昨日、すごく悲しい報せがあった。

詳細は語らないけれど、それはすごく辛くて、しばらく何もできずにスマホをいじったりぼんやりしたりするばかりだった。

 

けれど、ぼんやりしたって仕方がなかった。

重い腰をあげて身支度をしたりごはんを食べたり、その日のやるべきことをあれこれ思い浮かべてやってみたりしたのだけれど、気をゆるめるとぼんやり感がやってきて、わけのわからない気持ちに襲われた。年末から風邪をひいていたので身体はややだるく、心はもっとだるかった。

 

今こうしてブログを書いているときもぼんやり感はまだ残っていて、こんなことしてていいんだろうか? という思いとぼんやりしてても仕方ない、という思いが行ったり来たりしている。

 

昨日は普段なら面倒くさがって放り投げていたとを、そんなに苦もなくやることができた。ぶ厚い小説を読み終える。欲しかった本を探しに行く久しぶりに万年筆を取り出して、ノートに自分の思いをドバーーーっと書きつける。手紙を書く。など。

 

いつもならすぐに集中力が切れてすぐスマホで楽天とかを見ちゃうのだけれど(昨日もお買い物したけれど)、昨日は夢中になって取り組んだ。2時間くらいぶっ通しで万年筆を握りしめていて、ちょっと手が痛くなった。自分の思いを筆に乗せることで、自分のなかのぼんやり感とある程度区切りをつけることができた。

 

自分の中のぼんやり感にある程度区切りをつけ冷静になったとき、わたしはすごく心細くなり不安になった。救いが欲しくなった。

ういう時に限って家には誰もいない。かと言って誰かに連絡を取るのも億劫すぎて気が向かなかった誰かと話がしたいわけじゃなかったのだ)。

 

そこで吉本ばななさんの名作『キッチン』を手に取った。

『キッチン』は、わたしの胸に優しく染み込み辛い心を慰めてくれた。

 

あまりにも名著すぎるので、どういう物語であるかの説明は割愛したい。

この物語は、この物語を必要とする人、というものを明らかにしている。読者を限定している! という暴力的な意味ではなく、風邪を引いている人のための風邪薬、という程度のものである。

 

『キッチン』の中には愛しい人たちとの素敵な思い出が詰まっている。けれどその底には凪いだ悲しさが横たわり、それは氷のように冷たく、一向に溶ける気がしない。

『キッチン』の登場人物たちはそれを早く溶かそうとしても駄目なのだということをわかっている。どんなことをしていてもふとした瞬間に冷たさが襲い、彼らを苦しませるからだ。

 

突然変なことを言うが、『キッチン』はとっておきの「書写本」だと思う。

ひらがなが多くて、書き写しがしやすい。そして、心に染み入るセンテンスがとても多い。

 

たとえば、こんな箇所。

 

「ものすごいことのようにも思えるし、なんてこのないことのようにも思えた。奇跡のようにも思えるし、あたりまえにも思えた。

なんにせよ、言葉にしようとすると消えてしまう淡い感動を私は胸にしまう。先は長い。くりかえしくりかえしやってくる夜や朝の中では、いつかまたこのひと時も、夢になってゆくかもしれないのだから。」(59頁)

 

万年筆で丁寧に書き写していると、一度染み入るように流れ込んだ言葉がもう少しゆるやかに染み込んでくる。あぁ、そうだ、その通りだなぁと改めて言葉を噛み締めて、その言葉の持つ繊細さに心が震え、そしてまた少し慰められるのだ

 

言葉を書き写しながらわたしは『キッチン』を必要とする人にあたるのだと思った自分で言うのも何なのだが、救いを求めている人のところへ適切なかたちでやってきた物語だと思った。

 

『キッチン』に出てくる人たちは、みんな大人だ。

登場人物はわたしより年下(大学生、高校生あたり)なのだが、彼らは誰もが経験するようなことではないことを経験してしまっているから、生きるということについて真剣に考え、向き合い、穏やかに諦めている。その諦めが、彼らを図らずも大人にさせている。

あたりまえのものなんて存在しないという辛さ。できればもう少し知らずに置いておきたかった真実。

 

図らずも知ってしまったこれらのことを彼らは時間をかけて飲み込み、飲み込みきれずに苦しみながら、周りの人の幸せを祈る。

どうか、どうか周りの人たちが温かな気持ちで過ごせますようにという祈りは、少しずつ悲しみを溶かしてゆく。


悲しみが溶けきることはきっと叶わないけれど、穏やかな気持ちをもたらしてくれる名作を、これから何度も読み返していきたいと思った。『キッチン』は、ぼんやりとした悲しみに包まれたわたしを救ってくれた一冊だった。


ありがとうございました。