Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

サイモン・ラトルの貢献

2018-09-27 | 文化一般
日本ではロンドン交響楽団のツアーが話題になっている。そのツアー前の一連の新聞評なども目にするが、なによりもプログラムが味噌だ。シーズン初日では毎年英国音楽特集をやるというから、まさしくこれこそがベルリンでは出来なかったことだ。その毎年の選択を子供が駄菓子を選ぶように楽しんでいるというから、流石に還暦過ぎか。それでも先日も書いたようにこちらも同じようにサイモン・ラトルの若い頃の感興がフラッシュバックしてとても嬉しい。

そこに関係するが、ルツェルンからのアンケートに答えた。一言書き加えようと思って、忘れていたら催促が来た。これは本気で参考にするつもりだなと思って、早速答えた。なにを書こうかは決めていなかったが、直にこの夏のルツェルンの音楽祭での一つのハイライトを思い出した。前プログラムのプロジェクト「40min」無料小コンサートシリーズである。これを先ず称えた。これは手間でも自信を以って続けて欲しい。最初はフェスティヴァルのアカデミー連動企画でしかなかったのかもしれないが、ラトルが出て来ることでその意味が変わったのではないか。勿論その知名度や集客力更にモデレーターとしての巧さは絶品だからである。だから日本でマーラーなどを振らせておくのは勿体無いのだ。要するにキリル・ペトレンコ以上にサイモン・ラトルで商売をしようと思っても更にこの指揮者の本望からはどんどん遠ざかっていくと思う。

だから、その前プログラムプロジェクトと、毎年同じように訪れるであろうロンドン交響楽団のプログラムをタイアップさせることを要望した。上の英国音楽プログラムでも態々ベルリンからガボ・タークヴィとフィリップ・コッブの二人のトラムペット奏者をロンドンに呼び寄せていて、流石に頂点に居た人のその動員力を示していたようだが、ラトルの一声で大きなプロジェクトが動くことは、ロンドンで移民などの背景のある若者を集めて交響楽団がアカデミーを開いたことなど、今後そうした社会的な活躍がとても期待されている。ベルリンにおいても「春の祭典」のプロジェクトなどは最も大きな足跡となっているので、幅広い層に20世紀後半の音楽を広めて欲しい。そのレパートリーこそがサイモン・ラトルの貢献が必要なのだ。無料の前プログラムの素晴らしさは、まさにそこで、誰も金を払っていないからその創作に文句を言う人も居ないのだが、その音楽に素直に魅了される人々も少なくないのである。まさしくこの人たちへの働きかけこそに大きな価値がある。

ロンドン交響楽団の音がシャープだとか、指揮者との間に親密さが見られるだとか、色々と綴られているが、結局そこで語られていないことがベルリンのフィルハーモニカーの実力であった訳で、そこにこそ超一流の意味があったのだ ― 一例をラトル時代に挙げればブルックナー演奏におけるコムパクトな音楽運びなどに尽きるだろうか。なるほど未だに「揃うの揃わない」のとか書くジャーナリストがその上の超一流の極意というのは言葉で表現出来ないのは分からないでもない。吉田秀和の文章などを含めて「その違いが判るところ」を日本語で読んだことが無いのは当然なのだろう ― その割にその人たちはアメリカの超一流管弦楽団の抜きんでたその芸術性を語らない。

日本人が日本文化でこうしたことは外人に分からないだろうなと思うようなところが、同じように欧州文化にもあるのであって、私が推奨を受けていてもキリル・ペトレンコやらのユダヤ系ロシア人などのドイツ音楽などは眉唾物だった理由はそこにある。彼が本当に偉いのは、その天与の音楽性ではなくて、謂わんとするハイカルチャーの神髄としての音楽芸術にしっかりと対峙したことにある。あれほどの才能と機会を受けた人物ならば、なにもドイツ音楽の神髄など無関係で世界中を回って仕事が出来た筈なのだが、それどころか現在よりも稼いでいたに違いない。しかしそこはやはり父親の苦労を傍で見ていたことが大きな教えになったのだろうと今は想像する。



参照:
初心に帰る爽快さ 2018-09-09 | 文化一般
19世紀管弦楽の芸術 2018-09-04 | マスメディア批評

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