生きるということについて
いまだよく知らない僕が
とくとくと死を語るなんて
許されないことなのでしょうが、
すこしばかり前に
妻の母が亡くなったのを機に
死や生のことを
それまでよりも強い圧力で感じるように
なったような気がしているんですね。

妻の母は
だいぶ前から肺の病に罹っていました。
それが認知され
手術が必要とされたとき
彼女の家族にはある決定が求められ、
また
ある覚悟が促されました。
術後の彼女はだいたいにおいて常に
人工呼吸器をつける必要があったからです。



こういう表現は
亡くなった母に向かっても
彼女を見送った妻にたいしても
かなり適当でないと思いもしますが、
そのことは
同じ家に住む家族には
負担になるはずのことでした。

実際にも
義弟は仕事の合間を縫うようにして
病院へ通い、
退院して後も
なにくれとなく世話をしていたようです。

僕はそうなるはずの手術を彼女が受ける前に
妻から相談され、
ともに病院へ出向きもして
医師からの説明を聴きました。

 


正直いうと、
僕自身はある一定部分
そのように負担になることは
避けるべきだと思いました。
人には定命もあるわけだし
生死に関わることは
自然に任せるべきと信じてもいるからです。

ただ、
やはり
ともに住む家族の意向に
従った方がいいというのも道理だし、
人情として理解できなくもないので
強く意見を述べるのは差し控えました。

それから幾年か
義弟はかいがいしく母に寄り添い、
あたかも予定されていたような中で
それでも突然に引き起こった
彼女の死を寸前に見とることができました。

 


義弟は42歳です。
素直で、純朴で、心の底から優しい男です。
半ば以上親を棄てた僕からしたら
菩薩のような心根の人間に思える程です。

その彼が
ここ何年かに費やした時間が
無駄なものだったなんてことは
誰にも言えないことだし、
もし万が一
そういうことを宣う者がいたなら
僕は最速のスピードでそいつのもとへ行き、
その発言を心底から後悔させてやります。

と、
思っているにも関わらず、
僕はやはり人の生き死にを
他者が弄くりまわすようなまねに
違和感をおぼえてもいるんですね。

義弟の時間は無駄にならず、
その心情も正しいものであったと
信じてはいるのですが、
母の生がその終わりの年月に
平穏であり誠実さに溢れたものであったかは
疑問です。

まあ、
人情で語ることのみが
求められる社会であれば、
僕の発言は塵のように
消えるべきものなのでしょうけどね。

しかし、
人の命を
長らえさせることができるというのは、
それが可能であるのを示すだけのことで
僕たちが引き受けるべき命の有り様とは
かけ離れているように思えます。

母が亡くなって後に
妻がぽろぽろと落とした涙を見ても
僕はいまだそれを信じます。

僕たちには定命があり、
それが技術によって変更可能であっても
根幹は変わらないということを。

それを
無理無体に弄ることで
僕たちが多くのものを
失ってきたということを。

もしかしたら、
これを読んで
嫌な気分に
なった方がいるかもしれませんね。
ただ、
そうであっても僕は言います。

人の命を弄くるようなことは
もうよそうよと。



 お母さん、
つらかったね。
お家に帰りたかったよね。
でも、大丈夫。
もうなにも不足はないでしよ。
すべては満ち足り完成してるんだから。
どこに行く必要もなく、
あらゆるものが
明らかになっているんだから。

そう、大丈夫。
僕たちはずっとここにいるよ。


 

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