① 『魏志倭人伝』の里程と日程距離の乖離(ギャップ)
前回までのブログ『猿でも解る邪馬台国の位置』から判明しましたように、
『魏志倭人伝』の記す帯方郡から邪馬台国へ至る道程の解釈上最大の難問は、
伊都国-邪馬台国間が一千五百里、或いは
不彌国-邪馬台国間が一千三百里しかない里程の短さと
南投馬国へ至ること水行二十日
南邪馬台国へ至ること水行十日陸行一月
と記される日程距離の長さに大きな乖離(ギャップ)があることです。
この所謂【邪馬台国問題】に於いて、
里程を認めると自説が成り立たなくなる邪馬台国畿内説派は、
自説に非常に都合の悪い里程の記載は無視することにして、
自説に都合のよい日程距離だけを採用しようと決めたようです。
更に南とされる投馬国と邪馬台国の方角も東の間違いだと主張しています。
本来『魏志倭人伝』の記載を基準にして邪馬台国の位置を決めるべきなのに、
このように【邪馬台国畿内説】ありきでやっている邪馬台国畿内説派の方々は、
自分等の思考方法が全然科学的でないことを自覚すべきでしょう。
それに対し、邪馬台国九州説派の方は、里程の短さは丁度良いのだが、
南への日程距離が長すぎることを畿内説派に厳しく追及された白鳥庫吉は、
「南陸行一月は陸行一日の間違いである」と、つい言ってしまいました。
真面目な白鳥は長い日程をなんとかしないと九州説の危機だと焦っていたのか、
はたまた、相手が間違い説で来るなら、こちらも間違い説で行かねば“損損”と
安易な方向に流されたのかもしれないが、結局白鳥のその場しのぎの説により、
九州説派も畿内説派と同じ『魏志倭人伝』間違い説の土俵に上がってしまいました。
これで九州説派も『魏志倭人伝』を都合よく読み替えるのを認めたことになり、
これ以降、研究者の誰もが平気で『魏志倭人伝』を読み替えるようになりました。
私はまさにこのせいで【邪馬台国問題】が混迷化、泥沼化したと考えています。
② 里程と日程距離の両立を狙った古田武彦説
要は邪馬台国への里程と日程の両方を共に矛盾なく説明出来ればよいのであり、
そのような説が成立すれば、【邪馬台国問題】を根本的に解決できるはずです。
そこで、『猿でも解る邪馬台国の位置』で示した地図を見てみますと、
どうやら伊都国から邪馬台国迄の南一千五百里の里程
或いは不彌国から邪馬台国迄の南一千三百里の里程を認めたうえで、
上手くすれば、長い日程距離をなんとか解釈・説明できそうです。
実はこの里程と日程の両立案は、昔から研究されていまして、
既に昭和の後半頃には古田武彦氏により、
邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を、
投馬国でも伊都国でもなく、帯方郡に置く説が唱えられています。
『魏志倭人伝』はこういう読み方も可能であることを古田氏は発見したわけです。
しかし、古田氏説のオリジナル版は残念なことに、例えば、
「郡使は韓国西海岸を水行するも、途中で上陸し、その後は半島内を陸行した」
などと、いかにも机上において想像で作られた感の強い説となっています。
私の思うに現実の【帯方郡使の倭国への旅】はもっと単純明解だったはずです。
ところが最近、邪馬台国への『日程距離』を帯方郡に起点を置くアイデアは、
形を変えて【古田案】として復活し、特に邪馬台国九州説派の方々に歓迎されて、
【邪馬台国吉野ヶ里説】【邪馬台国朝倉説】などに引用されているようです。
但し、【古田案】では邪馬台国へ至る道程はなんとか矛盾なく説明できるようだが、
投馬国へ至る水行二十日との両立が巧くいかないように感じられます。
古田氏オリジナル説も邪馬台国への南水行十日陸行一月は帯方郡を起点とするが、
③ 『日程距離』の長さをうまく解消した榎一雄の【放射説】
それと私はやはり道程の途中に投馬国を挟む【連続説】には限界があると思います。
なにしろ、不彌国-邪馬台国間はたったの一千三百里しかないのですからね。
こんな短い区間に水行と陸行共に一月を連続的に挟むなんて、そりゃあ無理でしょう。
【連続説】はむしろ、里程を認めない【邪馬台国畿内説】の為に有る説と思われます。
- 閑話休題 -
京都大学の邪馬台国畿内説派と東京大学の邪馬台国九州説派の間で繰り広げられた
【邪馬台国論争】は、戦時中の混乱期を乗り越えると長い間膠着状態に陥りましたが、
当時東京大学白鳥庫吉教室出身の榎一雄は画期的な案【放射説】を考案しました。
【放射説】では『魏志倭人伝』の記す伊都国以降の記載、即ち、
東南奴国に至る百里、
東不彌国に至る百里、
南投馬国に至る水行二十日、
南邪馬台国に至る水行十日陸行一月
の何れもが伊都国から放射状に直接至る距離であるとしています。
しかも、伊都国から南の邪馬台国へ至る道程は、
水行なら十日、陸行なら一月で至ると読む、別々のルートだと云います。
これならば『魏志倭人伝』の日程距離で邪馬台国は九州北部に納まるわけで、
伊都国-邪馬台国間の一千五百里の里程ともうまく両立できそうです。
【放射説】が成立する理由は考案者である榎一雄の説明によると、
伊都国に関する記事に「郡使の往来常に駐する所」とあることから、
帯方郡使は来倭後、伊都国に留まり、実際には以降の国へ行っておらず、
伊都国において倭人からの伝聞で伊都国以降の道程を書いたからだとしています。
だから、伊都国以降の道程は伊都国を中心に書かれているわけです。
この榎の説明に対し、邪馬台国畿内説派などの【放射説】反対派は、
“『魏志倭人伝』は文法上放射的に読むことは出来ない”と反論しています。
しかしこのような言い分は、里程の記載を“全て無し”にして平然としている
邪馬台国畿内説派の「どの口が言うか!?」と云った話でしょう。
実際に、中国語を少しでも齧った方なら容易に理解できる話なのですが、
助詞の少ない中国語は主語述語と目的語の関係が日本語のように明確でなく、
ある文章が何処に掛かってくるかは、読み手の判断に任されることが多いのです。
つまり、『魏志倭人伝』の日程記事も放射的な読み方が十分可能となります。
いっぽうで、
古田武彦氏などの九州説派ながら【放射説】には反対する派による反論では、
『魏志倭人伝』には実際に、
「正使・梯儁らは印綬・証書を奉じて邪馬台国に詣で、女王に拝假(謁見)した」
とはっきり書かれているので、榎の言うような、
「帯方郡使は邪馬台国に詣でていない」論は成立しないとしています。
この反論に、どうやら榎は回答に窮したらしいので、代わりに私が答えましょう。
私は伊都国で邪馬台国に至る道程記事を【倭国報告書】に書いていたのは、
正始元年、実際に邪馬台国に詣で、卑弥呼に謁見した正使・梯儁らではなく、
その前年の景初三年に難升米らの倭使を倭国に送還する為に遣わされた、
(魏の正使ではない仮の使節である)帯方郡使だったものと考えています。
何故ならば、景初三年正月に明帝が急死すると、
その年魏は喪中となったために、正使の倭国派遣は翌年に持ち越されたが、
仮の魏使は倭使を送還する他に、どうやら倭国調査の使命を帯びていたらしく、
伊都国まで直接船で行かずに、わざわざ手前の末蘆国に上陸すると、
倭使に案内されつつ、倭国の光景と倭人たちの風情を鑑賞・観察しながら、
「行くに前に人を見ず」と記される程粗悪な道を、伊都国まで五百里陸行しています。
伊都国に着いた倭使は一大率に託されて、王都・邪馬台国迄無事送還されたが、
仮の魏使である帯方郡使は、王都・邪馬台国行きは許されずに伊都国に駐留し、
伊都国周囲の国々を散策しつつ、倭国に関する情報を収集して回り、
それを基にして【倭国報告書】を書き、帯方郡に持ち帰ったようです。
(※注;私の説は榎の【放射説】と少し異なるので、そのうち発表したいと思います。)
つまり、『魏志倭人伝』の伊都国に関する記事の中にある、
「郡使の往来常に駐する所」と記される郡使とは彼ら自身のことなのです。
私はこの文には、倭国の王都・邪馬台国に行けなかった
(魏の正使ではない仮の)帯方郡使たちの不満が籠っているように感じられます。
(次回へ続く)
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