時計を見ると、六時過ぎだった。夕食までだいたい一時間ある。僕はゆっくり走り出し、徐々にペースをあげていった。身体は固かったけど、ゆるい上り坂を過ぎた頃には温まってきた。いい感じだ。ただ、思考はいろんなものを拾っては目の前に放り投げてきた。温佳がしてる謎の行動、お金が必要ということ、スクリーンの貼ってあるワンボックスカー、市川さんの警告。
僕はいつ頃から温佳に変化があったか思い出そうとした。
たぶん、去年の秋頃からだった。では、それをもたらしたのはなんだろう? 去年の秋になにがあった? 僕は高熱を出して寝込んだ。温佳はずっと看病してくれた。そして、こういう声を聞いたのだ。
「あたしは、あんたをお兄ちゃんだなんて思ってないんだからね」
立ちどまり、僕は胸に手をあてた。息があがっていた。ペースを考えるとありえないくらい汗もかいていた。
空を見あげると、二月の夜は透明な空気に覆われていた。細い月が見え、電線越しにはオリオン座があるのもわかった。頭を激しく振り、僕は走りだした。
考えたくないことばかり浮かんでいた。これを溶かしこむためには何千キロも走らなければならないだろうと思えるほどだった。ただ、ひとつだけ溶かしこむ必要のないものを知っていた。温佳がなにをしてるにせよ守ってみせる――兄として、なにがあっても妹を守るというのが、それだった。
溶かしこめないものは、しかし、まだ他にもあった。高等部の三年になることだ。それはいくら走りまわっても溶けたりしない種類の現実だった。
「清春、いったいどうするつもりなの? なにかなりたいものとかないの?」
三月の頭にパーティーをしたとき、真昼ちゃんはそう言ってきた。
「たとえば役者になりたいとか、芸人になりたいとかでもいいわよ。陶芸家だって、小説家だっていいわ」
その日は『雛祭りパーティー』ということになっていたので(というのも変だけど)、父さんの弟子たちは雛飾り風の扮装をして飲み食いしていた。シゲおじさんや熊井女史、吉澤マサヒロ夫妻もいた。既に相当酔っ払っていた父さんはこう喚いた。
「そりゃ、選択の幅が広いんだか狭いんだかわからねえな」
真昼ちゃんは腕を組み、顔をしかめながら喚き返した。
「もちろん公務員だっていいのよ。もし、そんなのになりたいってならね。でも、問題はこの子にそういったものがないってことよ。そうなんでしょ? なんかないの? 将来の夢とか希望みたいなのは」
僕も一応は顔をしかめておいた。考える振りくらいはしておく必要があったのだ。
「見てみなさい、あの顔。考えてる振りしてんのよ。そんなのでごまかせるとでも思ったの?」
真昼ちゃんはそう言ってきた。僕は表情を曖昧なものに差し替えた。どうせ、バレてるのだ。
「いつもの顔になったわ。あれも見てやって。将来のことをこれっぽっちでも考えてたら、あんな顔してられるわけないわ。なにか反論できるなら言ってごらんなさい。あんた、いったいなにに興味があるの?」
周囲にいたほとんどの者が顔を向けてきた。僕は天井を見つめ、何秒か考えた――このときは真剣に考えた。
「うーん、走ることかな」
それを聞いた誰もが押し黙った。僕はよく感じる発言がこの場にそぐうものかわからないといった気分になった。そして、たぶん、これはそぐわないものだったのだろう。間違いではないけど、求められていたのと違っていたのだ。
「じゃ、マラソン選手ってとこかな。それくらいしか思いあたらないな」
田中和宏がそう言った。吉澤マサヒロはファインダーを覗きながら笑いかけてきた。
「そういや、カメラにも興味を持ってたじゃないか。それに、写真を見る目にはいいもんがあるって思うけどね。ま、俺のを褒めてくれるから言ってるんだけど」
「だったら、カメラマンか?」
田中和宏はあくまでも無遠慮に言ってきた。
「ああ、出版関係ってのもありだな。その審美眼が本物ならね」
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