私は独自の日本史指導方法「長坂メソッド」を考案し、さらに日々発展させている。
そのための教材として作成したものが『テーマ別日本史解説集』であり、もちろん日本に類似のものはない。
そのメソッドは、もちろん人によって合う合わないはあるが、多くの高校生に納得して支持してもらっているし、しばしば県内1位の結果も残せる。
その一方で、それを形式だけ「模倣」しようとするケースもある。
これは極めて残念なことで、形だけ真似をしても、そもそも生徒からの信頼は得られないし、なによりも指導者としての良心が苦しい。
私が、偉そうに若い先生に言うことがあるとすれば、伸ばせる指導法とは「模倣」では決して得られず、何よりも自分がクリティカルになることが絶対条件である。
私の場合、市販されている参考書などは、もう15年以上見ていない。
唯一、参考にしているのは、入試問題の原本だけある。
そのなかで、過去の誰も思いもしなったメソッドを生み出そうと、もう20年以上、模索を続けている。
「伸ばせる指導」とは、いわばそうしたもので、いくら「模倣」をしても得られるものではない。
あなたがもし指導者ではなく、高校生だとして、指導を受けている先生が、いつも何かを「模倣」してるわかったら、果たしてその先生を頼りにするだろうか。
そもそも自分で探究しない指導者が、どうして生徒に、
「探究が大事だ」
「挑戦しろ」
などといえるのだろうか。
むろん、「模倣」ではなく、私のもとに教えを乞いにこられたのであれば、全力でサポートする。
ある野球で有名な愛知県の私立高校の日本史の先生などは、まさにそういった方である。
しかし日ごろは、私は、日本史の先生から、
「メソッドを学びたい。教えてください」
と言われることはほとんどない。
「聞く」ことは、いうまでもなく「探究」の基盤であり、それは「模倣」ではない。
もし、伸ばせることができる教員になりたければ、「模倣」をやめることであり、そこに良心を持つべきだ。
それこそ、独創への第一歩となる。
これは、教員に限らず、すべての分野でもあてはまることではないか。