【症例】
70代 女性
先月初め、去年亡くなった母の遺品整理をするため田舎に向かう。
田舎に滞在している間、夜中にトイレのために起きると、軽く動悸がするということが何回かあった。
田舎から帰ってきて数日後の明け方、急に激しい動悸がして苦しくなり、家族に救急車を呼んでもらい病院に搬送された。
病院では心房細動と診断され、後日精密検査をすることになる。
以来、動悸はないが、全体にスッキリした感覚はなく、なんとなくけだるくしんどいとのこと。
● 診察
《気色診》… 少し暗いところで顔面の艶、色の抜け方、顔色の状態を診る
目の周囲が両目とも赤く腫脹している。心臓や肺臓の見所にも赤味が目立つ。目の充血もある。
普段はそのようなことはないが、処方された心臓の薬を飲み出してからそうなってきたとのこと。
また、口唇周囲の腎臓の見所は、明らかに黒く色抜けが目立ち、全体に艶がなくくすんでいる。
目周囲の赤い腫脹は服薬してからということなので、薬が心臓の熱を助長して腎臓の陰(水分)を蒸しているのか、あるいはもともとの腎虚(クールダウンする体力の弱り)が虚火(水の不足による相対的なヒートアップ)を生じさせているのか…
東洋医学的に薬がどのように作用したかは不明であるが、いずれにしても明らかに上実下虚(上半身に気が偏って下半身に気が不足する)の状態。
《舌診》… 舌の色や形状、苔の色や性状を診る
暗紅色で色褪せが強い 白膩苔 やや乾燥気味
やや内熱傾向(体内に余分な熱がこもっている)で陰血が不足気味(余分な熱をさます体力の不足)の状態を表す。
《脈診》… 脈の形状、速さ、硬軟、拍動、幅、推進力、それらの左右差等を診る
右:浮 左:沈 左右とも幅なし、推進力なし 結代なし 女脈
結代脈なく女脈ではあるが、深浅の境界が大きくずれているため、少陽(毒素を体外に発散したり下したりする働き)がうまく機能しておらず、治癒力が非常に働きにくい状況を示唆している。
しかも陰陽の幅が狭い(体を治そうとする体力の不足)ため、今は小康状態を保っているが、何かあれば容易に悪化してしまう不安定な状態にあると診る。
《腹診》… おなかの緊張や弛緩、冷感、熱感、圧痛等を診る
左右章門穴の表在と深在の邪気の絶対量が均等。心下・脾募(みぞおちの辺り)の虚軟が目立つ。
下腹、腎臓の弱りあり。虚裏の動(心臓の気の不足でおこる胸の拍動)は感じられない。
左右の境界が機能しておらず、やはり治癒力が働きにくい状況を示している。
また、虚裏の動(心臓の気の不足でおこる胸の拍動)はなくても、心下と脾募付近の虚軟の反応は、陽虚までいかなくとも心気虚・宗気の弱り(心臓の気の不足)を意識させる。
よく聞くと、発作時は冷や汗もかいたということからもその可能性をより裏付ける。
《ツボ》… ツボの発汗、弛緩、冷感、熱感、緊張等、それらの広がりや左右差を診る
肺兪、心兪、厥陰兪等の穴処は、意外に虚の反応が見られず実の反応。
脾兪、胃兪は左虚、右虚中の実の反応。腎兪以下の下焦を表す穴処は全て虚の反応。
心臓や肺臓の働きを阻害する気の停滞や熱邪等の邪気の存在を示唆する。
顔面の気色診もそれを裏付ける。また、脾腎(エネルギーを作り出し蓄える)の働きの低下が伺える。
● 診断
背部のツボだけを診れば、虚(機能の低下)ではなく、気の滞りや熱邪が心臓に異常なアクションをおこさせたようにもみえる。
ところが、陰の時間帯の発作やそれに伴う冷や汗、倦怠感、脈、腹が表す正気の乏しさを考慮に入れると、やはり直接的には心気虚(心臓の気の不足)により動悸が引き起こされた可能性が高い。
ゆえに、部分的に実に見えても全体的には正気の弱りを補うことを中心に治療を進めた方が良いと判断する。
● 治療
さっそく心臓の気を補いたいが、深浅、左右の境界が二重に機能していないため、いきなり心臓の気を補うと正気と邪気の消長関係が働かず、心臓肺臓に存在するであろう邪気を助長する可能性がある。
そのため、まずは任脈(体前面の真中にある流れ)を使って気を補うと同時に深浅・左右の境界を動かし、治癒力が働きやすい状態に導くことにする。
それにより、部分的に心肺に存在すると思われる邪気がどう動くかをみる。
処置① 関元穴(おへその下にあるツボ)に一番鍼で補法(気を集める) 10分置鍼…
抜鍼後、背部のツボ(肺兪、心兪、厥陰兪)を診ると、正気と邪気の消長が働いたためか実の反応は消え逆に虚の反応を呈している。おそらくこれが本来の反応のはず。
虚の反応を丹念に診ると左心兪の虚の反応が強いことから、油断はできないが未だ軽症であると診る。
ということで、ここでようやく直接心臓の気を補う。
処置② 陽池穴(手の甲側の手首にあるツボ)に灸を11壮すえる…
背部のツボに適度な緊張が生まれ、虚の反応が修復する。脈も幅が出て、深浅の境界もそろう。
● 効果
治療直後、口唇周囲の黒い色抜けが消え、目の周囲の赤い腫脹も引き、全体にくすんでいた顔面の気色に健康的な血色が入る。
顔色の劇的な変化に、付き添いのご家族も「いつもの顔色にもどった!」と驚くほどであった。
一晩寝ると体調もよくなり体もスッキリして本人も喜んでいるとのことであった。
また、常用していた薬も頓服的な服用に切り替えてもよいとの許可がおりたようである。
しかしながら、食欲はまだ完全に戻っている状態ではないのは正気の弱りがあるため。
それをある程度の段階まで回復させるにはもう少し時間がかかるが、そこまでできて初めて治癒であると考える。
● 考察
今回の症例は、もともとのベースとしての脾気虚・腎気虚(東洋医学でいう脾臓や腎臓の弱り)があるところに、亡くなったばかりの母の遺品整理をするの際の心の波風が、心神(自意識)の動揺をきたすことで、心臓の気血を推動させる力を停滞させ、もともと不足しがちな心肺に対する気血の供給がさらに不足することにより発症したものではないかと考えた。
心臓の症状ではあったが、東洋医学的に四診で総合的に診てみれば、それほど重篤な状態ではないと見受けられた。
しかしながら、病態の本質をとらまえることができなければ、いくら軽症であっても大病に繋がる芽を残すことになるのは明らか。
また治療においては、陰陽の境界を働かせることなくいきなり灸で心臓の陽気を補っていたら、心臓肺臓の邪気を助長して動悸を起こしていた可能性もある。
治癒力をうまく働かせる上で、陰陽の消長関係が機能しているということは大切なことであると考える。
稚拙な臨床内容ではあるが、東洋医学の視点から正しく病気をとらまえることができれば、鍼一本もぐさひとつまみが、誰もが持つ自然治癒力を最大限に引き出してくれるということを再認識させられた症例であった。