(この投稿はInstagram・Twitterでの投稿とほぼ同じ内容です。あくまでもメモとして。)
久々に上野・中野と時計巡りをした際の話。
このサンダーバード16264でさえ値上がりを始めているんですね。
通常モデルでも50万over、NGに至っては90万程の値が付いているものもあり、非常に驚くと共に少し悲しいような気分になりました。
最近はロレに対して求めているものが少し変わってきたと思います。
以前は兎に角レアポイントに拘っていました。
「赤なんちゃら」や「センターなんちゃら」を見つけては一人で盛り上がっていましたし、このサンダーバードにも10Pというところに個性を見出だしていました。
でもそれって「レアであることそのもの」に対して盛り上がっているだけで、「その個体の個性そのもの」に対する評価ではなかったことに気が付きました。
レアだから値が付くことは当たり前のことではありますが、そこから「値が高いから(ステータスとして)欲しい」というところに結びついてしまうのはどうなのでしょうか。
腕時計という一道具として向き合った時に「こいつのここがいいんだよ」みたいな、愛着のようなものからは次第に離れてしまっているのではないでしょうか…
先程サンダーバードの値上がりに対して悲しいと記述しましたが、過去のロレックスの「ちょっと背伸びしたら手に入る、モノとして素晴らしい時計」という側面は非常に面白いと思うのです。
距離感の近さと特別感との共存に成功させ、「自分の道具」としてガチャガチャと弄ることができる…
休日には壁が煤けたような店のシブい店主に時計に対する要望を投げてみたり、仕事終わりには居酒屋のテーブルに各々の時計を放っぽり出してわいわいやったり…
そういう、ある意味「昭和臭い」とも思えるようなところにもよさがあったと思うのです。
勿論6桁も素晴らしいと思っています。
でも5桁以前にあった経年劣化やアレンジは人間の個性と同じ様なものだと思います。
職場や学校で親しくやっていけそうな人を見つけた時のような…そんな感情を、1本1本の違いに対して抱くことができると思うのです。
6桁はよく「重い」とか「ラグジュアリー感がある」とか言われますが、要は「マシン的な完璧さ」がある…でもそれは、クォーツやスマートウォッチに対して抱く印象に似通ったものがある……と思うのです。
更に近年特に進んだ値段のインフレによって、「俺達の小道具」が知らないうちに「投機の対象」へと変わってしまった…
そして「コレクションへの
純粋な愛」だけでなく、「高級ブランドモノに対する接し方」を纏ってしまったのだと思います。
次第に「自分達のよく知る(ポジションの)時計」という立場が失われていっているところに、「昔はよかった」といった思い、ひいてはこの過剰とも言える値のつり上がりに対する違和感が出てくるのではないでしょうか。
僕は、サンダーバードというモデルは「いい時計ですね~(でも俺なら手元には置かないけどねw)」と思われてしまうような立場にもよさがあると思っています。
繰り返しにはなりますが、やっぱり自分の道具が投機の対象に様変わりしてしまう姿は見たくはないんです。
ところで、サンダーバードを一度完全なオリジナルに戻してみました。シースルーバックでないのは確かに残念ではありますが、ブレスを含めた装着時の統一感は素晴らしいですね。
見た目だけでなく、やはり使用してナンボのものですから、こういったところまで素晴らしいクオリティを叩き出しているのは流石ロレですね!