日記

youtubeの垂れ流し

漫画の作業をしている時、BGMとしてyoutubeの動画を垂れ流している僕がいるので書き出し。

垂れ流しをする時

youtubeの垂れ流しをするのは下書きやペン入れなどの作業をする時で、プロットやネームなどの作業をする時には流さない。なので、頭を使わない作業をする時に垂れ流しをするみたい。

言い換えると、単調な作業をする時にyoutubeを垂れ流したりするのかなぁって思う。

また、単調な作業で「しんどい」と感じる僕がいる。なので、気を紛らわすという目的のためにyoutubeを垂れ流しをしたりするんだと思う。

垂れ流しをするのはおかしい

とはいえ、垂れ流しをするっておかしいんだよね。だって、僕は仕事をする時にはyoutubeの垂れ流しをしないから。だって集中できないもん。

もちろん仕事でも単調なデータ入力みたいな作業はあるんだけど、打ち間違いなどのミスをする可能性を考えると、youtubeを垂れ流しにするって選択肢は出てこないんだよね。

つまり、youtubeを垂れ流しているということは、そういうミスをする可能性を孕んでいるわけで、良くないことだと思うんだわ。

そういう悪いことなのに、なんでyoutubeを垂れ流しにするのか?

youtubeを垂れ流しにする理由

youtubeを垂れ流しにする理由としては、「余計なことを考えさせないため」って面があるんじゃないかって思った。

というのも、漫画にはアーティスティックな一面もあり、本能的に描いた方が個性が出てしっくり来るものが描けることがある。だから、本能的に絵を描くためにyoutubeを垂れ流しにして理性をそちらに追いやっていると考えると腑に落ちる。

けど、下書きやペン入れを「つまらない」と感じ、youtubeを垂れ流ししている面も確かにある。実際、下描きはまだしもペン入れに関してはなぞるだけの作業で単調。なので、その作業をしている時は理性が暇で手持ち無沙汰。だから、youtubeを垂れ流しにしていると考えると腑に落ちる。

どちらかと言うと「つまらない」の方がクリティカルな気がする。

もちろん、「余計なことを考えさせない」というのも、youtubeを垂れ流しにする理由としてはあるのだと思うが、僕はそもそも絵を描くのが嫌いで絵を描く事を楽しいことだとは思わない。なので、「つまらない」や「しんどい」という感覚が強く、それらの感情から目を逸らすためにyoutubeを垂れ流しにする。という理由が一番しっくり来る。

だから、「つまらない(しんどい)」からyoutubeを垂れ流しにする、というのが正しいんだと思う。

本能が絵を描いている

理性を追いやるためにyoutubeを垂れ流しにしているのであれば、下描きやペン入れ時は本能だけで描いているって事になるんだけど、絵って理性が無い状態で描けるもんなのか?

って考えると、本能だけでも描けるんだと思う。なぜなら、頭の中で考えていることを他人に伝わるように翻訳する必要が無いから。

というのも、頭の中のモノを他人に伝える時って日本語や英語などの共通言語に翻訳して伝える必要があるから「これだと伝わらない」や「こういう表現なら伝わるだろう」と言葉を発する前に理性が確認作業をする。けど、絵に関しては頭の中のモノをそのまま目の前の原稿に描き出せば良くて、他人に伝わるように翻訳する必要がない。それに、頭の中のイメージを見て模写をするだけだし、描いてすぐに他人に見せる場合も少ないから、理性無しに本能だけでも何とかなるんだと思う。

だから、理性無しに本能だけでも絵を描く事ができるのかなぁって思う。

youtubeの垂れ流しをするべき?

じゃあ、youtubeを垂れ流しをするべきか?
って考えると、僕の場合は臨機応変に対応すれば良いのかなぁって思う。

というのも、youtubeを垂れ流しにする時って「しんどい」って感じている時なんだよね。で、「しんどい」って感じるのは理性でさ、本能が絵を描いている時に隣で理性が「しんどい」って愚痴ってたら五月蠅いので、そういう時はyoutubeを垂れ流しにしてそっちに追いやっておいた方が楽なんだよね。

けど、絵を描いている時に本能だけだと躓くこともあって、それは絵を描く経験があまりなく頭の中のイメージの解像度が低いからなんだけど、そういう時にはyoutubeを聞きに行っている理性を呼び戻す。しかしその手間は無駄で、本来であれば本能が絵を描いている時に理性も一緒にいる方が効率的なんだと思う。

とはいえ、隣で「しんどい」言われても鬱陶しいから、そういう時はyoutubeを垂れ流して理性を追いやり、余裕があるならyoutubeを垂れ流さないで作業をするって感じで臨機応変に対応すればよいのかなぁって思う。

終わりに

youtubeを垂れ流しにする理由がわかったわ。

確かに絵を描くの嫌いだもんなぁ。「つまらない」や「しんどい」って理性が五月蠅いからyoutubeを垂れ流しにしているって考えると腑に落ちる。

けど、勉強も嫌いだったが、勉強をする時にテレビやyoutubeを垂れ流しにした経験は無いんだよね。

なんでかを考えると「翻訳」が必要かどうかって違いがある気がする。

というのも、勉強って文章を読んだりして頭の中で理解・記憶をしやすいように「翻訳」をする必要があるけど、絵を描く時って「翻訳」じゃなくて「印刷とかスキャン」なんだと思う。だから、プロットやネーム作業は文字を絵に「翻訳」する必要があるから理性が必要だけど、絵を描くのは「翻訳」ではなく「印刷」だから理性が不要。そういう違いがあって、勉強は「翻訳」(理性)が必要だからyoutubeを垂れ流しにしないって考えると腑に落ちる。

それに、絵を描いている時に理性が手持ち無沙汰感も「翻訳」作業をしていないからで、youtubeを垂れ流しにしているとyoutubeの内容を頭の中で「翻訳」して理解・記憶しやすいよう変換しているって感じで暇じゃない。暇つぶしできている状態なんだと思う。

というか、これ理性と本能で2つの作業(「翻訳」と「印刷」)をしているように見えるなぁ。実際どうなんだろう?感覚的には理性が高速で行ったり来たりしている感じはあるなぁ。だとすると、やっぱり絵を描く時に理性は留めておいた方が効率的な気がするし、絵を描く時に理性が「翻訳」する余地は残して置いた方がいいのかもしれない。

仕事もそうだけど、「どうやって遊ぶか?」が重要なのかもしれない。

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