『古事記』『日本書紀』の記す古代天皇の中でも第14代仲哀天皇はとりわけ謎が多く、

52歳時に筑紫国の香椎宮で急死したとされるその死にざまは特に謎に包まれている。

 

香椎宮楼門とその前に建つ大鳥居


 

香椎宮 拝殿の礼拝所
 

香椎宮 本殿

 

まず仲哀天皇は第13代政務天皇の子ではなく、第12代景行天皇の子・小碓命即ち、

熊襲・蝦夷征伐で名高い倭建命・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子とされている。

この辺、倭建命は実在性に乏しいとされ、そのせいで仲哀天皇の影迄薄くなったようだ。

だが、倭建命仲哀天皇も当時大和朝廷倭国統一の為の悲願だった熊襲征伐

九州迄遠征して行っているのだから、大和朝廷軍の大将としては実在したと思われる。

 

因みに仲哀天皇は即位二年に息長足姫皇后(神功皇后)にしたとされるが、

仲哀天皇は即位前既に畿内で従妹の大中津(オオナカツ)姫命と結婚しており、

忍熊王・篭坂王と云う二人の皇子も居て、即位時には二人共成人していたようです。

それでは何故、仲哀天皇は即位後に皇族である大中津姫を実質に落としてまで、

新羅王子とされる天日鉾を母方の系譜に持つ息長足姫皇后に迎えたのでしょうか?

 

普通天皇たるものが身内の皇族に対し、こんな裏切り行為を行うはずがありません。

この辺りがどうも『古事記』『日本書紀』になかなか整合性が取れない記載であり、

『記・紀』編纂部による事実の隠蔽と歴史の改竄がかなり疑われる部分なのです。

以上より過去の歴史家たちは仲哀天皇神功皇后も実在しないと考えたようだが、

『記・紀』登場人物の存在を簡単に消してしまうのは古代歴史家の悪い癖であって、

彼らが研究者としての自覚に乏しく、思考停止と責任放棄に他ならないと思います。


私の場合こんな時は必ず大和朝廷にとって何か非常に都合の悪い事実が存在し、

『記・紀』編纂部がどうしても隠蔽せねばならなかったに違いないと考えています。

だから今回は大和朝廷に非常に都合の悪い事実とは何かに迫りたいと思います。

 

因みに神功皇后研究家で『全国邪馬台国連絡協議会』九州支部長の河村哲夫氏は、

伝説の人物にしては神功皇后の伝承地があまりにも多過ぎると語っておられる。

やはり神功皇后仲哀天皇も実在したと考えなければ真実には迫れないでしょう。

 

【大和朝廷による熊襲征伐の真実】

 

ところで高天原=倭国は天照大神=卑弥呼の時代には九州北部に在ったはずなのに、

なんで倭国から発展した大和朝廷が自らの故地である北九州を襲うのであろうか?

 

ここで私は大和朝廷が自らの故郷の北九州を熊襲と呼んでいることに注目しました。

熊襲倭国と戦っていた狗奴国のことであり、倭国勢力の主体が畿内に東遷すると、

残された倭国の故地北九州は手薄となり、狗奴国に占領されたのではないでしょうか?

 

その証拠に南方系で熊襲隼人の文化と思われる派手な色彩を用いた装飾古墳は、

北九州のかなり上方まで見られており、熊襲は古墳時代になると次第に勢力を伸ばし、

北上して倭国の旧王都邪馬台国を突破し、旧葦原中国領域迄勢力圏を拡げたようだ。

 

卑弥呼時代の倭国の範囲(北九州と日向国を併合した後に、王都邪馬台国は畿内に東遷した。)

 

古墳時代の九州における装飾古墳の分布図(嘗ての倭国=女王国連合の領域がかなり含まれる)

 

こうなると大和朝廷としても捨ておけず、九州に熊襲討伐軍を差し向けたらしい。

 

仲哀天皇は豊浦津宮(下関市豊浦町)に宿泊し、神功皇后と合流して穴門から出陣、

筑紫国では岡湊縣主熊鰐(くまわに)伊都縣主五十迹手(イトデ)を懐柔させており、

旧倭国の重要な諸国が未だに大和朝廷の支配下にあることを改めて確認している。

因みに岡湊は神武天皇が東征の際に立ち寄った北九州遠賀川河口にある港であり、

伊都縣『魏志倭人伝』に記される伊都国のことでして、今の福岡県糸島市前原、

嘗て九州北部に在った倭国=女王国連合を監察する一大率が置かれていた国です。

 

【仲哀天皇大本営】 香椎宮の裏手にある仲哀天皇が熊襲征伐の本陣を置いた場所。

 

沙庭斎場 『古事記』に武内宿禰は沙庭(さにわ)にて神の言葉を聞き、仲哀天皇に告げたとある。

 

『日本書紀』の記す仲哀天皇の死の場面は筑紫国の香椎宮で祭祀を行っていた時、

神憑りした神功皇后が「西方にある財宝に満ちた新羅国を獲りに行け」と告げたのに、

仲哀天皇はこの言葉を信じなかった為に神の怒りを買って、急病で死んだとされる。

また別の伝承によると天皇自らが熊襲を責めたが、賊の矢に当たって死んだとある。

仲哀天皇の死因が病気か矢傷のどちらなのか『日本書紀』からでは判断不能だが、

『先代旧事本記』仲哀天皇は熊襲と戦い矢傷を負ったがそれで絶命していないとする。

 

これが『古事記』になりますと、仲哀天皇の死に関するもっと恐ろしい記載があります。

香椎宮で祭祀を行い、神功皇后が神憑りし、武内宿禰が狭庭でお告げを聞いていた時、

琴を曳いていた仲哀天皇は新羅攻めを主張する【神】に対し、一言申し上げました。

「今日私は高所に登って西を見ましたが海原が見えるだけで、国などありませんでした」

仲哀天皇がこう【神】に反論し、琴を弾くのを止めてしまうと、激怒した【神】は、

『凡そ、この天下はおまえの知らすべき国にあらず。一道に向かえー!』と叫びました。

即ち【神】『おまえには天皇の資格はないから死んでしまえー!』と恫喝したのです。

 

これを聞いて驚いた武内宿禰天皇をなだめ、琴を弾き続けさせたと記されますが、

ふと琴の音が止んだので武内宿禰が灯を点すと、仲哀天皇はもう息絶えていました。

こうやって仲哀天皇【神】の呪いを受け、不慮の死を遂げたとされるのですが、

その割に仲哀天皇の妻・神功皇后は夫の死を悲しむでもなく、葬式をあげるでもなく、

仲哀天皇の死を国民に隠さねばならんとして、配下の中臣烏賊津連・大三輪大友主君

・物部胆咋連・大伴武以連らに命じ、香椎宮の守りを固めさせたとあります。

そして武内宿禰に命じて天皇の屍を穴門豊浦宮迄船で運ばせ、仮葬したようです。

こうなるとやはり、仲哀天皇香椎宮神功皇后に殺された可能性が高くなります。

 

そして、神罹った息長足姫の発する神のお告げを狭庭で聞いていた武内宿禰が、

闇の中で仲哀天皇を刺殺した実行犯であることがもっとも疑われるわけです。

 

過去の研究者の多くも仲哀天皇を殺した実行犯は武内宿禰が最も怪しい考えました。

だがその理由は神功皇后を密かに慕っていた武内宿禰が嫉妬から仲哀天皇を殺した

とする説であり、しかも神功皇后がこの時身籠った子は自らが殺した仲哀天皇の死体の

脇の闇の中で、武内宿禰神功皇后と愛の行為に及んで神功皇后を妊娠させ、

応神天皇の父親となったとする、かなりドロドロした愛憎ドラマのような説であります。

 

だがその割に武内宿禰はその後の『記・紀』でも、常に臣下としての態度を貫いており、

更には弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)に嵌められ、応神天皇の前で弟と戦って

自らの潔白を明かすなどの記載があり、とても応神天皇の父親とは思えません。


では次回は応神天皇の本当の父親とは誰かについて考えてみたいと思います。

 

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