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加川良「 教訓 I 」1971年

2019年08月15日 | 自分史
加川良「 教訓 I 」1971年

 今年は加川良さんの三回忌です。
自分にとっての加川良さんはURCの黄金期のアーチストとして
「我が道を行く」とても眩しい存在でした。
終戦記念日の今日、偶然見つけたYouTubeの映像を見て感慨に耽ってしまいました。
「 教訓 I 」を初めて聴いたのは高校1年生だったでしょうか?
「たとえ再び、この国で戦争が起きようとも自分は参加しないで逃げ出そう」
と真剣に考えましたから影響力が強い歌です。

以下の情報は例によってウィキペディアからの抜粋です。( 以下の文は敬称を省略します )

滋賀県彦根市出身。
1970年代、アート音楽出版( URCの版権管理会社 )に入社します。
高田渡、岩井宏、岡林信康、高石ともやの影響でフォーク・ソングを唄い始め、
1970年の第2回中津川フォークジャンボリーでは飛び入りで「 教訓 I 」を発表しました。
一躍人気者に( 後に「教訓2」なぎらけんいちや「教訓110番」三上寛などパロディー作品も発表されました。)
アルバム『教訓』(1971年)でURCからデビューします。
「こがらし・えれじい」「偶成」を含む『親愛なるQに捧ぐ』(1972年)
中川イサトとのライヴアルバム『やぁ。』(1973年)をたて続けに発表。
また1972年、よしだたくろうの代表作『元気です。』に「加川良の手紙」
(作詞・加川良、作曲・吉田拓郎)という曲が収録されました。
1974年ベルウッドから名作『アウト・オブ・マインド』を発表。
1975年中川イサトの神戸市長田区でのオムニバスライヴ『鼻歌とお月さん』の
レコーディングに、いとうたかお・大塚まさじ・金森幸介・シバ・西岡恭蔵・長田タコヤキ和承と参加。
その後も石田長生らをバックに従えた『南行きハイウェイ』(1976年)
レイジー・ヒップとの『駒沢あたりで』(1978年オレンジレコード)を発表。

1990年代『ONE』『2』を発表。
岡林信康が一線から退いたのち、吉田拓郎と並んで“どちらがBIGになるのか?
といわれた時期もありましたが拓郎ほどの一般的名声を得ることはありませんでした。

拓郎がポップに変わっていくのとは正反対に、ストイックに自らの音楽に忠実に、
お金にならない歌を歌い続けたのが理由ともいわれています。
「 教訓 I 」の歌詞は大阪・梅田の地下街で手売りされていた
ガリ版刷りの文集を参考に作られたといわれています。
歌詞の内容は発表から40年以上を経て、発生した福島第一原子力発電所事故(2011年)や
集団的自衛権の行使問題(2014年)に対してもあてはまると加川は考えており、
そのため「歌うたんびに新曲だと思えるんです」とも語っています。

2016年12月14日に入院し、翌15日に急性骨髄性白血病と診断され闘病中とフェイスブックで公表。
2017年4月5日午前9時39分、都内の病院で死去。69歳没。

上のジャケ写は69歳で急逝した加川良さんのデビュー・アルバム『教訓』です。
はっぴいえんどの皆さんもバッキングで参加しています。



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