徳丸無明のブログ

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恩義を感じるということ・主従関係を築くということ

2024-04-16 23:43:58 | 雑考
大澤真幸の『経済の起源』(岩波書店)を読んだ。
これは社会学者の大澤が、経済とは何か、贈与交換から商品交換(貨幣経済)への転換はどのようにして起こったのか、貨幣はどのようにして生まれたかなど、経済の謎を解くために、幾つもの文献にあたりながら、東西の文化に触れ、歴史を辿った探究の書である。この中の第5章「ヒエラルキーの形成――再分配へ」で、贈与に関して、興味深い事例が紹介されている。


十九世紀から二十世紀の初頭にかけて、アマゾンやアフリカの狩猟採集民の社会に入った宣教師や探検家をたいへん驚かせたことがある。定型的な筋をもっているのだが、その代表として、イギリス人宣教師たちがコンゴで体験したことを紹介しよう。現地人の一人が重い肺炎にかかったので、宣教師たちは、彼を治療し、濃いチキンスープなどを与えた。おかげで、この病人は命をつなぎとめた。宣教師たちが、次の目的地へと向けて旅立つ頃には、彼はすっかり回復していた。宣教師たちが旅支度をしていると、この男がやってきて、なんと宣教師たちに贈り物を要求してきたのだ。宣教師たちはびっくりして、これを拒否すると、男の方も同じくらい驚き、大いに気分を害した。宣教師が、贈り物によって感謝を示すべきはあなたの方ではないかと言うと、彼の方は、「あなた方白人は、恥知らずだ!」と怒って言い返してきた。
このエピソードは、二十世紀前半の哲学者リュシアン・レヴィ゠ブリュールの著書から引いたものである。レヴィ゠ブリュールは、「未開社会」の人々が、「われわれ」とは異なる論理で思考し、行動していることを示す証拠として、似たような報告事例をたくさん蒐集している(Lévy‐Bruhl 1923)。溺れていた男を救ってやったところ、その男から高価な服を要求されたとか、トラに襲われて大けがを負った人を治療してやったところ、さらにナイフを欲しいと言われたとか、である。これらはすべて、西洋人側が現地の人に対して、贈与に相当することを行い、西洋人の観点からは現地の人の方からお返しの贈与があってしかるべき、と思われていたところが、逆に、現地の人の方からさらなる贈与を要求されている。これをどう説明したらよいのだろうか。
とてつもない忘恩のようにも思えるのだが、そうではない。忘恩であれば、わざわざ追加的な贈与を要求したりはしない(単純に無視し、関係を断とうとするはずだ)。次のように解釈すればよい。宣教師によって肺炎を治してもらった男は、当然、宣教師に感謝している。彼は、宣教師との親密な関係を維持したい。とりわけ、彼は、宣教師を自分にとっての「主人」のようなものとして尊敬したいと思っている――そして、そのことは宣教師側にとっても喜ばしいことだと想定している――のではないか。
ここで、主人とは何か、がポイントになる。主人とは、従者に対して、(価値あるものを)与え続ける者である。言い換えれば、従者は、主人に対して、いつまでも消えない負債の感覚をもちたいのだ。彼の方から何かをお返しして、負債を無化してしまえば、宣教師を主人として仰ぎ続けることが不可能になる。彼は、宣教師になおいっそう負債を負い、負債感を維持したいがために、さらなる贈り物を要求したのだ。当然主人たる宣教師が喜んで、何かを贈ってくるだろう、と予期して。


うーん、面白い。
このような贈与のありかたは、現代の日本にも馴染まない。贈り物をすべきは助けられたほう、というのがゆるぎない常識としてある。
だが、上の事例の狩猟採集民の感覚から眺めてみれば、助けてもらった相手に贈り物をすることは、相手との関係を断つ方向に働いていると言える。贈り物をして、感謝を伝える。そうすればそこで貸し借りは清算され、負い目を感じる必要はなくなる。そうなれば、それ以上相手との関係を維持する必要はなくなるのだ。
もちろんその後も関係を保ち続けることはできる。だが、贈り物をしてしまえば、そこで関係を絶ったとしても非礼とは見做されない。助けてもらった相手への贈り物は、基本的には関係を維持するのではなく、清算する方向に働くのだ。助けてもらった相手に贈り物をしたいと思う、その背後には、「貸し借りをなくしたい」「関係を清算したい」という願望も貼りついているのではないか。
その点を合わせて考えると、助けてもらった相手に贈り物を求める文化圏は、そうでない文化圏よりも、人間関係が密になるのは間違いない。だとすれば、「助けてもらった相手に贈り物を求める習慣」を日本に定着させれば、日本人の人間関係は今よりも密になるだろう。引用文にあるように、それは主従関係を基調としているので、「平等」を原理主義的に追求している日本社会からは反発されるかもしれないが。それに、恐らくは「助けてもらった相手に贈り物をする」のが日本社会の長年の常識だったはずで、それに反する習慣を易々と受け入れられるのか、という問題もある。(平等という点をさらに突っ込んで考えてみると、平等という観念があまり発達していない原始社会ほど、上下関係・主従関係に抵抗がないから、「助けてもらった相手に贈り物を求める」文化的傾向があり、平等の観念が浸透するほど上下関係・主従関係に抵抗が生まれ、「助けてもらった相手に贈り物をする」ほうに逆転していくのかもしれない)
なので、日本社会にこのような贈与の感覚を根付かせるのは難しいかもしれない。それでも、このような贈与のありかたもあるということ、現代日本の贈与のありかただけが唯一の形ではないことを知るのは、ひとつの希望のように感じられるのではないか。
少なくとも、僕はそう感じた。異なる視点を導入することで、自分の属する文化を相対化し、今とは違うありかただってあるのだと知る。こことは違う文化、違う時代には異なる常識があって、それはけっして非現実的なものではなく、自分たちの文化に移植することも可能かもしれないと気づく。それは思考の風通しをよくして、ほんのわずかでも社会の息苦しさを解消してくれる効果があるだろう。
ところで、助けてもらった相手に贈り物をする動因、恩返ししたいという願望は、「負債感」によって基礎づけられるものだ。この負債に関してもまた、大澤は鋭い考察を加えている。


人は長い間、そしてときには今日でも、「金を貸す人間」は邪悪な人物の典型であるかのように考えてきたのだ。もし負債こそが罪の中の罪であるとすれば、貸す者には何の問題もないはずだ。逆に借りながら、まだ返していない者こそが悪い。それなのに、金貸しは、いつも悪人である。
世界文学や民間説話を振り返ってみるとよい。金を貸す善人が描かれていたためしがない。『ヴェニスの商人』のシャイロックのように、金を貸す者は常に邪悪な側にいる。考えてみれば、この戯曲で、負債を清算していないのは、ヴェニスの貿易商人のアントーニオの方なのに、彼は善人として描かれている。『罪と罰』では、金貸しは被害者であって、罪を犯すのは苦学生のラスコーリニコフだが、読者は、ラスコーリニコフによって殺されたのが金貸しであることで、少しだけ安心しているはずだ。あんなババアは殺されても仕方がなかったんだ、と。(中略)
一般には、贈与交換における互酬こそが、正義の原型と見なされている。この通念に従えば、「互酬が未だに実現していない状態に対して責任があること」こそが、要するにお返しをせずに、負債を残していることこそが、罪の原型である。実際、ニーチェをはじめとする多くの思想家・哲学者が罪を、「負債の一般化」として理解してきた。
(中略)
贈与は、他者にとってポジティヴな価値のあるモノを、その他者にもたらすことである。それゆえ、一般に、贈与は、倫理的には善きこととして評価される。しかし、同時に、贈与には否定的な意味も宿る。なぜなら、贈与は、与え手が受け手を支配する力を生み出してしまうからだ。受け手側の負債の意識を媒介にして、贈与は、与え手が受け手を支配することを可能にする。
受け手の方に負債の意識が生ずる原因は、贈与が、一般に、互酬化されることへの強い社会的圧力を伴うことにある。与えた側は、ほとんどの場合、お返しがあって当然だと思っている。そして受け手の側は、お返しすることを義務だと感じている。お返しが実現するまでは――つまり互酬的な交換が未了のうちは――、受け手側は、与え手に対して負い目がある。このとき、受け手はどうしても、与え手が喜ぶように行為しなくてはならない、あるいは少なくとも、与え手に不快なことはできない、と思うことになる。与え手を喜ばすことだけが返済に近づくことであり、逆に、与え手を不快にすることは負債を大きくするからである。
このように、贈与は、他者に価値あるモノをもたらしながら、そのことを通じて、その他者を拘束する力を発生させる。「金を貸す人間」が邪悪な人物として描かれるのはこのためである。


この負債感は、助けてもらった相手を主人として仰ぎ見たい、という負債感とは異なり、ネガティヴなものである。助けてもらった相手に贈り物を求める、狩猟採集民のそれを「ポジティヴな負債感」と定義するなら、金を貸す人間を邪悪な者と感得するのは、「ネガティヴな負債感」と言えるだろう。
このネガティヴな負債感は、金貸しという職業が確立していないと生じない。金融経済がある程度発展し、金貸しが職業として確立していることを前提としている。なのでこの感覚は、金融経済が成り立っていない狩猟採集民などの原始社会には存在しないだろう。
また、この「負債感=金を貸すほうが悪」という感覚は、「助けてもらった相手には贈り物をしないと落ち着かない」という感覚とパラレルだと思われる。「負債を清算する=借金を返す」ということと、「恩返しをする=贈り物をする」という行為は、ともに上下関係・主従関係を均して平等にしたい、という願望によって駆動されているのだ。
だとすると、金を貸すほうを悪と見做すのと同様に、助けてもらった相手に対しても、少なからず嫌悪感を抱いてしまう、ということがあり得るのではないか。「借金=負債感」によって受け手が拘束されるように、「恩義」もまた負債感として感得され、それが返済されないうちは心理的な拘束として働く(世の中には、借りを作ることを極度に嫌う人がいるが、それはこの心理的拘束に対する抵抗感が人一倍強い、ということなのだろう)。だから早く恩を返したい、と思う。恩返しをしないうちは、助けた側は、助けてもらった側を拘束する。そうなると、恩義だけでなく、同時にわずかながら憎しみの感情も抱いてしまうのではないか。
恩人に対する、アンビバレントな感情。恩を返したいと思うそのとき、関係を平等にしたいとも、憎しみを抹消したいとも願っている。恩返しをして、恩義に報いることができたと喜ぶとともに、主従関係を解消できた、もう相手を憎まなくていいと安心してもいるのだ。
人の感情というのは複雑だ。だからこそ面白い。

一枚絵・『パトモス』

2024-04-15 23:57:02 | イラスト



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山崎製パン バナナクリームサンド

2024-04-12 23:27:53 | 
今日は果実挟みです。




ヤマザキパンのコッペパンといったら、苺ジャムを挟んだジャム&マーガリンが販売数一番ですけど、僕はあまり見かけないこちらのほうが好きです。バナナクリームだけでなく、あんずジャムも挟んであって、その甘酸っぱさが、バナナ感をよりリアルにしています。
些細なようで、意外と重要な話をします。女性服とポケットの話。
「アサデス。」っていう福岡の朝の番組があります。ニュースをメインに、エンタメやら地元情報なんかを扱う、テレビ朝日系列の番組なんですけど、ちょっと前にその中で、「女性服ポケット問題」というのが報じられていたんですね。
1月2日に、羽田空港の滑走路で、日本航空の旅客機と、海上保安庁の航空機が衝突事故を起こしましたよね。あのとき、旅客機の客はシューター(すべり台みたいなやつ)を使って避難しましたが、荷物を持ち出すことが許されませんでした。荷物がシューターを傷つけてしまう恐れがあるからです。アドバルーンみたいな素材なのですね。
そんで、男性はポケットに財布やスマホなどの貴重品を入れて避難することができたけど、女性はそれができなかったというのです。女性服には、ポケットがほとんど付いていないからです。
んじゃ、なぜ女性の服にはポケットが少ないのかっつーと、シルエットを美しく見せるため、なのだそうです。ポケットにモノを入れると、ラインが崩れる。それは美しくない。だからポケットがないのだと。機能性より見た目を優先した作りなのですね。
一応ポケットのある女性服もあるにはあるけれど、女性はバストのふくらみがあるから、胸の位置にはポケット付けられなかったりするし、女性は男性より身長が高くないので、そのぶん服の丈も短く、ポケットも浅くなりがちなのだそうです。浅いポケットだと、長財布は入らない。
そのため女性は、財布をバッグに入れて持ち歩くのです。「身につける」ことはほぼない。お昼休みのOLさんなんかは、財布を手に持って歩いてたりしますよね。いずれも、ポケットがないから(もしくは、あっても財布が入るほど大きくないから)そうしているのです。
今まではそのことを特に不便だと考えてはいなかったけど、1月2日の事故を受けて、やっぱり女性服にも、ある程度の大きさのモノが入るポケットがあったほうがいいんじゃないか、という声が起こっているのだそうです。
今まで見た目を重視してきたけど、それよりも機能性が欲しい。もしくは、見た目のよさと機能性を兼ね備えた服が欲しい、という要望が上がっているとのことでした。

僕もちゃんと考えたことなかったんですけど、これって些細なようで、けっこう大きな問題なんじゃないでしょうか。
なぜなら、ひったくりの問題とも絡んでくるからです。
ひったくりの被害者は、ほぼ女性です。男性は、まずひったくりに遭わない。
僕はその理由を、女性のほうが力が弱いからだと思い込んでいました。男性と女性では、基本的に女性のほうが力が弱い。だからひったくり犯(ほぼ男性)は女性を狙うのだと。
もちろんそれも理由のひとつではあります。でも、それよりも根本的な理由があったのです。
ほとんどの女性は、ポケットに財布を入れない(ポケットがない)。バッグに入れて持ち歩く。つまり、高い確率でバッグの中に財布が入っているわけです。
だからひったくりに狙われる。
女性のほうが力が弱いというのもその通りなのですが、そもそもなぜ「ひったくる」という行為が成立するのか、ということです。
ひったくりは、バッグ(などの荷物)を対象としています。ポケットに入っているモノは、ひったくることができない。
だからひったくり犯はバッグを狙うわけですが、バッグに財布が入っていると予測できなければ、ひったくるはずがない。
つまり、女性服にポケットがないからバッグに財布を入れざるを得ず、バッグに財布が入っているからひったくりという犯罪が起きるということなのです。なんということでしょう。
番組ではひったくりにはいっさい触れられていませんでしたが、むしろそちらのほうが深刻に検討すべき点なのかもしれません。航空事故など、そうそう遭遇するものではありませんからね。ひったくりのほうが身近で現実的です。
仮に、女性服に(長財布が入る深さの)ポケットが付いているのが当たり前になったらどうでしょう。ひったくりは激減、あるいは消滅するかもしれない。
まあ、機能性より見た目を重視する女性もいるでしょうから、そーゆー人は今後もバッグに財布を入れるでしょう。女性のコーディネートはバッグを含めて行うのが基本らしいですからね。だからたぶん、ゼロにはならない。
それでも、女性服にポケットを付けることで、ひったくりの激減が期待できるのです。ポケットを付けるという、すごく単純なことが、犯罪抑止に劇的な効果をもたらすかもしれない。これってけっこうすごいことなんじゃないでしょうか。
ひったくりができなくなれば、ひったくり犯は、ナイフを突きつけて財布を脅し盗る「路上強盗」に鞍替えする可能性もなくはないですが、それはかなりリスクが高い。今現在でさえ、路上強盗はほとんどいませんからね。やはりひったくりができなくなれば、あきらめるのが自然でしょう。
今までは、バッグは車道と反対側の腕にかけろとか、自転車カゴにネットを付けろとか、様々なひったくり対策が語られてきましたが、そーゆー対処療法ではなく、もっと根本的な解決策があったのです。女性服にポケットを付ける。バッグじゃなくて、ポケットに財布を入れる。
いずれ女性服にポケットが付いているのが当たり前になり、ひったくりという犯罪は過去のものとなるのでしょうか。
ただ、それがなくても電子マネーの普及によってひったくりは減っていくのかもしれませんが。
それでもポケットのある女性服が作られるにこしたことはないんでしょうけどね。選択肢は多いほうがいいですからね。

一枚絵・『ナグ・ハマディ』

2024-04-09 23:38:38 | イラスト



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明治 エッセルスーパーカップ 超バニラ・抹茶

2024-04-05 23:48:44 | 
今日はすごい器です。






王道バニラ(と抹茶)アイス。なんかスーパーカップのレシピってのもたくさん出回ってますね。僕は溶けかけを食べるのみ。
2023年3月、JR博多駅の駅ビル、JR博多シティに、専用エレベーターができました。車椅子利用者などの障害者、ベビーカー利用者、松葉杖使用者などのケガ人、妊婦、高齢者専用のエレベーターです。と言っても、新設されたのではなく、もともとあったエレベーターの一部を専用基に改修したのです。
特に車椅子の人やベビーカー利用者は、エレベーターになかなか乗れないという問題があります。その不都合を解消すべく専用エレベーターを作ったのです。
この対策は、おおむね好意的に受け止められたようです。でも僕は、なんかモヤモヤしました。
そもそも、なぜ専用エレベーターが必要とされたのでしょうか。
車椅子とベビーカーは、なぜなかなかエレベーターに乗ることができないのか。それは、車椅子とベビーカーより先に、健常者がエレベーターに乗り込んでしまい、場所を取る車椅子とベビーカーのスペースがなくなりがちだからです。乗り込むスペースがなければ、次のエレベーターを待つしかない。でも、次のエレベーターもいっぱいで、乗れなかったりする。
そうして、車椅子とベビーカーは、長々と待たされることになるのです。
これは仕方のないことなのでしょうか。そうではありません。
なぜこんなことになるのかというと、健常者が、車椅子とベビーカーにエレベーターをゆずらないからです。車椅子とベビーカーの不都合を考えず、我先にエレベーターに乗り込むから問題が起きているのです。
健常者も車椅子もベビーカーも、みんな対等なのでしょうか。エレベーターは早い者勝ちで、先に並んでいた人優先で乗るべきなのでしょうか。
そんなことはありません。車椅子とベビーカーは、エレベーターしか乗れないからです。階段とエスカレーターも利用できる健常者とは、ワケが違うのです。
だから車椅子とベビーカーを優先的にエレベーターに乗せるべきなのです。エレベーターに乗り込もうとする人々の中に、車椅子とベビーカーがいたら、そのぶんのスペースは確保し、それ以上健常者は乗せない。満員のエレベーターが開いて、車椅子かベビーカーがいたら、健常者は降りてゆずる。それをマナーとすべきなのです。
なんなら健常者は、階段かエスカレーターでもいいのですから。
そのようなマナーが日本社会の常識になっていないから、わざわざ専用エレベーターを作らざるを得なかったのです。僕は、これは恥ずかしいことだと思います。
ひょっとしたら、この手のエレベーターは、増えていくのかもしれません。それはいいことなのでしょうか。
単純に利便性だけを考えたら、いいことなのかもしれません。でもそうすると、健常者にはマナーが身につかない。車椅子とベビーカーを優先したり、見かけたときには、何か困っていることはないかと気にかける。そんなマナーを身につけることができなくなってしまいます。「専用エレベーターがある。だから気にしなくていい」と考えるようになってしまいかねないのです。
本来なら、専用エレベーターなど必要ないのです。健常者が、車椅子とベビーカーを優先するという、最低限のマナーをわきまえていれば、それで事足りるのですから。
その程度のマナーすらわきまえていない人たちが大多数だから、わざわざ専用エレベーターを設置せざるを得なくなるのです。これを日本社会の恥と呼ばずしてなんと呼びましょう。

同じようなことは、ほかにもありました。2023年6月、駐日ジョージア大使のティムラズ・レジャバさんが、電車の優先席に座る自身の動画をX(旧ツイッター)に投稿し、批判を浴びたのです。もともとフォロワーが多い方だったこともあって、大きな騒ぎになったようです。
「優先席に座るのは非常識」という批判に対し、レジャバさんは、「空いていたから座った。優先席を必要とする人が乗ってきたら立つ」という旨の反論をしました。僕も動画を観ましたが、電車はほぼガラガラで、優先席に座っていても問題ないように思えました。
それより気になったのは、批判していたほうの言い分です。レジャバさんに対する批判の声を読んで、僕は、「この人たちは、優先席に座ってなければそれでいいと思い込んでいる」と感じました。
電車でもバスでも、普通席に座っている若者は、お年寄りや妊婦さんが立っていても、ほとんど席をゆずろうとはしません。「優先席じゃないんだから、好きなだけ座っていてもいいだろ」とばかりに、立っている人のことなどおかまいなしに座っています。
では、普通席であれば、ゆずる必要はないのでしょうか。いくらでも座り続けていていいのでしょうか。
そんなことはありません。そもそも、優先席はごく限られているからです。
現在の日本は、かつてないほど高齢化が進行しつつあります。それはつまり、席をゆずるべきお年寄りもどんどん増えつつある、ということです。
ハッキリ言って、優先席だけでは足りないのです。
優先席は、席全体のごく一部。その数は、高齢化の進行(による、席をゆずるべきお年寄りの増加)に追いついていないのです。
では、優先席の数を増やすべきなのでしょうか。
それも悪くありませんが、弥縫策です。もっと根本的な解決策を用いるべきです。
では、根本的な解決策とは何か。
「優先席を廃止し、すべての席を優先席と考えるようにする」。これです。
先に言いました通り、優先席の数は、限られています。それゆえ、優先席が埋まっていて、普通席も空いておらず、お年寄りや妊婦さんが座れずにいる、ということがよくあります。
そのとき、普通席に座っている若者はどうしているか。何もしていません。
ひたすらうつむいてスマホをいじっているのです。「自分は普通席にいるのだから、好きなだけ座っていて当たり前。立っている年寄りがいようが知ったこっちゃない」と言わんばかりに。
このような若者が、正義ぶってレジャバさんを批判していたのです。なんと恥ずべきことでしょう。
自分はひたすら下を向いてスマホをいじり、立ちっぱなしのお年寄りには目もくれずにいるくせに、電車の混み具合を見ずに、優先席に座っているというだけでレジャバさんを批判した。こんな情けないことがあるでしょうか。
優先席が人の心理に与える問題点がここにあります。優先席があると、優先席を必要としない若者は、「優先席があるのだから、お年寄りや妊婦さんはそちらに座ればいい。普通席に座っていれば、それらの人々のことは気にしなくていい」と考えがちなのです。
でも、これが大間違い。だって、必ずしも優先席と、優先席を必要とする人の数が、イコールなわけないのですから。優先席を必要とする人が、優先席の数を上回ることだってある。高齢化がどんどん進みつつある現状ならなおのことです。
だから、普通席に座っていれば、高齢者や妊婦さんを気にかけなくていいなどというのは間違いなのです。
優先席を廃止し、すべての席を優先席と考えるようにすべき、というのはそのためです。
どの席に座っていようが、今満席かどうかを気にかける。満席であれば、席をゆずるべき人がいないかも気にかけ、積極的にゆずる。それが「すべては優先席」の態度です。
もっと言えばね、若者は最初から立ってりゃいいんですよ。体力あるんですから。
僕はそうしてますよ。ガラガラであれば座りますけど、ある程度混み合っていたら座りません。立って、座れずにいるお年寄りや妊婦さんがいないかを気にかけています。
だからね、鉄道会社とバス会社が共同で、「優先席は廃止します。すべての席が優先席だと考えるようにしてください」って宣言すればいいんですよ。難しいことじゃないと思いますけどね。

駐車場もそうですよね。ある程度広さのある駐車場だと、みんなお店の近くに車停めようとするじゃないですか。それもよくないですよ。
店の近くは、お年寄りのために空けておくべきなのです。体が丈夫な若者、体力に問題のない人は少し離れた場所に停めて歩く。
先に言いました通り、お年寄りはどんどん増えています。自分で運転するお年寄りも、家族に運転してもらっているお年寄りも、たくさんいる。
だから、それらお年寄りのために、お店の近く、入り口近くの駐車場は空けておくべきなのです。なのに、みんなそーゆ―配慮をせず、「一番近い駐車場はどこか」に目を光らせるばかり。
ああ、恥ずかしい。なんと情けない。

これって、日本人の国民性の問題でもあります。
日本人は、「こうしましょう」と言われたことはわりと素直に従いますけど、自分の頭で判断して人のためになることをしようとはしませんよね。「空気」に従い、場を乱さぬよう、「空気の中の決まりごと」には従いますけど、それだけやっときゃ充分だと思っている。「こうしましょう」と言われたことや、空気の中の決まりごと以外にも、人を助けるべき場面や、気を利かせるべきことがあったりするのに、そこには目を向けようとしない。あくまで、「決まりごとの中」だけで考えている。
アメリカ在住の芸術家・近藤聡乃さんが、コミックエッセイ『ニューヨークで考え中』(亜紀書房)の第1巻・第三十話で、「ニューヨークに住み始めてから、「日本人って優しい」と感じるようになった」という話を描いています。帰国した際、「補足情報まで教えてくれる店員」「重いものからカゴに入れるレジ係の人」「片方荷物を持ってくれる友人」などに接して、そのように感じたそうです(アメリカの友人は荷物を持ってくれないのでしょうか?)。
なのに、次の第三十一話で、近藤さんは「日本人は冷たい」と言い出すのです。なぜかというと、「飛行機で棚から荷物を降ろす時、日本人は手伝ってくれない。手を貸してくれるのは、外国人ばかり」だから、とのこと。近藤さんは、「日本人は優しいんだか冷たいんだかわかりませんよ」とボヤいていました。
これはいったいどういうことなのでしょうか。
僕の考えでは、「マニュアル内」と「マニュアル外」の違いなのだと思います。店員さんが気が利くとか、重いものからカゴに入れたりするのは、「そうすべき」というマニュアル、もしくは接客業の常識があるからです。みんなその決まりごとに従っている。その、「決まりごとに沿った行動」が、優しい関わり、気の利いた関わりとして表れるのです。
対して、「飛行機の中で、女性の荷物を棚から降ろしてあげる」のは、日本人のマニュアルにはない。マニュアル外だから、やろうとしないのです。より正確に言えば、やろうとしないのではなく、「やるべきか否か」という選択肢が浮かぶことすらないのです。マニュアル外のことは、意識すらしないからです。

少し前に、「信号機のない横断歩道で歩行者が待っていたら、自動車は止まらなければなりません」っていう呼びかけがよく行われていましたよね。それは道路交通法で定められたルールなのに、ほとんど知られていない。だからその周知のために、メディアでの呼びかけが頻繁に行われていたのです。
その結果、現在では信号機のない横断歩道に立っていると、すぐに自動車が止まってくれるようになりました。多くの人が実感しているでしょうが、劇的な変化です。
このように、日本人は、「こうしましょう」と言われたことには素直に従いがちです。でも、自分で考えて人のために動こうとはしない。
できることなら自分から動けるようになるべきなのですが、それは教育によって国民性を変えていかないといけない。時間がかかります。
だからその国民性を利用するほうが手っ取り早い。「エレベーターは車椅子とベビーカーを優先しましょう」「電車もバスも、すべての席が優先席です」「お店の近くの駐車場はお年寄りのために空けておきましょう」という呼びかけを広く周知し、社会の常識に登録させる。
そうすれば、それらが新しい「こうしましょう」になるわけです。日本人はみな、おとなしく従うでしょう。
日本人の国民性を利用した意識改革。このアイディア、どうでしょうか。