物差しの違ひ | 団栗の備忘録

団栗の備忘録

心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつけます。なるべく横文字を使はずにつづります。無茶な造語をしますがご了承ください。「既に訳語があるよ」「こっちのはうがふさはしいのでは?」といふ方はご連絡ください。

蹴球世界大会の日本対ポーランド戦における日本の戦ひ方が物議を醸してゐます。負けてゐるのにもかかはらず攻撃をしないで球を転がすだけといふ、遅延行為とも無気力行為ともいへるやうな試合運びで、一次予選を勝ち抜きました。ある者は「規則に違反してゐないのだから文句を言ふな」と言ひ、またある者は「無様である、情けない、恥を知れ」と言ってゐます。同じやうなことは高校野球にもあり、以前松井秀喜氏が甲子園に出場したときに五打席連続で故意四球を与へられた、といふことがありました。

 

この問題はどちらが正しいか、といふ問題ではないと思ひます。そもそも判断基準の物差しが違ふのだから議論はかみ合ひません。闘球や鎧球をしてゐるのに「球を手で持って運ぶといふのはいかがなものか」と非難するやうなものです。審判が従はなければならないものは蹴球規則(野球規則)のみであり、その他の物差し(たとへばある種の美学)で以て判断することは禁止されてゐます。甲子園の球審も「君も高校球児なら正々堂々と松井君と勝負したまへ」と内心では思ってゐたかもしれません。しかし野球の審判が従ふべき物差しは、野球規則のみであり、美学で判断することは許されません。従って審判は相手投手に対して反則を取ることはなく、試合はそのまま続行され、問題なく成立したのでした。蹴球の審判も、蹴球規則に「蹴鞠をしてはならない」といふ規則がない以上、笛を吹くことはできず、試合は適式に成立することになったのです。

 

卑怯であると非難する人たちの主張は、蹴球規則に従っての物言ひではありません。試合が適式に成立したこと、それは認めながらも(試合結果を覆すことはできない)、然は然りながらやはり美しくはないといふ、別の物差しによる判断をしてゐるわけです。「日本は規則違反をしてゐない」といふことと「試合運びが美しくない」といふこととは両立するので、どちらが正しいかを議論するのは無意味だと思ひます。

 

無気力行為か否かは判断が微妙すぎて、どうしても恣意的なものになってしまふことでせう。なので、反則行為とするのは現実的には無理があります。遅延行為といふ反則については、その度ごとに時計を止めれば(更には、時計の針を戻したりすれば)、遅延といふ現象そのものがなくなると思ふのですが、どうでせうか。

 

「規則の範囲内で競技をしてゐる以上は何をやってもよい、日本は違反をしてゐない」といふ意見をよくみましたが、それはどうかなあと思ひます。まづ「規則は守るものではなく、自分に有利になるやうに作り変へるものだ」といふ意識があまりにも希薄なのではないか、と思ひました。よくいへば生真面目な性格だといへませう。水泳や滑雪(スキー)で日本人選手が活躍すると、欧米はすぐに競技規則を改正します。規則そのものを改正してしまへば、「規則違反」ではなくなりますので。法律を遵守する側ではなく、遵守させる側にまはることができれば、かなり好き勝手なことができるわけです。『ドラゴン桜』といふ漫画にもそのやうなことが指摘されてゐました。法律を作る人(国会議員)を選ぶ行為=選挙において棄権をすることは「煮るなり焼くなり好きにしていいよ」といってゐるのも同然です。

 

それから「ここで反則をすることが得になると判断したら、あへて反則行為をすることも辞さない」といふ意識も希薄だと思ひました。一体、蹴球は反則行為に対する制裁が軽すぎます。もっと制裁を重くして「これはとてもとても間尺に合はんのう」といふくらゐ重くしなければダメだと思ひます。今大会で最も反則が多かったのは南朝鮮ださうです。これは朝鮮人が品性下劣だから、ではありません。彼らは反則行為をすることの利害得失を冷静に判断し、計算づくで意図的に反則行為をしてゐます。反則をしても大したことにはならないことをよく理解してゐるのです。彼らはバカではないので制裁が重くなれば反則行為をしなくなります。だから日本ももっと反則行為をするべきです。尤も、今大会から導入された「反則行為を得失点にある程度反映させる制度」によって、日本は勝ち上がることができたわけですから、この制度が今後も存続する限りは、あまり反則をしないはうがよいのかもしれません。ただこの制度はあまり評判がよくないやうです。あまりにも評判が悪ければ、次の大会からこの制度は廃止されるかもしれません。さうなると蹴球はまた「反則はやったもん勝ち」の競技に戻ることになります。規則違反をすることに躊躇ひを感じてしまふやうな気質を持つ民族に、蹴球はもしかしたら向いてゐないのかもしれません。

 

蹴球といふ競技自体は、弱者に優しい競技であると思ひます。弱者に厳しい競技は、実力の差がそのまま得点の差となってあらはれ、勝負がついてしまふ競技です。戦力51対49の二者が戦って勝負がつく競技だと、弱者が勝つ余地はほとんどありません。その点、蹴球の場合だとそれくらゐ実力が伯仲してゐれば同点引き分けで終はることも多いでせう。試験にたとへれば、超難関校の入試問題を、組の中では一番の秀才と、分数の通分もできないバカが解くやうなものです。あまり点差はつかないでせう。さう考へると、一点差で負けたのは、惜敗とはいへないと思ひます。野球でいへば、五,六点差負けくらゐだと思ひます。

 

(平成30年7月3日 加筆)