熊井女史はいつも濃いコーヒーを飲み、ハイライトを喫っていた。僕にこの話を聴かせてくれたときも大振りなマグカップにいれたコーヒーを飲み、話が終わるまでに十二本のハイライトを喫った。コーヒーを勧めてくれたけど、一口舐めるだけで僕はやめておいた。通常のストレスしか抱えていない人間の飲む代物ではなかったからだ。
「もちろん、最初は驚いたわ」
けむりを僕のいる方とは逆にとばして、彼女は話した。
「ま、あの子はいつも驚くようなことをしてたから、そんなにはね。でも、とんでもないことだとは思ったわよ。だって、やっと売れ出した女優がよ、まったく無名の――」
そこまで言って、熊井女史は口許を歪めさせた。
「どこの馬の骨ともわからない?」
僕は促すように言葉を挟んだ。
「そう。ごめんなさいね――」
歪めた口許を誤魔化すように笑ってみせてから、熊井女史はふたたび話しだした。ちなみに書いておくと、熊井女史が「ごめんなさい」と言うとき、それはほんとうに衷心から言ってるように聞こえる。「ありがとう」と言うときも、本心から言ってるように聞こえた。それは訓練を重ねてやっと手に入れられる技術であり、また訓練だけでは絶対に会得できないものなのだ。
「――でも、後になったらいざ知らず、あの頃はほんとうにどこの馬の骨だかも、どんなネズミの尻尾だかもわからなかったものね、あなたのお父さんは」
「そんなのと同棲をはじめてしまった」
「そう。売れてない芸人なんてゼロ以下だったのよ。それなのにあの子はのぼせ上がっちゃってね。ま、男にのぼせ上がるのはあの子の癖のようなものだけど、でも、あの当時はこんなふうには思えなかったわ。あの子が初めて男にのぼせ上がったっていうのもあるし、それに子供までつくっちゃって――ほんとうにごめんなさいね――堕ろさない、産む気だなんて言うんだもの。
そりゃ、あの子だけじゃなかったわよ。これからっていうときに男つくって妊娠ってのは。たいていはそれで駄目になるのよ。産んでも堕ろしてもね。魅力が落ちるの。女優としてキャリアを積み、価値が出てきて、それこそ一枚看板ともなれば、そういうことがマイナスにならない場合もあるわ。でも、はじめのうちに躓くと、そこから立ちあがるには時間も労力もお金もかかるのよ。さらに悪いことには、這い上がるためには才能も必要とされるの」
「あの人には、その才能があった?」
「あったわ。たっぷりとね。じゃなけりゃ、あなたを産んだときに手を切ってるわ。あの子には才能があった。魅力もね。草介さんに会わずにすめば、もっと違う道があったと思うわよ。もっといい仕事もたくさんできたと思う。でも、あの子はあれでいいのよ。もう四十年以上もつきあってるけど、あれほどの人間はいないって思うもの。あれほどの女はいないってね。あれほどの女優は、――それこそたくさんいるって思うけど」
僕は窓の外を見た。この話を聴いたのは春のことで、母さんは庭でなにかしてるようだった。大きなつばの帽子を被り、長袖のシャツに手袋まではめ、首元には薄手のマフラーも巻いていた。それは、いわゆる『女優ファッション』というやつで、紫外線の影響を最小に押しとどめる格好だった。
ただ、僕は母さんの姿を探していたわけではない。熊井女史を見るのを中断したかったのだ。彼女が最後の方に言った内容とその言い方は僕にある疑念を抱かせた。これを話していたのは、あの雑誌が出た後だったのだ。
「あの人は男で駄目になったと思ってる?」
僕はそう訊いてみた。熊井女史は新たな煙草に火をつけ、そこからたちのぼるけむりを手で払っていた。母さんがなにをしているのか見てるようだった。
「それはないとは言えないわね。でも、私たちの売り方にも問題があったのよ。清純派って、ねえ。
あの子は自分に求められてることを精一杯やってくれてたわ。だけど、無理してるとポキンって折れちゃうのよ。それに気づいてあげられなかった私にも問題があったの。ま、草介さんの言いようじゃないけど、すべてはなるようになってるのよ。そう、まるで『古い本に既に書いてあったかのよう』にね。
それに、あの子が草介さんを連れてきたとき、私は、ああ、これじゃ仕方ないかって思ったのよ。だって、あの頃の草介さんはほんとに凄かったもの。これから上へあがっていく人間の鋭さや、嫌味なほどの自信や、危うさをすべて持っていたの。それも、ひとつとして突出せず、バランス良く持ってたの。草介さんは美紗子に負けず劣らず魅力的だった。だから、私、許さざるを得なかったのよ」
《恋に不器用な髙橋慎二(42歳)の物語です。
どうぞ(いえ、どうか)お読みください》