『ユーリ!!! on ICE』全国40館にて一挙上映!
劇場版 特報映像も公開!!!
2019年、1月18日より。
https://yurionice.com/series-marathon/
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放送から20年、「彼氏彼女の事情」Blu-rayBOX 3月27日発売。
BOXイラストを描き下ろしました。
http://king-cr.jp/special/karekano_bdbox/
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18日より、『ユーリ!!! on ICE』一挙上映がはじまりました。
ボクも、土曜日にユーリスタッフの何人かと観てきました。
久しぶりに第1滑走から第4滑走までを見て、いろいろと新たな「気付き」がありました。
当時は、フィギュアスケート界の知識がなく(今も勉強中ですが)、5歳くらいの幼い時代から練習をはじめて、活躍するレジェンド・スケーターに憧れ、様々なプレッシャーと戦いながら成長していく物語が、現実のスケーターへのリスペクトから生まれていることなど、シリーズ中に勉強して徐々にわかってきたこととつながっていて、とてもおもしろかった。
実際にスケートをはじめてみて、至らないところがありありと見えるようになった。
時間が経って、客観的にみると新たな発見があるものですね。
自分で言うのもなんですが、幼い勇利たちやヴィっちゃんが可愛くて愛おしかった。
第4滑走のあと、『ICE ADOLESCENCE ユーリ!!! on ICE劇場版』の特報が流れました。
今回は、TVシリーズからやりたかったスケーティング・アニメーションの理想形に一歩も二歩も近づけたと思います。
大きなスクリーンで見ると、3DCGを用いた背景美術やモーションキャプチャシステムを活用したキャラクター作画は会場の空間やリンクとブレードの密着感など効果が大きかったと思います。
映画本編では一層磨きをかけたい。
さて、メイキングのような話をするのは時期尚早にすぎますので、この辺にして。
別な映画を例にして映像表現の舞台裏を想像し、演出の重要性など考えてみましょう。
ボクの演出の師匠、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画、『フレンジー』で。
『フレンジー』は、1972年、ヒッチコック晩年の作品です。
1963年の『鳥』のあと、『マーニー』『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』と不作がつづきます。
迷いが生じてうまく行かなくなった時の原則、「確実な地点に戻ってやり直す(run for cover)」の結果が『フレンジー』だ。
この映画で「ヒッチコック復活!」を印象づけました。
…ネクタイ殺人鬼がロンドンの人々を震撼させていた下町、ブレイニーは彼の元妻の殺害犯に間違われて逃走する。犯人はブレーニーの友人ラスクだが、真実は…観客以外…誰も知らない。ブレイニーの恋人バブスはブレイニーと一緒に逃げるため、一晩ラスクのアパートに泊めてもらうことにするが、その夜、彼女は殺されてしまうのだった。
殺害シーンはすでに念入りに描写されているため、バブス殺害は画面に出てきません。
しかし、画面に表さずに残忍な殺しを想像させる見事な演出があります。
ラスクのアパート内部から入口側を捉えたところから、バブスとラスクが階段上がってきて90度回り込み、2階の部屋のドア前までワンカットで追っていきます。
40年以上前の映画用カメラは現代のものよりも大きく、ハンディーカムもないので、クレーンに乗せて撮影します。狭い階段にはカメラや装置が入るスキマはありません。
アパート内のカットはスタジオセットで撮られていると考えられる。
(1)
入り口の奥に見える道や自動車は「絵」でしょう。前カットにいた市場の人々が見えません。
(2)
二人とともにカメラも階段を上がっていく。ラスクの表情が恐ろしい…
(3)
二人が部屋の中に入ると
(3)
カメラはゆっくりと
(4)
階段をおりていく。外の景色も「絵」でしょうね。
(5)(6)
1階へ、
そして
玄関がフレームに入った直後、市場の人が横切って画面を覆うと、色味が変わります。
(7)
カメラが外に出ました。
外へ出ると、今までなかった内ドア上のガラス部分に外の反射が見える。
スタジオセットからロケ(実景)へと切り替わりました。
(8)
そのままカメラは後退して全景を映し出します。明らかに実景撮影です。
ここまで、実質ワンカットです。
アパート内部からのカットがスタジオセットなのは、あとのシーンでも確認できます。
このカットでは、トラックらしき車で道路の奥を隠しています。
(1)で左側、(5、6)で右側に見えている壁は動かせるように作ってあるのでしょう。
(2、3、4)とカメラがクレーン移動して壁がフレームインするタイミングで、壁を所定の位置に戻していく。上がる方と下がる方で、外して戻し、を繰り返しているわけです。
(6、7、8)のつなぎはDVD〜Blue-rayになってよりなめらかに再現されている。
この撮影方法は1948年の『ロープ』で大規模に試みられており、その後は映画スタジオの技術としてノウハウが構築されていたのでしょう。
なぜ、こんなめんどうなセット撮影を行ったのか?
観客はラスクがネクタイ殺人鬼だと知っています。
バブスに親切に近づいた時点で「やばいよ〜。そいつを信用しちゃダメだ〜」とサスペンスが生まれます。
そのエモーション(感情の動き)を引き伸ばし増大させるための装置が、階段なのだ。
にこやかに談笑しながらアパートに入ってくる二人。油断しきっているバブスと狙いを定めているラスクの表情のコントラストがおそろしく、すばらしい。
2階の部屋へ二人が入る直前、ラスクの「殺し」文句、「君は好きなタイプさ」が聞こえる。
観客は「あーーっ 殺される!」と確信します。
その後は、もう殺しを描写する必要はありません。ブレイニーの妻が殺されていく様子が思い出される。
すぐそこに危機が迫っているのに、残念ながら観客はバブスを助けに行けません。
その引き裂かれるような激しい感情の動きとコントラストをなす、ゆっくりとしたカメラの動きに想像力が膨張する。
想像は実際に見せられるより効果的です。
感情を動かし、想像力を刺激する。それこそ演出であり、映画だ。
観客に生じた感情の動きを途中で切断しないために、ワンカットで撮る必要があった。
そのためのカメラワークであり、スタジオセットの作り込みだったのです。
演出とは、見る人の心理を誘導し操作し拡大する技術です。
「演」の文字は、演繹が示すように、おしひろげる意味があります。
悪用しさえしなければ、演出はエンターテイメンとして、観客を興奮させ、怖がらせ、感涙させることができるテクニックだ。
ヒッチコックは、殺人を扱う理由として、人間の感情が最も強く揺り動かされる劇的な出来事だからだと言いました。
《災難というものは他人にしか起こらないものだ、それはいつも他人事だーーというのが現実の認識だ。ところが、映画は観客をすぐさまスクリーンのなかの殺人者や被害者に親密に近づけてしまう。観客は目の前の人物に同化して、身も心もうちふるえる。たとえば、交通事故は日常茶飯事のようにしょっちゅう起こる。もしきみの肉親や同胞がその犠牲者になったら、そのとたんに交通事故は君の身近な大事件になる。映画は、その意味で、いつも観客に最も身近な大事件を提供する。もし映画がうまくできていれば、その主人公はたちまちきみの肉親や同胞のような存在になる。さもなくばきみの敵になる。》(ヒッチコック/トリュフォー『映画術』p337)
主人公を身近で魅力的な人物に仕立てるのも、悪役を憎々しい敵に仕立てるのも、演出次第なのだ。
ヒッチコックは、殺人に関して主観的な観念などを押し付けることはなかったし、政治的なテーマも避けてきた。(『救命艇』や『疑惑の影』など少数を除く)
それは、殺人や政治的な事件の意味付けが映画の主役にならないよう配慮した結果だ。
50年代くらいまでは、そのような引いた姿勢が批判もされたが、映画の主役は、あくまで主人公たちの感情、心情であって、観客と響き合うための演出…語り口だ。
つまり、映画そのものが主役なのだ。
実際には、人間の心理というものは時代によって移り変わります。
ヒッチコックが生きている間に冷戦が激化し泥沼化していったなかで、「ニューシネマ」が生まれ、彼の映画は時代遅れになっていった。
殺人や政治的な出来事の意味を主役にせざるを得ない時代になったと言えようか。
現代は、歴史と社会と人とが切断された難しい時代だ。
それでも、ヒッチコックが提唱する映画の本質は何度も再評価されるだろう。
ボクは、作画がメインの仕事であっても、演出家としての姿勢を忘れません。
画面の隅々まで、観客の感情を動かす豊かなイメージで埋め尽くされなければいけない。
それがただの情報であったとしても、疎かにできないのです。
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