不思議なことがある。ファブリスの行動力についてである。ファブリスはワァテルローの戦いに馳せ参じる時には、情熱に駆られて無謀な行動力を発揮するのに、帰国してからはまったくそういうことがない。
旅芸人一座のマリエッタ・ヴァルセルラに慕われて愛し合い、それがきっかけとなって一座のジレッチという男の嫉妬を買い、正当防衛で彼を殺してしまうことになるが、それは偶然の成り行きであって、ファブリスの激情による行動ではない。
ファブリスは女性に愛される存在ではあっても、女性を愛する主体ではない。マリエッタに愛されながら、ファブリスは次のように考えるのだ。
(だが、世間で恋とよんでいる排他的で情熱的なあの張りつめた気持ちをおれはすこしも感じることができないというのはじつにおかしいことじゃないか。ノヴェラやナポリでの偶然の女との交際で、その初めのころでさえいっしょにいるのが新しく手に入れた良い馬に乗って散策するよりうれしいといった女に出会ったことがあったかしら? 恋などと世間でいうのは、やはりこれも嘘のひとつだろうか?)
ファブリスを恋人のように溺愛する叔母のサンセヴェリナ侯爵夫人に対しても、彼は情熱を持って愛を返すことができない。叔母の前でファブリスはいつでも理性的な態度を崩すことがない。
『パルムの僧院』について誰もこんなことは言っていないが、ファブリスは女性に対していつでも性的アパシーの状態にある。愛される男であっても愛する男ではないのだ。
それと同様のことが、ジレッチ殺害の罪で捕らえられ、ファルネーゼの塔の牢獄に入れられた時、ファブリスがそこを恐ろしい場所とはまったく思わず、逆に居心地のいい場所と考える場面でも言えるように思う。
周囲では彼を救い出そうとするサンセヴェリナ侯爵夫人とその恋人モスカ伯爵の必死の工作が続いているというのに、あるいは一方ではモスカ伯爵の政敵であるファビオ・コンチ将軍やラッシのファブリスを毒殺しようとする暗躍が渦巻いているというのに、ファブリスはまったくどこ吹く風といったありさまなのである。
ファブリスはファルネーゼ塔の目の前のファビオ・コンチ邸の3階にある、美しい籠に入れられたたくさんの鳥たちや、牢獄の窓から見えるアルプス連峰の眺望に魅せられて、彼は次のように言いさえするだろう。
(いったい、これが牢獄なんだろうか? おれがあんなに恐れていたのがこんな所だろうか?)
それに続くスタンダールの言葉。
「一歩ごとに不愉快なことや、腹立ちの動機を見ることなく、わが主人公は牢舎のここちよさに魅せられていた。」
これからファブリスがこの牢獄で目の前の邸に住むファビオ・コンチ将軍の娘、クレリア・コンチとの恋をはぐくんでいくことになるにせよ、これから始まる12年の禁錮刑を前にして〝ここちよい〟はないだろう。
ここに見て取れるのは、ファブリスの政治的アパシーとでも言うべきものであろう。パルム公国の大公を中心として、その周辺で繰り広げられていく権力闘争の犠牲者でありながら、ファブリスはそんなことすら考えない。
ファブリスは政治と恋愛から最も遠いところにいる存在なのである。スタンダールはファブリスを政治や恋愛の駆け引きの罪から免責しているのである。アパシーと呼ぶのが適当でないならそれを無垢と言ってもいいが、政治的な無垢ならばワァテルローの戦いの場面で十分発揮されているので、私はやはり〝アパシー〟という言葉のこだわりたいと思う。
彼の政治的アパシー、性的アパシーが強ければ強いほど、彼の周辺の権力闘争や恋愛の駆け引きの様相は際立ったものになるのである。