続きましては鶴岡八幡宮のすぐ近くにある『頼朝の墓(法華堂跡)』へ
入り口には『白旗神社』
ちょっと白旗神社について触れておきます(^^)
社名はお察しの通り、源氏が掲げた白旗に由来します。
白旗神社は関東を中心として、東日本に70社あまりあるとされています。
頼朝は亡くなった後、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜っており、白旗神社にお祀りされる白旗大明神とは源頼朝のことです。
白旗神社のご祭神は、この白旗大明神(源頼朝)か他の源氏の武将・源氏の氏神である八幡神が多いです。
やはりスポーツなどの勝負事のご利益が強いですね。
源頼朝はちょっと残念な亡くなり方をしたことでも知られていますよね(^^;;
ご存知とは思いますが、頼朝のお墓の記事なので一応その死因にも触れておきます。
1199年に53歳でこの世を去った源頼朝。
その死因で最も有力とされる説が、相模川の橋供養の帰りに「落馬」して亡くなったというもの。
落馬してから亡くなるまで17日あったといわれています。
脳出血が落馬を引き起こした
落馬して打ち所が悪く脳出血を起こした
落馬により川に落ちて溺死した
という説もあるようですね。
落馬の他には怨霊説。
安徳天皇や源義経の亡霊に祟られたというものです。この時代のお決まりコースですね。
さらには暗殺説。
頼朝のキツ〜い奥方の北条政子。その実家である北条氏に水銀を飲まされていたという話があります。
頼朝の子である頼家・実朝も暗殺されていますし、頼家の子の公暁も北条氏により暗殺。
可能性としては十分にあり得ますね。
〜希義公の土と石〜
源頼朝の父である義朝は「平治の乱」で平清盛に屈しており、頼朝は13歳の時に平家方に捕縛され伊豆国に流されました。頼朝には当時3歳だった同じ父母の弟「希義」がいましたが、希義は土佐国に流され、これ以降は一度として兄弟の再会がなかったそうです。
希義は兄の頼朝が挙兵した時に、平重盛の家人である土佐国の豪族に討たれています。
その兄弟の悲哀を想い、平成6年に互いの墓所の土と石を交換し、835年の時を経て兄弟を再会させました。
石はお墓の横にありましたが写真を撮るのを忘れました
頼朝の死因は一体何だったのでしょう⁇
鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」ですが、1196〜1199の3年間、頼朝の死亡に関する記録が抜けていることからも、単純に落馬とはいえない大きな謎がありそうです。
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