「模倣」より「聞く」 | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

私は独自の日本史指導方法「長坂メソッド」を考案し、さらに日々発展させている。

そのための教材として作成したものが『テーマ別日本史解説集』であり、もちろん日本に類似のものはない。

そのメソッドは、もちろん人によって合う合わないはあるが、多くの高校生に納得して支持してもらっているし、しばしば県内1位の結果も残せる。

 

その一方で、それを形式だけ「模倣」しようとするケースもある。

これは極めて残念なことで、形だけ真似をしても、そもそも生徒からの信頼は得られないし、なによりも指導者としての良心が苦しい。

 

私が、偉そうに若い先生に言うことがあるとすれば、伸ばせる指導法とは「模倣」では決して得られず、何よりも自分がクリティカルになることが絶対条件である。

私の場合、市販されている参考書などは、もう15年以上見ていない。

唯一、参考にしているのは、入試問題の原本だけある。

 

そのなかで、過去の誰も思いもしなったメソッドを生み出そうと、もう20年以上、模索を続けている。

「伸ばせる指導」とは、いわばそうしたもので、いくら「模倣」をしても得られるものではない。

 

あなたがもし指導者ではなく、高校生だとして、指導を受けている先生が、いつも何かを「模倣」してるわかったら、果たしてその先生を頼りにするだろうか。

 

そもそも自分で探究しない指導者が、どうして生徒に、

 

「探究が大事だ」

「挑戦しろ」

 

などといえるのだろうか。

 

むろん、「模倣」ではなく、私のもとに教えを乞いにこられたのであれば、全力でサポートする。

ある野球で有名な愛知県の私立高校の日本史の先生などは、まさにそういった方である。

 

しかし日ごろは、私は、日本史の先生から、

 

「メソッドを学びたい。教えてください」

 

と言われることはほとんどない。

 

「聞く」ことは、いうまでもなく「探究」の基盤であり、それは「模倣」ではない。

 

もし、伸ばせることができる教員になりたければ、「模倣」をやめることであり、そこに良心を持つべきだ。

 

それこそ、独創への第一歩となる。

これは、教員に限らず、すべての分野でもあてはまることではないか。