ドアの内側からは話し声が聞こえてきた。そこへ入ろうとすると市川さんが引き止めた。彼は廊下の途中にあった別のドアを指していた。それはすこしだけ開いていた。
「なんか音がしたようだ」
市川さんはそう囁いた。奥の部屋からは重いものが落ちるような音がした。それからは静かになった。
「早乙女がいるのかもしれない」
僕はドアを開けた。カーテンが閉ざされ暗くなっていたけど、ベッドがあるのはわかった。中へ入ろうとして僕はなにかに躓いた。市川さんがスイッチを探し、灯りをつけた。足許にあったのは温佳のバッグだった。
「おい」
顔をあげると、ベッドには温佳が横たわっていた。シャツのボタンは外され、スカートもはいておらず、脚は剥き出しになっていた。
「温佳!」
僕は抱き寄せた。そのとき、手にねっとりした液体がついた。それは赤かった――血だ。
「温佳! 大丈夫か! 温佳!」
市川さんはベッドの下に落ちていたスカートを剥き出しの脚にかけ、手のひらを顔へかざした。
「気絶してるのかもな。――ああ、殴られたんだな。かわいそうに、痣ができてる」
「大丈夫なのか? 死んでるんじゃないよな?」
強く抱きしめながら、僕はそう言った。
「死んでなんかいない。大丈夫だ」
「でも、血が」
「こりゃ、早乙女のじゃないだろう」
その声は震えていた。市川さんは肩に手をのせると、顔をぐっと近づけてきた。
「お前はここで早乙女を見ててくれ。あっちに行く必要はないからな」
僕は温佳の顔に頬をあてながらうなずいた。そのすぐ後に、しっかりとドアが閉まる音が聞こえた。
「温佳?」
そう呼びかけても反応はなかった。
僕は手についた血をシーツで拭った。僕のシャツにもそれはついていた。掠れてはいたけど腹の辺りに痕を残した。奥の部屋からはくぐもった怒鳴り声が聞こえてきた。僕はベッドルームを見渡した。そこにあるすべてが間違ったものにみえた。ひとつひとつに必要以上の欲望がこびりついてるようだった。
温佳の顔は口の端に痣ができてる以外は普段となにも変わらなかった。僕は外れたボタンをかけなおした。白いボタンには、やはり赤く色がついた。
「――ん」
微かな音が洩れた。眉間に皺が寄り、半開きになった口からは苦しそうな息が吐かれた。
「温佳?」
「――ん、――清春?」
「そうだ」
瞼は一度強く閉じられ、ゆっくりとひらかれた。
「あたし――」
「ん?」
「生きてる? それとも死んでて夢みたいなの見てるの?」
「生きてるよ。これは夢なんかじゃない」
「そう――」
身体を動かそうとして温佳は顔をしかめた。
「あいつは?」
「奥の部屋にいる。市川さんとあのカメラマンもな」
「あいつもまだ生きてるの?」
僕は聞き耳をたてた。怒鳴り声はやんでいた。
「たぶん。さっき声を聞いた」
「そう」
温佳は身体を半分だけ起こし、スカートがかかってる脚を見つめた。それから両腕を抱えるようにした。
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