小論文において、もっとも重要なことは、文章力でも知識でも起承転結でもないことは、誰でも知っているが、残念ながら小論文講座の多くは、それを目指してしまっている。
例えば50人、60人の大集団で、文章が配布され、
「お手本を参考に書いて、提出しましょう」
と言われ、いわ「なぞって」書いて、1か月後に「添削」されて返却・・・・
そんなことが5回繰り返される。
これで、小論文や志望理由書が書けるようになったら、それこそ奇跡だ。むろん面接も無理だ。
しかも、その指導には「解答」があり、それを書くことになる。
そもそも、論文とは「自分の考え」を書くことであり、知られている事実を書き並べるものではない。
「当たり前に疑問」を持ち、それにさらに「疑問」を重ね、自分なりの「仮説」を形成する。
さらに、その「仮説」を、事実や知識をもって「検証」「証明」してこそ小論文であり、間違っても「なぞって」なんて、それはコピペだ。
もっとも、世の中の指導は大半は、「お手本を参考に書いて、提出しましょう」であり、
いわば小論文なのに「一問一答」の暗記をさせている。
しかも、そもそも「疑問」を持つ習慣がないので、その論文に「疑問」もなく、指導にも「疑問」もない。
じゃあ、
「どうしたらいいのか? どうしたら思考の過程を書くことができるのか?」
という疑問を、指導者も高校生も持たず、ただひたすら「解答」を求めてあたかも「考え」を書いていると錯覚をしている。
いうまでもなく、これは「書くこと」ではなく、「思考」を学んでいる生徒にとって、極めてありがたい状況である。
もっとも、「思考」とは、なにも受験のために伸ばすのではなく、人生において大切であり、社会はとっくに「暗記型」が役に立たないことに気が付いているし、「思考」は生きていくうえでもっとも大きな財産になるし、暗記はAIにでもまかしておけばよい。
しかし、現実には、「思考」へのアプローチは容易ではない。
日本社会は暗記重視で世代を繰り返し、それはもはや文化であり、骨の髄までしみ込んでいる。
極めて特殊な一部の先生(ほとんどいない)を除き、大多数の先生は暗記が得意で、暗記の勝者で教員となる。
批判的思考が重要である認識は、批判的思考が日本の何倍も進んでいるアメリカでさえ危機感を持たれている。
大人数小論文講座は論外だが、日本の学校では、通常の授業でも、学校の認識は別として、批判的思考を育てようという意志の萌芽は見えない。
おそらく、この文章の本当の意味を読み取るのは困難なことであり、ほとんどの読者には、この意図は伝わらないであろう。
「暗記文化」とはそれほど手ごわく、さらには「疑問」を持たせない。
小学校の頃は、あれほど「なんで?」といって発言していた児童も、高校になると頭の中を空っぽにしてノートを取り続ける。
先生とのディスカッションなどあろうはずもなく、少なくとも私が聞く高校生で、学校で私がいう批判的思考を学ぶ機会はない。
ただ、高校生は、そうした常識にちゃんと「疑問」をもって、こんなんでいいんだろうか、大学入試に限らず将来は大丈夫だろうかと考える。
そんな高校生も少なくない。
そんな高校生が大人になった時、もしかしたら日本は、もっといい国なっているかもしれない。
私は、そんな将来を見ることはないが、そう信じて、この3か月、休みは3日しかなくても、一日14時間労働でも、高校生と一緒に「思考」と向き合ってきた。
それも、あと1日。
しんどくて、辛くて、眠たくて、腰も痛くて、、、、、、本当に本当に楽しくて愉快で充実した日々だった。
これこそ、勉強、学問である。