茶室という小宇宙を司る「気」の場の考察

キーフレーズ「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。」

夏目漱石の『草枕』の冒頭です。

一見すると、平坦に見える茶室に敷かれた数枚の畳ですが、実は必ずしも同質ではなく、山路のように変化があり、初めは悩ましく感じることもあるようです。

それを如実に示すのが、足の運びで、裏千家流では席入り後、畳の敷合せは右足で越え、逆に、退席するときは左足で越えるという、右足と左足の運びには規則性があります。

 

細胞内での分子輸送では、方向性のあるトラフィッキングが規則性をもって行われています。

キネシン(kinesin)というモーターたんぱく質は、微小管上を順行して移動し、分子輸送を行います。

ダイニン(dynein)というモーターたんぱく質は、微小管上を逆行して移動し、分子輸送を行います。

 

「夫れ列子は風に御して行き、泠然として善きなり。旬有五日にして而る後に反る。彼れ福を致す者に於て、未だ數數然たらざるなり。此れ行に免ると雖も、猶お待つ所有る者なり。若し夫れ天地の正に乗りて、六氣の辯に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼れ且また惡なにをか待たんや。」(『荘子・内篇』逍遙遊篇)のように、道家の列子は、うまく風を捉えて空を飛ぶことができました。

 

裏千家では、陰陽五行説に則り、前進・上方・右は陽として、他方、後進・下方・左は陰として認識されています。

つまり、右足で越えるとは上方に向かうことで、左足で越えるとは下方に向かうことになります。

たんぱく質がD-アミノ酸を含まずにL-アミノ酸だけから構成されているのと同じように、また、ゲノムDNAとは別のエピジェネティックな機構による獲得形質の差異のように、もしくは、生殖細胞のDNAの突然変異のように、裏千家が席入り後、畳の敷合せは右足で越え、表千家では左足で越えるという違いも、進化論的な言及で説明されると思われます。

言わば、喫飲綱・喫茶目の煎茶科に対する抹茶科・佗茶属において、歴代家元の間で複製されて継承されてきた茶の湯DNAのゲノム間に潜むノンコーディング領域から転写されたノンコーディングRNAによって、右足が先、または、左足が先などの所作がエピジェネティックに規定され、裏千家流種などの各流派を形成しているのです。

現在の遺伝学では、獲得形質はDNAメチル化などによってエピジェネティックに子孫に継承されることが実証されています。

 

場(field)とは、時空の各点で何かしらの作用が現象として現れ、量として示されるものです。

マクスウェルの方程式で説明される電磁場、ニュートンの重力理論で説明される重力場、弱い力の場、強い力の場という4つの力の場、そして、物質場やヒッグス場などが知られています。

そして、茶室においては、「気」の場が存在していて、ユークリッド空間において一見すると畳は一様に平らのようでも、目には見えない「気」の勢いに基づくエネルギー差が生じていて、そこには法則が成立しています。

 

東求堂同仁斎にルーツを持つ本勝手四畳半の茶室を考察すると、床の間の前の貴人畳が「気」の場の量としてのエネルギーが最も高く、次に、点前座のある点前畳が「気」の場のエネルギーが高くなっています。

逆に、躙り口前の客畳、および、茶道口前の踏込畳は「気」の場のエネルギーが低くなっています。

そして、通畳、ないしは、炉畳の「気」の場のエネルギーは、中間くらいの高さになっていますが、貴人畳から踏込畳に向かってそのエネルギーが徐々に低くなっています。

客畳の「気」の場のエネルギーは、躙り口から床の間に向かって徐々に高くなっています。

 

足の運びは、気の場のエネルギーの高低に従って一方向性で行われます。

「気」の場のエネルギーが上昇していく場合は右足を進め、反対に、下降していく場合は左足を進めているのです。

 

重陽は、陽である最大奇数の9が重なっている9月9日で、強すぎる陽の気を和らげるために、重陽の節句が行われます。

陰陽五行説に基づいている茶の湯でも、このような緩和作用を意図した所作があることが推察されます。

 

席入りに際に扇子を前に置いて一礼して躙って入ったり、床の間の前では扇子を置いて一礼して掛軸や花生などを拝見したり、点前座では扇子を置いて釜や水指などの道具を拝見したりします。

扇子を前に置くという行為は、茶室や道具に敬意を示しているだけではなく、強すぎる「気」の場のエネルギーを弱めているとも捉えることができます。

 

「掛物ほど第一の道具ハなし」と『南方録』に書かれているように、掛軸は茶席ではとても重要で、禅僧の書いた墨跡は茶禅一味を具現化しています。

そのため、床の間の前は、非常に「気」の場のエネルギーが高くなっているのです。

また、在釜という言葉もあるように、釜も茶の湯では重要な道具で、点前座では「気」の場のエネルギーが高くなっているのです。

更に、若水や名水を用いれば釜や水指の「気」は高まり、そして、喫茶の対象である抹茶を内蔵した茶入や薄器も「気」を宿しています。

 

従って、強すぎる「気」の場のエネルギーを弱めるシールド、即ち、結界として扇子が機能しています。

こう考えると、結界である扇子を置く行為により、躙り口の前後には、「気」の場の大きなエネルギー差が存在していることが示唆され、俗世から切り離された茶室という空間の特異性がうかがえます。

「気」の場のエネルギーは、茶室内では連続性を持っていますが、躙り口の前後では不連続で、エネルギーが断絶して格差が生じているのです。

つまり、茶室は、個々のエネルギー準位を有した量子化された1つの小宇宙という位置付けがなされます。

small spaces

 

席入りして道具を拝見して、仮座から定座に着座した際、自分の後ろに扇子を置きますが、これにより、自分の座った場所の「気」の場のエネルギーが結界である扇子によって弱められ、長時間、茶室にいることができるのです。

この場所は、『草枕』で言うところの「安いところ」とも認識され、結果、茶の湯という芸能を生み出すことになるのかもしれません。

扇子を後ろに置いた結果、扇子を置く前は通畳から客畳へは右足で入っていたのが、扇子を置いた後は「気」の場のエネルギーが通畳よりも客畳の方が低くなったので、通畳から客畳へは左足で入ることになります。

また、扇子を置く前は客畳から通畳へは左足で入っていたのが、扇子を置いた後は「気」の場のエネルギーが通畳よりも客畳の方が低くなったので、客畳から通畳へは右足で入ることになります。

 

「気」は、その場に一定期間置かれた道具にも、結界で守られていないために宿ると考えられます。

つまり、亭主が袱紗や柴手水(揉み手)で清めたり、袱紗に触れた手で扱ったりすることで、茶碗や拝見物のような出された道具を客は触ることができるようになります。

真・行・草の四方捌きによって、東西南北や春夏秋冬という森羅万象が清められるだけではなく、その「気」も適度なレベルにチューニングされているとも考えられます。

奥伝では、点前座に座って直ぐに飾り火箸や盆を触るため、袱紗を腰に着けた状態でも「気」を和らげる効果があることが示唆されます。

そもそも、「気」の場のエネルギーの強い点前座に座って道具と対峙できるのも、袱紗の効果とも考えられます。

そうなると、包み袱紗というものの意義も違ったものになります。

それでも、唐物の茶入は「気」が強くて客も柴手水をする必要があります。

また、炭手前では初掃きなどの効果で、扇子を前に置かずに、釜の「気」で満ちているはずの炉中を拝見できます。

折敷や煙草盆や干菓子盆など、水屋から直接出された道具、または、席中を改めた際の置かれたばかりの道具の幾つかは、まだ「気」が満ちていないため、客は触ることができます。

 

思考実験の領域を広げて、逆勝手四畳半の茶室を考察すると、本勝手とは対称的な世界が存在します。

それは、反粒子から成る反物質で構成された世界ではないようです。

すなわち、床の間、畳、道具などの配置が逆勝手と本勝手では面対称になっています。

また、席入り後、畳の敷合せは左足で越え、逆に、退席するときは右足で越えるという、右足と左足の運びの規則性が逆転しています。

しかし、「気」の場のエネルギーの分布は、床の間の前の貴人畳、および、点前畳が高くて、他方、躙り口前の客畳、および、茶道口前の踏込畳が低くなっているように、変化はありません。

このような本勝手と逆勝手の状態は、互いにエナンチオマー(鏡像体、対掌体)であると言えます。

すなわち、炭素原子に4つとも異なる原子や官能基が結合した不斉炭素を1つ持つ分子では、右手と左手のように、鏡に映したような異性体が存在し、これをエナンチオマーと呼んでいます。

更に、不斉炭素が2つある分子では4つの立体異性体が存在しますが、互いに鏡像体ではないものはジアステレオマーという関係となります。

つまり、逆勝手という小宇宙と本勝手という小宇宙は、エナンチオメリックな環境にあります。

エナンチオマー同士では、化学的、物理的な性質に違いはありません。

マクロ的には、リガンドと受容体の結合という化学的刺激を介した味と匂いには、本勝手と逆勝手で変化はありません。

水の沸点や光の速度にも変化はありません。

本勝手でも、逆勝手でも、「気」の場のエネルギーの挙動に相違はないことになります。

但し、エナンチオマー同士の旋光度は、正負の符号が逆となっており、光を捉える感覚器である目を通して見た本勝手と逆勝手は、あたかも鏡に映したように感じるのです。

 

逆勝手では「ヒト」も袱紗を右の腰に着けたり、袱紗捌きを右膝の上で行ったりして、エナンチオメリックな存在として行動しているように見受けられます。

しかし、利き手が右手から左手になることはなく、右脳も左脳も入れ替わることはありません。

従って、「人」は、ジアステレオメリックな存在であり、茶室に潜む「気」の場のエネルギーなどのもたらす法則に必ずしも全て従っているとは言えないのです。

 

ジアステレオメリックな存在である人は、保持された主体性により、意思を持つ有機体として、心理学で言う「場の理論」による俯瞰目線を通じて、和敬清寂、一座建立、一期一会などの精神的な場の構築に従事する余地が残されているのです。

これが、茶の湯が長い間、受け継がれてきた本位であると考えられます。

 

結論としては、茶室内は一見平らですが、「気」の場のエネルギーが高低差を持って分布しています。床の間の前の貴人畳、釜・水指・茶入のある点前畳は、そのエネルギーが高く、逆に、躙り口前の客畳、茶道口前の踏込畳は低くなっています。このエネルギーが上昇する向きでは右足を進め、下降する向きでは左足を進めます。扇子は強すぎるエネルギーを減弱する結界として機能し、着座後に後ろに扇子を置くことで、その場所の「気」の場のエネルギーが通畳より下がり、それに伴い、足運びの左右も逆になります。このように、現代を生きる道士や陰陽師として「気」の場のエネルギーをうまく制御することは、和敬清寂などの精神的な場の創出に繋がり、その結果、茶の湯を楽しむことができるのです。

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