うたがうひとは、「ダヴィデ」を見よ | 加納有輝彦

うたがうひとは、「ダヴィデ」を見よ

 ジェノサイド・・・ウィグル族やヤジディ族の人々の惨状にいま、現在、この言葉がしばしば充てられている。

 

 若い頃、「ベートーベンの芸術(ナチス幹部は、ベートーベンを聴き、ユダヤ人を殺していた)は、ついにアウシュビッツを止められなかった」という歴史学者羽仁五郎のレトリックに、燃えるような正義感がみなぎり、自由都市フィレンツェの議事堂パラッツォ・ヴェッキオの正面に立つミケランヂェロの「ダヴィデ像」を語る氏のレトリックに、さらにその心は扇動され、己自身に投影した。

 

 60~70年代の若者を扇動するアジテーターと呼ばれた氏の面目躍如、一世代?遅れの私も例外ではなかったのだろう。

 

 ~ミケランヂェロは、いま、生きている。

うたがうひとは、、「ダヴィデ」を見よ。

ダヴィデは少年である。・・・・・・一本の石投げに石をもっただけで、ゴリアにむかって行った。

 

そして、少年ダヴィデはついに怪物ゴリアを倒した。 

・・・・・・・・・・

身には一糸もつけず、まっしろの大理石のまっぱだかである。

そして左手に石投げの革を肩から背にかけ、ゴリアを倒すべき石は右手にしっかりとにぎっている。

 左足はまさにうごく。

見よ、かれの口はかたくとざされ、うつくしい髪のしたに理知と力とにふかくきざまれた眉をあげて眼は人類の敵を、民衆の敵を凝視する。」(羽仁五郎著 ミケランヂェロより)

 

 今、当時感じたような「正義感」がよみがえっている。

人類の敵は、例えばウィグル族や、ヤジディ族に対するジェノサイドの執行者、独裁者、独裁政権である。

 

 そして、信仰者の私は、もう一つ。

 

多くの善良な敬虔な信仰者の信仰心を弄び、己の自己顕示欲を肥大化させようとしている御仁である。

 

 ジェノサイド、人間の肉体生命を弄ぶ行為は、万人が人類の敵とみなすのもであろう。

 

 しかし、魂の命である「信仰心」を弄ぶ行為は、ジェノサイド以上の悪であると私は言いたい。内心の自由を侵害されるとき、人は奴隷となる。


独裁者は、内心の自由、すなわち信仰心を認めない。関係ないように見えるが信仰心をもてあそび暴れている御仁と連動して世界の暗黒化を図っていると感じる。


 ゆえに私にとって、独裁政権と共に、信仰心を弄ぶ御仁は、人類の敵なのである。敬虔な善良な信仰者の敵なのである。

 

 少年ダヴィデの如く?中年の私は、怪物ゴリアを倒すべく石を強くにぎっている。

 

 その石は、私にとって「信仰心」そして「忠」の精神である。

 

 白髪のまじった髪のしたに信仰心にふかくきざまれた眉をあげて眼は人類の敵を、民衆の敵を凝視する。

 

少年ダヴィデに自己投影するオッサンを笑い給え(笑)大真面目なのである。

 

 

 

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