天皇の山陵 | ゆだぽんの♬虹色オーラ♬ブログ

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お寺や神社巡りで感じた事や、不思議な話・オーラについて…などなど書いています。

昨日の古墳の流れで、今日は『山陵』について書いていきたいと思います(^^)


☆山陵とは?
中国において帝王の墳墓の名称に用いられており、日本の上代の諸制度も多く唐制に倣い、歴代天皇の墳墓を「山陵」と呼び、国風には「ミササギ(御狭々城)」「ヤマ(山)」と称していました。

古来、陵(山陵)と称するものは天皇陵に限らず
神功皇后「狭城盾列池上陵さきのたてなみのいけのうえのりょう
日本武尊「能褒野陵のぼののりょう
聖徳太子「磯長陵しながのりょう
のように皇后や功績のあった皇子などの墳墓も陵と称していた例もありました。

聖徳太子陵(磯長陵)


それが「大宝令」制定以降
陵と称するのは天皇の墳墓に限る
とされ、その後…聖武天皇皇后の光明子以降は、皇后の墳墓も陵と称するようになりました。

この山陵の形式ですが例外はあるものの
上代の高塚様式
中世の堂塔様式
近世の復古高塚様式
のおおよそ3つに分けられます。

第1代神武天皇〜第7代孝霊天皇まで
→本来の陵形が明らかではない
(現在は円墳または山形)

第8代孝元天皇〜第30代敏達天皇まで
→前方後円墳
(第20代安康天皇・第25代武烈天皇は現在は山形、第21代雄略天皇は円墳)

第31代用明天皇〜
→円墳や方墳
(現在の第42代文武天皇は山形)

第38代天智天皇陵
→上円下方墳

天智天皇陵(山科陵)

薄葬令と儒教・仏教の影響により火葬が始まる

第41代持統天皇〜
→例外はあるが火葬が常態となり、山陵の上に卒塔婆を安置する傾向が現れ、やがて山陵の上に仏塔や堂塔を設けて、その中に遺骨を納める形式となる(卒塔婆様式)

乱世においては築陵がままならず、一つの法華堂に合葬することが生じる

第108代後水尾天皇〜
→土葬の復活

第121代孝明天皇
→円墳形式の山陵を復興

第122代明治天皇
→上円下方墳の形式

明治天皇陵(伏見城本丸跡)

鳥居がありますが、明治天皇からは神式となります。

大正15年制定の「皇室陵墓令」
陵形は上円下方又は円丘とする
との規定がもうけられ
第123代大正天皇陵・第124代昭和天皇陵
はその制に従って東京八王子郊外に上円下方形式の山陵が築かれました。

大正・昭和天皇陵(武藏野陵)

ちなみに。。。
江戸時代初期の天皇から昭和天皇までは代々土葬なのですが、平成天皇皇后両陛下からは、両陛下のご意向もあって約400年ぶりとなる火葬が復活するそうです。

以上ざっくりではございますが、代々の天皇陵の形式や流れなどを書いてみました

最後までお読みくださり
ありがとうございました 


今日は「青琴会」にいまーす
川崎ダイス7F 11時〜19時半


☆11月17日(土)はゆだぽん主催イベント
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