わたしは昨日、この物語を読み終わったはずだった。

「はずだった」と書いたのは、あまりにも読後の手応えがつかめなかったからだ。

 

この物語は、小説が好きな人たちがとある小説の謎を追いかける物語だ。

その小説は「熱帯」という小説で、それを手に取った人たちはなぜか最後まで読み切ることができずに「熱帯」を失くしてしまう。その後何十年経っても「熱帯」は見つからず、「熱帯」は知る人知る謎の物語となってしまう。

 

この物語では「熱帯」を読んだことのある人たちが手掛かりを求めて集い、「熱帯」の謎を解き明かそうとする。しかし「熱帯」の謎を追ううちにどんどん不可思議な方向に物語が進み、とんでもない方向へ展開するのである……。

 

わたしは危うくこの物語を投げ出しそうになった。

この物語の性質もそうだが、なんといっても単行本で500頁超はキツかった。熱帯のジャングルに迷い込んだような途方もなさを感じ、読んでも読んでも終わらないように感じられたのだ。

 

しかしなんとか読み終えられたのは、冒頭にこのような箇所があったからだ。

 

「俺たちは本というものを解釈するだろ? それは本に対して俺たちが意味を与える、ということだ。それはそれでいいよ。本というものが俺たちの人生に従属していて、それを実生活に役立てるのが『読書』だと考えるなら、そういう読み方は何も間違っていない。でも逆のパターンも考えられるでしょう。本というものが俺たちの人生の外側、一段高いところにあって、本が俺たちに意味を与えてくれるというパターンだよ。でもその場合、俺たちにはその本が謎に見えるはずだ。だってもしその謎が解釈できると思ったなら、その時点で俺たちの方がその本に対して意味を与えていることになってしまう。それで俺が考えたのはね、もしいろいろな本が含んでいる謎を解釈せず、謎のままに集めていけばどうなるだろうかということなのよ。」(31頁)

 

まさにこの読書ブログは「本というものを解釈」し、「実生活に役立て」ようとするためのものだ。

けれどこの引用では、自己都合での解釈を一旦やめて、謎は謎のままで置いておいたらどうなるか? と問うている。作中の登場人物との会話の一節なのだが、この箇所がわたしたち「読み手」を試しているような文章に感じられたのだった。

 

あなたは、一体どこまでこの物語を受け入れられるだろうか? というような。

 

読書ブログを運営している負けず嫌いのわたしはこの箇所を読んで「なるほど、それも一理ある。それではこの記述の通りに謎のままで受け入れながら読もうではないか」と応えたくなった。まさかここからあんなに壮大な物語になるとはつゆ知らず……(どれほど壮大だったのかは是非手にとって読んでいただきたいです!)

 

この物語を最後まで読み終えたとき、

そのものごとを語ろうとすればするほどそのものごとの本質からは遠ざかる。

大学の授業で先生がおっしゃっていたことをふいに思い出した。

 

そのものごとを語ろうとした時点で、語る言葉は「〇〇のような」とつくメタファーになってしまう。語れば語るほどメタファーの層は厚くなって、本質からどんどん遠ざかってしまうのだ。

 

この物語は、あえてそれを狙っているかのように感じた。

「あれはどういうことだったのか?」という解釈を待たずにどんどん物語を進ませた先に見えるものを描きたかったのではないかと思った。

 

ここで解釈を挟むのは癪なのだが、このままでは「何のこっちゃ」で大変モヤモヤしてしまうので、読み終わった現在のわたしの感想としてのメタファーを書き添えておきたい。

 

語ることは、生きた証を残すことだということを改めて感じた。

たとえそれが現実じゃないフィクションだとしても、誰かが生きた証が確実にそこに残っている。

この物語では「千一夜物語」が重要なものとして扱われるのだが、「千一夜物語」で処刑を免れるために千の物語を語り続けたとされるシャハラザードはそのことを体現しているように感じた。語ることは生きることなのだと。

 

まるで当たり前のことを書いているかもしれない。

死んでしまったら、語ることができなくなるのだから、そりゃそうだと。

だからこそ、ささいなことであれ、謎めいたことであれ、語られた言葉は誰かの生を主張する。

 

森見登美彦「熱帯」は、その生の証の「純度」みたいなものを極限まで高く保とうとした物語なのではないかと思った。

語られている瞬間こそ、誰かの「生」を間近に感じられる。それに解釈を加えれば加えるほど、生の証はきれいに「整いすぎて」しまい、純度が低くなる。

 

…なーんてそれっぽいことを言ってみたけれど、実際のところは全く謎である。

けれど、この物語は「小説、物語、文学への愛」が多分に潜んでいると感じた。読書家なら読み解ける文学小ネタがきっとたくさん潜んでいるのではないかと思った(わたしは作中で川端康成「雪国」の冒頭のような一節を見つけただけだけど)。

 

本が好きな人なら、きっと最後まで読み終えたくなる一冊である。