れ」とのたまふ。乙亥に、詔して曰はく、「銀用ゐること止(とど)むること莫れ」とのたまふ。(天武紀十二年二月)
 秋七月の庚午の朔壬申に、天皇、吉野宮に幸す。是の日に、伊予国司(いよのくにのみこともち)田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀(しろかね)三斤(みはかり)八両(やころ)・𨥥(あらかね)一籠(ひとこ)献る。
 九月の己巳の朔壬申に、音博士(こゑのはかせ)大唐(もろこし)の続守言・薩弘恪・書博士(てかきのはかせ)百済の末士善信に、銀(しろかね)、人ごとに廿両(はたころ)賜ふ。
 十二月の戊戌の朔己亥に、医博士(くすしのはかせ)務大参徳自珍・呪禁博士(じゅこむのはかせ)木素丁武・沙宅万首に、銀、人ごとに廿両賜ふ。(持統紀五年)

 では、銀が産出する以前、「銀」が「金」とは別に単独で用いられることがないかというと、日本書紀には2例あり、次のように訓まれている。

 冬十月の戊午の朔癸亥に、群臣(まへつきみたち)に宴(とよのあかり)したまふ。是の時に、天下(あめのした)安く平(たひらか)にして、民(おほみたから)、徭役(さしつか)はるること無し。歳(とし)比(しきり)に登稔(としえ)て、百姓(おほみたから)殷(さかり)に富めり。稲(いね)斛(ひとさか)に銀銭(しろかねのぜに)一文(ひとつ)をかふ。馬、野に被(ほどこ)れり。(顕宗紀二年十月)
 十二月に、大伴金村連(おほとものかなむらのむらじ)、賊(あた)を平(たひら)げ定(しづ)むること訖(をは)りて、政を太子(ひつぎのみこ)に反(かへ)したてまつる。尊号(みな)を上(たてまつ)らむと請(まを)して曰(まを)さく、「今、億計天皇(おけのすめらみこと)の子(みこ)、唯陛下(きみ)のみ有(ま)します。億兆(おほみたから)の帰(よりたてまつ)る攸(ところ)、曾て与(また)二つ無し。又皇天(あめ)の翼(たす)け戴(たま)ふ頼(みたまのふゆ)によりて、凶党(あた)を浄(はら)ひ除きつ。英略(すぐれたるはかりこと)雄断(ををしきたばかり)は、以(これをも)て天威(あまついきほひ)天禄(あまつしるし)を盛(さかり)にせり。日本(やまと)には必ず主(きみ)有します。日本に主まさむには、陛下(きみ)に非ずして誰(た)ぞ。伏して願はくは、陛下、仰(あふ)ぎて霊(あまつかみ)祗(くにつかみ)に答(まを)したまひて、景(おほ)きなる命(みこと)を弘(ひろ)め宣(の)べ、日本に光(て)り宅(ま)しませ。誕(おほ)きに銀郷(たからのくに)を受けたまへ」とまをす。(武烈前紀顕宗十一年十二月)

 これら2つの「銀」の用例について、詳しく理解されるには至っていない。
 前者の例は、後漢書・明帝紀による修文であると古くから理解されている(注2)

 是歳、天下安平、人無徭役、歳比登稔、百姓殷富、粟斛三十、牛羊被野。(後漢書・明帝紀)
 是時、天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、馬被野。(顕宗紀二年十月)

 ほとんど同じだから文例にしたがって作文したことは明らかである。問題点としては、「人」→「民」、「粟」→「稲」、「三十」→「銀銭一文」、「牛羊」→「馬」へと変更を施した理由を突き止めなければならない。「人」→「民」については、皇帝の諱を憚って「民」字に変更する前の後漢書本文に「人」とあったものを引き写したからであるとする説が唱えられている。確かめようがない議論である(注3)
 「牛羊」→「馬」への変更については、牧の実情にあわせて「馬」としている。羊はいなかった。羊には食肉用と羊毛用の2つの用途があるが、単位面積当たりの収量を考えた場合、食料としては水田稲作農耕、繊維を得るには麻を栽培しておいたほうが生産効率ははるかに良い。肉食を志向したわけではなく、基本的に気候は蒸し暑い。ウールを求める必要はなく、冬場は藁を使った防寒着を用いれば済んでしまう。牛については、伝本に「牛馬」とするものがあって確実なことは言えない。牛は、牛車の牽引、荷物の運搬、耕作用動力機、蘇(チーズ)作りに用いられる。馬のほうは速く走らなければ合戦に役立たないから、放牧によってよく走る馬を育てられればそれに越したことはない。残念ながら鈍足にしか育たなかった馬は、耕作や運搬に用いられている。「被野」に馬はふさわしいと知れ、牛はどちらともいえない。
 「粟」→「稲」、「三十」→「銀銭一文」については、両者一体に表現が変更されたものと考える。「銀銭一文」について、これまで、「銀銭」は「徭役」同様、律令時代に修文されたものであろうと考えられてきた。silver coin はなかったのだから、後で作文されたはずであるという発想である。それはそのとおりであろうけれど、どうして銅銭ではなく銀銭と記されているのか。銭貨として銀銭がはじめてだったからとする考え方も見られる。
 市場経済では、需要と供給の関係によって物の値段は決まる。古代、どの程度、市場経済であったかの分析は難しいが、需給のバランスを考慮せずに統制経済だけで世の中が成り立つとは考えにくい。かといって、市場原理に完全に任せてしまうと、貧富の格差が過ぎてしまうこともまた事実であろう。当然のことながら、農作物が豊作なら供給は過剰になり、価格は下落し在庫が増えていく。放っておくと腐ったり、ネズミに食われたり、味が落ちていくものである。そのままでは農家は立ちゆかなくなる恐れがある。そこで、政府は、「稲斛銀銭一文」という政策を打ち出して、政府の買入価格に設定した。それがこの記事の意味するところであろう。稲一斛に対して銀銭で一文を支払うというのである。昨今のように、国債を日銀が損してでも一定価格で買い入れるという不思議な政策も可能である。もちろん、実態がどうであったかわからない。銀銭の存否にかかる問題ではなく、いくらだったかわからないという意味である。政策としては誠に尤もな対処法である。後の事例として、次のように和同開珎との交換を定めている。

 己未、以穀六升銭一文、令百姓交関各得其利
 己未、穀(もみ)六升を以て銭(ぜに)一文に当てて、百姓(はくせい)をして交関(けうくゑん)して各(おのおの)其の利(くぼさ)を得しむ。(続日本紀・和銅四年(711)五月)

 元明朝に、穀と銭貨の交換比率を示して農民の利益を確保する政策が行われている。市場の交換比率を語るのではなく、「百姓」の利益の追求と結びつけて語られており、実質的な農民救済策であったと考えられている(注4)。穀物相場が暴落したままにしておくと、農民が班田収授から逃れて、ないし脱落していく。すると公地公民制を掲げている国家は財政が成り立たなくなる。国家体制自体が立ち行かなくなる。だから、米穀を、市場価格を上回る価格で買い取ることをしてでも、班田に居続けてもらいたいのである。
 顕宗紀の筆録に当たった人は、後漢書か何かを真似して書いたのであるが、その意味を理解していると考えられる。「天下安平」は結構なことである。「民無徭役」が続けられれば人民にとってはありがたいことである。しかし、徭役がないということは、国家の経営はどうしていたのだろうか。ボランティアに頼っていたのだろうか。「歳比登稔、百姓殷富」もすばらしいことである。しかし、そうなると米価は下落して豊作貧乏に陥ったのではないか。豊作貧乏だから徭役を免除していたのかもしれない。打開策には、政府が財政出動するしかない。「稲斛銀銭一文」と決めることで、農民の没落を食い止めるのである。そしてまた、減反政策を図って、要らなくなった農耕馬は乗用に回したり、防衛装備品として国が買い上げることをした。当面、戦争があるわけではないから、牧に当たる野に放し飼いにしておく。「馬被野」である。このように、この一文は論理が循環する自己完結構文である。
 中心となる銭貨政策に、「稲(いね)斛(ひとさか)に銀銭(しろかねのぜに)一文(ひとつ)にかふ。」とある。ここで述べられているのは、稲の容量ひとつに対してシロカネノゼニひとつをもって代える、ということである。アカガネノゼニではなくシロカネノゼニとあるのには、それなりの理由があるのであろう。和名抄に、「金銀類」として、15項目あげられている。「金」「金屑」「銀」「銀屑」「銅」「半𤍨」「鐵 鑌附」「鐵落」「鐵精」「鉛」「錫」「水銀」「汞粉」「鎮粉」「銭」である。

 金 尓雅に云はく、黄金は璗〈徒堂反〉と曰ひ、其の美は鏐〈力幽反〉と曰ひ、則ち紫磨金也といふ。説文に云はく、銑〈蘓典反、古加祢(こがね)〉は金の最も光沢有る也といふ。
 銀 尓雅に云はく、白金を銀〈宜弥反〉と曰ひ、其の美は鐐〈力凋力弗二反、之路加祢(しろかね)〉と曰ふといふ。
 銅 説文に云はく、銅〈音は同、阿加々祢(あかがね)〉は赤金也といふ。
 鐵〈鑌附〉 説文に云はく、鐵〈他結反、久路加祢(くろがね)、此の間に一に祢利(ねり)と訓む〉は黒金也といふ。唐韻に云はく、鑌〈音は賓〉䥫は刀と為り甚だ利しといふ。
 銭 唐韻に云はく、鎈〈初牙反、差と同じ〉は銭の異名也といふ。漢書志に云はく、鏹〈居而反、訓世邇豆良(ぜにつら)〉は銭貫也といふ。義に云はく、鎔〈音容、世邇乃波太毛能(ぜにのはたもの)〉は銭の模(かたぎ)也といふ。

 銀(しろかね)は白金の意である。白い色をしている。白川1995.に、「しろ〔白・素〕 「しろし」の語幹。「しろし」はその形容詞形。「著(しる)し」と同系の語で、よく目に著(つ)く色をいう。色というよりもむしろ色の脱けた状態で、特別に白の色料とすべきものではなかったようである。「しろ」と「しるし」とはアクセントが異なり、同系としがたいとする説もあるが、語義の上では密接な関係がある。……ロは甲類。」(407頁)、「しるし〔著(著)・灼〕 他ときわ立ってよく目につくこと、また原因と結果との関係などが明白であることをいう。「いち」という接頭語をつけて「いちじるし」「いちじろし」ともいう。「白し」と同根の語である。」(406頁)、「いちしろし〔著(著)〕 はっきりと表面にあらわれる。ことが明白であり、顕著であることをいう。また「いちしるし」ともいうが、「いちしろし」が古形である。「いち」は「甚(いた)」「甚(いと)」と同根、「しろし」は顕著であること。〔万葉〕の表記には「灼然」を用いることが多い。のち著が常訓の字となった。ロは甲類。」(117頁)とある。
 つまり、銀銭(しろかねのぜに)という存在は、いちしろしき銭であることを表わしている。イチシロシと聞けば、イチ(市)で目につくもの、わかりやすいもの、まったくもってしるし(標・徴)となるものを指す、という意味に思われてくる。同書に、「いち〔市〕 一定の場所で多くの人が集まって、それぞれ物の交換などを行なうところ。古くはそこで歌垣なども行なわれた。〔武烈前紀〕にその歌垣のさまがしるされている。」(117頁)、「しるし〔印・璽・標〕 所有や承認、その他一般に契約関係を表示するために、記号的にしるすものをいう。……要するに他との区別を識別しうる方法である。」(406頁)とある。市での交換において、明々白々なしるしとなるものとしては、シロ(白)であるカネがぴったりである観念されていたと考えられる。観念の体系が言葉であり、上代のそれは、ヤマトコトバであった。顕宗紀の「稲斛銀銭一文」という表現は、稲の容量ひとつに対してシロカネノゼニひとつをもって代えるという交換であり、それは、明白な「市」の原理を表明していると言える。だからここに「銀銭」が登場していて、ヤマトコトバの表現の理解上、最もふさわしい銭貨であると理解されるのである。そしてまた、無文銀銭に、何かの刻み目のようなしるし(標・徴・印)があることも、その意を補強しているのではないか(注5)
無文銀銭(滋賀県大津市崇福寺跡出土、近江神宮蔵、宮川禎一「無文銀銭と和同開珎―日本最古のコイン―」1999年2月13日、京都国立博物館サイトhttp://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/58mumon.html)
 物品の対価として、著(しろ)しき白(しろ)が求められている。アカガネやクロガネではなく、シロカネが選ばれている。後漢書の「粟斛三十」などというあいまいな言い方ではなく、「稲斛銀銭一文」と銭貨を定めて規定するように述べている。ひとつにひとつと一対一対応をしているように言い切るだけの、自信に満ちた書きっぷりである。ヤマトコトバに忠実な執筆が展開されている。silver coin があったとかなかっとかいった短絡的な判断しかできないようでは、人間が単細胞的なコンピュータ知能に堕してすべて取って代わられることになるであろう。少なくとも上代の人々の知恵は、言語活動に上質な光彩を輝かせている。

 後者の例は、芸文類聚・帝王部の文章からの修文であると古くから理解されている。

 唯有陛下、億兆攸帰、曾無与二、……咸見翼戴、……天祚大晋、必将主、主晋祀者、非陛下而誰。……伏願、陛下仰答霊祇、弘宣景命、誕受多方、奄宅万国。(芸文類聚・帝王部・晋元帝の晋劉琨勧進元帝表、晉元帝答劉琨等令、ならびに斉謝朓為百官勧進斉明帝表)
 億兆攸帰、曾無与二。又頼皇天翼戴、浄-除凶党。英略雄断、以盛天威天禄。日本必有主。々日本者、非陛下而誰。伏願、陛下仰答霊祗、弘-宣景命、光-宅日本。誕受銀郷。(武烈前紀顕宗十一年十二月)

 武烈前紀の「光宅日本、誕受銀郷。」について、その「銀郷」は、朝鮮半島のことであろうとする説が行われている(注6)。「金銀之国」(神功前紀仲哀九年十月)、「金銀蕃国」(顕宗紀元年正月)、「其妻固要曰「夫住吉大神、初以海表金銀之国、高麗・百済・新羅・任那等、授記胎中誉田天皇」。」(継体紀六年十二月)などとあって朝鮮半島のこと、特には新羅を指すところから、憶測を生んでいる。けれども、武烈前紀の記事で大伴金村は、天皇の位に就いてくれと就任要請をしているにすぎない。そして、賊軍の真鳥大臣(まとりのおほおみ)を滅ぼしたことが直前の記事である。真鳥大臣は窮地に至って塩を指して呪詛したが、角鹿(つぬが、敦賀)の海の塩だけは忘れていたので、角鹿の塩は天皇御用達の塩になり、ほかのところの塩は天皇は召し上がらないようにしたというお話が話されている(注7)。どう考えても列島内の紛争であり、日本(やまと)の国王(主)になってもらおうとして発言されている。したがって、この「銀郷」は「光宅日本」と同じことを言っていると考えるのが適当である(注8)
 古訓に、「銀郷」にタカラノクニとある。タカラ(宝)がタ(田)+カラ(助詞)できあがっていることの謂いであると、同語反復を注入した言葉遣いであると仮定すると、タカラ(宝)とは、稲のことに他ならないとわかる。稲が良く育つ国、それは朝鮮半島ではなくヤマト(日本)である。稲の穂がよく稔ることは黄金色に稔ると表現されることが多いが、それは品種が均質化、一定化されて以後のことである。古代の赤米などは黒っぽい穂をつけている。顕宗紀に見たように、生産が過剰なほどに豊作となっても、農家は豊作貧乏に陥ることがないように「稲斛銀銭一文」という慮った政策が打ち出され続けている国である。ホノニニギの末裔が天皇となっているのだから、水田稲作農耕が国策の第一に据えられることは、政治祭祀的に当然の成り行きであった。その天皇に就任してくれることを説いている。「銀郷」はヤマトノクニのことに違いないのである。最後の文は、続けて読まなければ意が立たない。

 伏願、陛下仰答霊祗、弘-宣景命、光-宅日本、誕受銀郷
 伏して願はくは、陛下(きみ)、仰(あふ)ぎて霊(あまつかみ)祗(くにつかみ)に答(まを)したまひて、景(おほ)きなる命(みこと)を弘(ひろ)め宣(の)べ、日本(やまと)に光(て)り宅(ま)しまして、誕(おほ)きに銀郷(たからのくに)を受けたまへ。

 ヤマトノクニの天皇となるということは、ヤマトノクニに天照大神同様に光を照らす存在となることであり、それによってヤマトノクニは稲が大いに稔って豊穣のクニになる。有り余るほどに豊かに稔ったら豊作貧乏に陥るかと言えば、そのようなことはない。お上はきちんと政策を施している。「稲斛銀銭一文」と兌換することを約束する。そういう論理を語っている。太子(ひつぎのみこ)よ、あなたには天皇の位に就く資格があり、またそれは使命でもある。光を与えて稲を稔らせ、その稔りを受けつつ継続的に繁栄させるべき存在になってくれと言っている。
 以上、日本書紀において、本邦でいまだ銀が産出される以前の記述に、「銀」字が単独で用いられている意味について考察した。すべては、ヤマトコトバに銀がシロカネと言ったことに由来すると立証された。

(注)
(注1)無文銀銭は7世紀後半頃、天智天皇の近江京時代(667~672)に作られて用いられた銀貨であるとされている。和同開珎や富本銭よりも古い。流通の程度は不明ながら、大阪・奈良・京都・滋賀・三重といった関西地方を中心に15遺跡ほどの出土例がある。しかし、数は少なく、まとまって出土した例として滋賀県大津市の崇福寺跡出土の11枚が知られる。
(注2)谷川士清・日本書紀通証に指摘されている。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917894(117/205)参照。
(注3)池田2008.に、小島1962.347頁に指摘のある「是時天下安平、人無徭役、歳比登稔、百姓殷富、粟斛銭三十、牛羊被野。」(東観漢記・孝明皇帝紀)との関連性の方が強いとし、それが載る太平御覧の藍本系類書と同様な類書から引用したと考えたほうが理解しやすいとする。東野1983.233~234頁は、顕宗紀の「民」と後漢書の「人」字の関係は、雄略紀二十三年八月条の「民」字と隋書・高祖紀下、仁寿四年七月条の「人」字、持統紀六年三月条の「民」字と後漢書・章帝七年条の「人」字とに同様であると指摘する。その点については、池田2007.に考証されている。
 これらは、日本書紀の筆録者が意図的に改変したものとする説(榎本福寿)もあるものの、原典に「民」字とあったものをそのまま書き写したと考えられる事柄である。そこで原典探しが行われている。それに対し、本稿は、出典の所在の厳密さに関して拘泥するものではない。どこの出版社の「手紙の書き方」ハウツー本を使ったかに精力を傾けてどうしよう。彼此の違いのため、文例集として依っている漢籍の字面を改めて、本邦の事情に即するようにした個所のほうを問題にする。「粟」→「稲」、「三十」→「銀銭一文」、「牛羊」→「馬」と改めている。歴史研究の本末で言えば、当然ながらこちらが本に当たると考える。
 銀銭の唐突な出現については、実際に発行されていた8世紀初頭の反映で、紀編纂当時の状況を踏まえて作文されたとする説(田中卓)や、厭勝銭としてあった銀銭が流通貨幣へと変化した点が、顕宗紀の記述までも及んだとする説(三上喜寿)もある。しかし、それだけのことで、時代を遡って援用するほどのことかどうか。後代の述作とされる他のすべての記事について、検証が行われて議論されているわけではない。
(注4)和同開珎の普及のためとする説や、政府が公共事業を行う際の給食用として買い入れたとする説もあることにはあるが、「利」と記した理由が説明されていない。それに対して、次の経済史の視座は当を得ている。村上2014.に、「……ここでこの条文[顕宗紀二年十月条]を取り上げるのは、現実的な流通事情からではなく、どうしてこの条文が書かれる必要があったのかという視点からである。ある論理に基づいて、穀物と銭(ここでは銀銭だが、銭貨一般とみなす)の交換比率が、国家統治の安定性を図る一つの指標と考えられていることが看取できる。……穀物と銭貨の交換比率を通して百姓にとっての利、天下安平という統治を正当化する論理が古代国家にはあったということである。」(12頁)とする。着眼点は正解であるし、本邦での銭貨導入のいきさつと中国の食貨志の思想との関係を見極めた点は鋭い指摘で、高く評価したい。ただ、顕宗紀の述作をそれのみに従って“読む”ことには行き過ぎがあろう。修文によっていて、孤立した修文部分に“(超(?))歴史”性を見ることは難しい。「銀銭」を銭貨一般とみなす根拠は説明され得ない。古代の銭貨政策一般について、簡にして要を得た論考としては、村上2017.がある。
(注5)無文といいつつ打刻的なしるし(標・徴・証・印)がある点に関しては、後考を俟ちたい。
(注6)大系本日本書紀に、「朝鮮半島を指すか。」(③155頁)、新編全集本日本書紀に、「朝鮮諸国をさす。一般には「金銀」の国と記され、「銀郷」は本条のみ。」(②276頁)とある。
(注7)拙稿「角鹿の塩を呪詛忘れ」参照。
(注8)大伴金村が百済に任那4県を割譲したという記録(継体紀六年十二月)があるが、だからといって、「光宅日本」ばかりでなく、「金銀蕃国」までも付属的に「誕受」するようにと言っているとは考えられない。仮にそうであるとすると、この文章は、陛下には「仰答霊祗、弘宣景命、光宅日本」する責任がある、陛下には「誕受銀郷」する権利がある、という奇妙な発言になってしまう。応神紀に、「独(ひとり)筑紫を裂きて、三韓(みつのからくに)を招きて己に朝(したが)はしめて、遂に天下(あめのした)を有(たも)たむ。(独裂筑紫、招三韓於己、遂将有天下。)」(応神紀九年四月)とある。朝鮮半島諸国は「招」いて従属させるもので、そうやすやすと「受」けることができるものではない。筑紫に政権を置いて朝鮮半島と連合すれば、「天下」を「有(たも)」つこともできるのではないか、という提案をしているにすぎず、そのような形で国が統治されたこと、例えば、最盛期の渤海国のような版図が築かれたことは歴史上存在しない。

(引用・参考文献)
池田2007. 池田昌弘「『日本書紀』は「正史」か」『鷹陵史学』第33号、2007年。https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0033/OS00330R023.pdf
池田2008. 池田昌広「范曄『後漢書』の伝来と『日本書紀』」『日本漢文学研究』第3号、二松学舎大学、2008年3月。http://www.nishogakusha-kanbun.net/03kanbun-001ikeda.pdf
小島1962. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 上』塙書房、1962年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1997年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(岩波ワイド版文庫)、2003年。
東野1983. 東野治之『日本古代木簡の研究』塙書房、1983年。
村上2014. 村上麻佑子「日本古代銭貨の時代性と超歴史性」学位論文2014.3.26.。https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=68663&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1
村上2017. 村上麻佑子「日本における古代銭貨流通の契機―中国「食貨志」との比較から―」『寧楽史学』第62号、2017年2月。

(English Summary)
In this paper, we explore the reason why the word "silver(銀)" not written continuously as "gold and silver" was used in Nihon Shoki. As a result, we can see that in Yamato Kotoba it was called "Shirokane". The "siro" of Yamato Kotoba is the same root as being clear, for example, in exchange.

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