私と妻がバンコクへ来たのは、1996年9月。私たちの荷物は、段ボール箱2つと リュックサックであった。
私は日本でミニシアターの従業員として映画の映写とモギリの仕事をしていた。 28才で妻と結婚し、将来に漠然とした不安を抱えて生活をするのが嫌になり、好きなタイ語を勉強しようとバンコクへ来た。
最初の2年は、貯金を切り崩しタイ語の勉強だけをしていた。1日の生活費の予算は、300バーツ。しかし私がビールを買うと、あっという間に予算の300バーツを越えた。今になって思えば妻に悪いことをしたなとは思う。
当時私はタイ語を取得した後、日本へ帰国してタイ語の教師をしようと考えていた。しかしたった2年で、人にタイ語を教えることができる知識を得られる程、タイ語の勉強は簡単ではなかった。
その頃、長男が生まれ、そろそろ貯金も底をつきかけてきて「これからどうしよう」と妻と考えていた時、バンコクの無料情報紙に掲載されていた「タイ語ー日本語の翻訳者募集」の求人広告が目に入った。
アソークにあった「Professional Translation Service Co.,Ltd」を訪ねたのは、1998年12月だった。
上記の会社に勤めていた時、事務所で撮った写真です。
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