読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

朝鮮人虐殺:「これを悔いざる国民は禍(わざわい)である」

関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するトンデモ本『朝鮮人虐殺はなかった』(加藤康男著)は、流言蜚語をそのまま紙面に載せてしまった当時のデタラメな新聞記事などを根拠に、朝鮮人が暴動を起こしたのは事実であり、自警団などが殺したのはテロリストだったのだと決めつけている。[1]

 自警団の「覚悟」

 ここまでさまざまな経緯を見てきたことで、朝鮮人の襲撃事件が決して「流言蜚語」などという絵空事ではなく、実際に襲撃があったからこそ住民と自警団が自衛的に彼らを排除したのだということが理解されると思う。
 今日、流通している関東大震災関係の専門書の大部分は「流言蜚語のために自警団等が朝鮮人を虐殺した」という前提に立って書かれている。
 何もしない朝鮮人と見られる男が歩いて来たとしよう。
 町内壊滅の騒乱状態にあったとしても、町内会、自警団、青年団員がその朝鮮人をいきなり殺すなどという行為ができるものだろうか。何もしない人間を次々に「虐殺」するなどという行為は、狂人のような指導者がいて洗脳でもされていなければ簡単に実行できるものではない。
 だが、仮に爆弾や凶器、毒薬でも持ち歩く集団が町内に入って来たとすれば、自衛のため相手を殺傷する「決意」や「覚悟」が自警団員に発生するのは状況から当然である。そうしなければ自分たちの町が破壊され、妻や子が殺されるのであれば、先に行動を起こすのは正当防衛である。
 そうした強い覚悟があってこそ初めて可能な、そしておそらく手を染めたくもない行為をさせることになったケースを「流言蜚語」による「虐殺」とはいわない。それが自警団であろうと、警察官であろうと、彼の最終解決手段は正義といっていい。
(略)
 何もしない気の毒な朝鮮人を「虐殺」するようなヒマは、自警団にはありはしなかった。
 だが、誰からも強制されずに最後の覚悟によって自分たちの町内と家族の命を自分たちで護るという決意を持っていたのが大正時代の人々だった。


何もしない朝鮮人を虐殺することなどなかったと加藤は言うのだが、では次のようなケースはどうなのか?

湊七良証言[2]

 亀戸の五ノ橋に朝鮮人婦人のむごたらしい惨死体があるから見て来い、と言われた。女であろうと男であろうと、死んだ人を見るのはごめんだったが、見て来いと進めたのには特異な理由があった。それに近くもあることだから行って見た。一と目見て血の気が失われるような身ぶるいを覚えた。惨殺されていたのは三〇ちょっと出た位の朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。しかも妊婦である。正視することができず、サッサと帰って来た。一体この女性をこのような残酷な殺し方をしたのは吾々と同じ日本人だろうか、また殺してからこういうことをやったのであろうか。とにかくこの惨殺体のことは考えないことにした。

青木(仮名、当時15歳)証言[3]

  たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、三〇人ぐらい殺していたね。荒川駅の南の土手だったね。殺したあとは松の木の薪を持って来て組み、死体を積んで石油をかけて燃やしていました。(略)大きな穴を掘って埋めましたよ。土手のすぐ下のあたりです

大川(仮名、当時24歳)証言[4]

 二二、三人の朝鮮人を機関銃で殺したのは旧四ツ木橋の下流の土手下だ。西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。一挺か二挺の機関銃であっというまに殺した。それからひどくなった。四ツ木橋で殺されたのはみんな見ていた。なかには女も二、三人いた。女は……ひどい。話にならない。真っ裸にしてね。いたずらをしていた。(略)

田辺貞之助証言[5]

 石炭殻で埋立てた四五百坪の空地だった。東側はふかい水たまりになっていた。その空地に、東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にしてならべてあった。数は二百五十ときいた。(略)

 ただひとつあわれだったのは、まだ若いらしい女が――女の死体はそれだけだったが――腹をさかれ、六七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた。が、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあるのに気づいたとき、ぼくは愕然として、わきへとびのいた。われわれの同胞が、こんな残酷なことまでしたのだろうか。いかに恐怖心に逆上したとはいえ、こんなことまでしなくてもよかろうにと、ぼくはいいようのない怒りにかられた。日本人であることを、あのときほど恥辱に感じたことはない。

橋本實証言[6](神保原事件)

 私は、郵便局の向いの桝屋の西の角で見ていましたが、現場についた時はあらかた終っていて、二、三人が生きていてそれと問答しているところでした。子供をだいた女性が一人生きていて、子供をだきながら弱々しく「アイゴー、アイゴー」と云っていました。結局この女性も殺されましたが、ひどい殺し方で陰部を竹槍で突いたりしていました。

山下清証言[7](神保原事件)

 翌朝も見にいきましたが、その時迄三人位生きていました。女が一人生きていましたが殺されました。ひどい殺され方でね。国際というのか、外交的なことを心配して生かしておくと、朝鮮から調べにきた時、言われたら困るというので、皆殺してしまいました。殺されたのは三十幾人位でしょう。とにかく皆してたたくので物凄い音がしました。

森村長治証言[8](神保原事件)

 私が見たのはトラックが一台でした。数はわかりませんが……女の人もいました。女の人が二人は現実に見ましたが、確かお腹の大きい人もいましたが、実に、非常にむごたらしい殺し方でね………。私も「アイゴー、アイゴー」という声が、今でも耳に残っています。

新井賢次郎証言[9](本庄事件)

 惨殺の模様は、とうてい口では言いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査では、とうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。
 子供も沢山居たが、子供達は並べられて、親の見ているまえで首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも、途中までやっちやあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。(略)

樋口次郎証言[10](本庄事件)

 トラックが一台、門の中に止まっており、そのトラックの上で、七つ位の女の子が「アイゴウ、アイゴウ」と泣いているのを見ました。また、トラックからづり下ろされた男は、ある人が、薪割で頭を殴ぐろうとして、目の中にぶっとさってしまいました。むごいことするなあと思いました。(略)その後、すぐ家に帰ってしまいましたので、トラックの上の少女と縁の下の朝鮮人はどうなったかは知りません。恐らく、殺されたのではないかと思います。

命乞いをする身重の女性や幼い子どもたちをもてあそび、虐殺した者たちは、いったいどんな「覚悟」のもとでこの残虐行為を行ったというのか。これを正当防衛であり、正義だと言うつもりなのか。

当時、この虐殺事件の調査と告発に関わった吉野作造(東大教授)は、翌1924年の日記に次のように記している。[11]

   七月九日 水曜

 依然として暑い 午前例の通り少し早めに学校に行く 本期最後の講義、尤もっとも正式の講義は前週に終る 篤志の方には特別の話をすると約したので三名出席す 病院側の好仁会所属のレストランに引ツ張つて往つてアイスクリームを呑む(略)
 此日アイスクリームを一所に食べた学生の一人より知人の看護婦の話なりとて次の様な惨話をきく
 去年九月のこと千葉に朝鮮飴売の律義者あり 妻君は日本人なり 十三になる男の子あり
 あの騒ぎで主人公は忽たちまち殺され子供は学校よりの帰りに襲はれ片目はつぶされ からだ中疵きず穴だらけで病院に飛び込み来る
 喉が渇いて堪らぬので水を求むれども何処でも呉れぬ 病院なら貰へると思って来た どうか助けてとおがむばかりに頼む
 不愍ふびんに思ひ手当してやる
 すると之これを聞いた民衆が承知せぬ 出せ出せと云ふ 
 巳むなく因果を含めて出て貰ふ 跡ふり返り乍ながら悄然として出て行く
 すると物の一時間も立たぬうちに死骸となりて運び込まれたといふ
 夫それより十日程経て妻君は流産し又喉を突いて自殺をはかる 之も病院に運ばる
 傷は大したこともなかつたが産褥熱の為に之も果敢はかなくなる
 斯んな話は幾らもあるが直接取扱った人の話丈だけに印象が深い 之を悔ゐざる国民は禍わざわいである


あのトンデモ本作者のような人間は、まさに国の禍と言うべきだ。

また、これは関東大震災時の朝鮮人虐殺事件に限った問題でもない。南京大虐殺も、日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)も、731部隊も、三光作戦も、パターンはみな同じだ。

自国・自民族が過去に犯した過ちを悔いるどころか正当化し、開き直り、あげく被害者面さえする。それが末端のネトウヨやトンデモ本作者ばかりでなく、首相を先頭に与党議員らの大半までもが同類なのだから事態は深刻だ。こんな連中の好き勝手を許していたら、この国はまた同じ過ちを犯し、今度こそ滅亡するだろう。

[1] 加藤康男 『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』 ワック 2014年 P.168-169
[2] 湊七良 「その日の江東地区」 労働運動史研究37号(1963年7月)
[3] 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会 『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』 教育史料出版会 1992年 P.51
[4] 同 P.58-59
[5] 田辺貞之助 『女木川界隈』 実業之日本社 1962年 P.105
[6] 関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会 『かくされていた歴史 ―― 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』 1974年 P.90
[7] 同 P.94
[8] 同 P.97
[9] 同 P.99
[10] 同 P.112-113
[11] 吉野作造選集14 岩波書店 1996年 P.356-357

【関連記事】

 

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

 
関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―虐殺の国家責任と民衆責任

関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―虐殺の国家責任と民衆責任