小川榮太郎の新潮45の論考を検討する-一番炎上している人だあれだ? | 反新自由主義・反グローバリズム コテヤン基地

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今回は小川榮太郎さんの議論(駄論?)を検討してみる

 前回は新潮45の杉田水脈擁護特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」藤岡信勝の記事にて、藤岡信勝さんの新潮45の記事を検討しました。上記は結論から言えば、ただでさえ無理やりな杉田水脈論文を擁護しようとするあまり、「アメリカ最高裁の2015年の判決(LGBT同性婚を禁止するのは違憲)に、LGBT運動家から批判が集まっている」というような、ほとんどデマで間違いないだろうというようなでっち上げまでするはめになって、大変ですなぁ・・・という話でした。

 

 さて、それでも藤岡信勝さんの文章はまだ読むに値した、と言えるでしょう。構造は稚拙であり、論理はでっち上げによって支えられているとしても、文章としての形式は整えられておりましたのでわずかばかりの「知性(というか悟性)」は感じられたのです。

 小川榮太郎さんの議論は現在、新潮45の10月号批判でまっさきに取り上げられるものになっておりまして、内容がまさに糞味噌と言ってよろしいものであり、2番手に書かれているのですが・・・読むのが恐ろしく不快なのでためらっていたのです。

 

 まず最初の文章から引用しましょう。この部分に彼の主張の殆どが込められていることだと思います。

 彼の論考のタイトルは『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』です。

 テレビなどで性的嗜好をカミングアウトする云々という話を見る度に苦り切って呟く。「人間ならパンツは穿いておけよ」と。

 性的嗜好など見せるものでも聞かせるものでもない。(一部抜粋)

 なるほど、性的嗜好であればその通りでしょう。一般的にLGBTを語るときに「性的嗜好」ではなく「性的指向」となぜいうのか?「私は男性です」「私は女性です」というのは「性別の話」であり、LGBTも実は性別(セクシャリティ)の話に区分けされているからなのですね。

 私ことヤン、本名は高橋聡ですが「私はゲイ」なのです。戸籍上は男性であり、からだの性別も男性なのですが、恋愛対象も男性なのですね。

 一般的にマジョリティの「私は男性です」という紹介には、「恋愛対象は女性です。つまり異性愛者です」というごくごく当たり前のことが言わなくても付随されます。それと同様に「私はゲイです」となぜ言ってはいけないのか?

 別にテレビなどでカミングアウトする人も、どのような行為をしてどのように性交渉を楽しんでいるなんて言っていないでしょ。あれは自分の性別を名乗っていると解釈するほうが自然なことじゃありませんでしょうか。

 つまりのっけから「LGBTは性的”嗜好”であり、密やかに楽しむ性行為のみのもの」という「LGBT同士の恋愛や愛情さえ認めないような物言い」から始まるこの小川榮太郎さんの論文は「駄論」としか表現不可能です。

 端的に申し上げてこの人、性行為のみの問題にしてLGBTの恋愛の愛情や慕情すら認めないというスタンスは、相当にそういうものから遠い人なんだなぁ?としか解釈しようがありません。

LGBT議論に関して彼が無知なのは彼自身が言及している

 最初の書き出しから酷いのですが、途中の議論もまたひどい。小川榮太郎さんによると杉田水脈議員は大変評価されているようです。

その中で杉田氏には、多くの人が内心共感しつつも、黙らされているテーマについて果敢に発言する珍しい勇気蛮勇がある。

 この「果敢な発言」に含まれるものはなにか?「マスコミの同調圧力」「弱者利権」「外国による日本侵食工作」だそうです(笑)

 さて、一通りに杉田水脈議員の擁護をした上で、このようなことを言い出します。

 概念を認めた上で、差別だ、権利だ、いやそんなことはないという議論を膨らませていくこと自体が、イデオロギーに乗せられることに他ならないからだ。(中略)

 LGBTという概念については私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりのもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい。(一部抜粋)

 上記が一体何を言っているのか?議論の放棄と「俺が言っていることが正しいのだ」という押しつけ以外の何物でもないでしょう。つまり知性の放棄でしかなく、その後にこの小川榮太郎さんが何を論じても、それは「俺は知らんが、こう思ってるんだ!」以外の意味はないのです。つまり単なる駄文、駄論であると自ら告白をしているのです。

 

 さらにこのように要旨は続きます。

 こんなものは(LGBTのこと、筆者注釈)医学的、科学的、な概念でもなく、ましてや国家や政治が反応するべき主題などではない。文学的な、つまりは個人的、人生的な主題である。(一部引用)

 まず第一に百歩譲ってLGBTに医学的、科学的知見がないとしましょう。それならば保守主義だって保守思想だって「自然科学的な知見」ではないぞと。だいたい自ら「伝統保守主義者」と名乗る小川榮太郎さんが、なぜ「現実に存在している実在」に対して「医学、科学などの理性論」を振り回すのか?都合の悪い部分は「理性万能論」をかぶり、それで「保守主義者」と言えるのか?

 大いに小川榮太郎さんの「イデオロギー」に矛盾が生じ、疑義が生じる事態でありましょう。

 ちなみにこのあとに報道などでよく引用される「痴漢とLGBT」の例えが出てくるのですが、バカバカしいかつアホらしいのでカット。見たい方はhttps://www.huffingtonpost.jp/2018/09/20/lgbt-shincho45_a_23533247/を参照してください。

 

 最後にもはや駄文で書く気も失せてきたのですが、「生きづらさは救えない」という項について検討してみましょう。もはや駄文を引用するのも面倒くさいので、概要だけ箇条書きにしましょう。

  1. LGBT法連合会がLGBTが社会で直面する困難をリスト化し、それは264項目にも登る。
  2. このような発想は最終的に、原子論的個人に行き着くはずだ。
  3. なぜならば「困難から救うことを法整備に求めること」は、(困難からの保護を)全構成員が行政や法に求めることになるからだ。
  4. 政治は個人の「生きづらさ」や「直面する困難」という名の主観は救えないのだ。いや、救ってはならないのだ。

 まず第一に日本国民は法整備と行政によって保護されている、という現実を無視しないでほしいのですね。行政が整備されていなければ直面していた困難が多数あり、それが行政や法の整備によって保護されるのであり、そして国会及び行政はそれを遂行することが役割でありましょう。

 もちろんながら「LGBTの要求だけを聞け」などと言っているわけではなく、「どのような問題があるのか?」をリスト化して、行政や国会にお任せするのは「だめなこと」でしょうか?いや、民主制国家としてまさに民主政治の手続きに則って働きかけているだけであり、それを否定されるいわれもないんじゃないか?と思います。

 もちろんながら「何が必要で、何が必要でないか?」は国会や行政、国民を含めて検討、議論されるべきでありましょうし、そこにいろいろな意見が出てくるのも当然でありましょう。

 

 大体、「全て自己責任」といって1997年をピークに所得が下がり続けて、格差が広がり続けて、ストレートの大多数の人たちでさえ「生きづらくなっている」のに、これを救えないとは何事なのかっ!!そんなことならば政治も行政も必要ないじゃないか!という話になりますでしょう。

 行政や法整備、政策で「個人の生きづらさ」は救えるのですよ。じゃないと政治の意味がありません。

 

 ついでに概要の2)は「国家の保護が原子論的個人になるのだ」などと、非常にバカバカしく興味深いことを書いております。例えば同性婚の話にしてみると、国家とは国家(族)であり、社会の最小単位は家族であると言われております。

 とすると我々LGBTは原子論的個人にならざるを得ないのです。なぜならば「社会の最小単位たる家族をもつ法律も権利もない」のですから。つまり国家から浮いた根無し草になってしまう。

 それは婚姻という制度が憲法24条で「両性の合意により」と規定されているからです。

 つまりまあ・・・LGBTは同性婚がしたいのであれば、憲法改正を求めないといけなくてですね(笑)当然ながら困難なので、性急に求めるという姿勢は現実的ではありません。

 渋谷区の同性同士のパートナーシップも一種の婚姻だとすると、違憲の可能性があるわけです・・・・いや本当。

 

 つまり小川榮太郎さんは「政治で生きづらさは解消されない!」と言っているのですが、実は日本の根幹たる憲法において、つまり政治の根幹においてLGBTは「婚姻の権利はない」と定義されていて、「政治によって生きづらくなっている」という1つの証左になるでしょう。

 だから小川榮太郎さんの論は「駄論」「駄文」だと繰り返し述べるわけです。

※ちなみに何度も書いておりますけども、同性婚には憲法改正という必要も出てくるので、私は性急に求めるわけではありません。様々な意見や議論があって当然だと思っております。

P.S

 というわけで、小川榮太郎さんの新潮45の記事を読んでみたわけですが・・・まあ酷い。ちなみにこの人、以下のようにツイートしているようです。

小川榮太郎氏、新潮45炎上にツイッターで言及 「私の文章をそう読める人達の頭は大丈夫でない」(livedoor)

 

 じゃあ何をどう読んだらいいんだよっ!ていう(笑)というか物書きなんですから、「お前らの頭がおかしい!」とか批判している人たちに言う前に、「文章」で勝負しなさいっていう話であります。

 LGBTと犯罪である痴漢を例えとして同列に出しておいて、批判されたら「お前らの頭がオカシイんだ!」って(笑)男のヒスはみっともないのです。だいたい、自身の文章で散々に私達LGBTのことを書き”殴って”おいて、その文章が批判されたら人格攻撃とか底が知れるというものです。

 

 まったくもって新潮45の10月号はは「くだらない話」なのでありました。

 ・・・・もう捨てて良い?(笑)だって読みたくないのですもの(笑)

 

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