「兄ちゃん、退きな。ほら、いいから、退くんだ」
兵藤功一はジュラルミンケースを手にしていた。それを石張りの床に置くと、鍵穴をじっと見た。
「知り合いか?」
市川さんがそう訊いてるあいだ兵藤功一はケースの内側にあるポケットから針のようなものを引き抜いた。それから、僕を見て、市川さんへ顔を向けた。
「教師だよ。一緒にここまで来た」
「そうか。で、そっちは?」
「隣の人間だ」
針のようなものの先端を見つめながら、兵藤功一は静かにこう言った。
「じゃ、あんたは部屋に戻るんだな。いま見たことは誰にも言わない方がいい。すべての人間にとって得にならないからな。こんなのは忘れて部屋でテレビでも見てるんだ」
もう一度鍵穴を見つめ、兵藤功一は針のようなものをそこへ挿した。
「おい、あんた」
市川さんがそう言いかけると、兵藤功一は立てた指を口許にあてた。隣の住人は押し黙ったまま僕たちを順に見ていった。ほどなくしてカチャリという音が聞こえた。兵藤功一は大きなペンチみたいなものを取り出した。すべてが静かに行われた。
「あんた、いつまでこんなの見てる気なんだ? 早く部屋に戻れよ。俺たちにはもう一仕事残ってるんだ。巻きこまれたくなかったら、さっさと戻りな」
隣の住人は怯えたようにうなずき、部屋へ入っていった。そちらのドアからもカチャリと音が聞こえた。兵藤功一は肩に手をおいてきた。
「すまなかったな。嬢ちゃんのためになろうとして、かえって変なことになっちまったようだ。だけど、大丈夫だ。――いいか? 後は俺が全部引き受けた。兄ちゃんは嬢ちゃんを助けることだけにしとけ。そっちの先生もだ。俺が全部やってやる」
ドアをすこし開け、兵藤功一は中を窺った。それから、チェーンを切った。
「俺が先に行く。兄ちゃんたちは後から来るんだ」
膝を幾度か擦るようにして兵藤功一は中へ入っていった。僕と市川さんは顔を見あわせ、後につづいた。玄関は暗く、真っ直ぐに廊下が伸びていた。奥にはガラスの嵌めこまれたドアがあり、オレンジ色の明かりが透けて見えた。天井からの明かりではないようだった。
「臭うな」
市川さんがそう囁いた。確かになにかが焦げたような臭いがしていた。
「燃やしたんだろうさ」
兵藤功一は興味なさそうに言った。奥へ向かうと、その臭いは強くなった。かすかな呻き声も聞こえてきた。僕たちは歩くのをやめた。心臓に冷たいものをあてられたような気分だった。右脚を引きずりながら、兵藤功一はドアへ近づいていった。そして、ゆっくりと開けた。
「誰だ?」
声がした。上杉のものだった。
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