高杉晋作は何の為に戦ったのか?

こう聞かれれば、殆どの方が 「尊王攘夷を志し、奇兵隊を率いて討幕の為に戦った。」 と答えるでしょう。

 

今回のバイク旅で感じる事が出来た、”晋作が秘めた想いの一片” を紹介したいと思います。 お暇な方はお付き合いください。

 

 

 

毛利家恩古臣 高杉晋作

 

 

動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。 衆目駭然、敢て正視する者なし。 これ我が東行高杉君に非ずや。

( 初代総理大臣 従一位大勲位公爵 伊藤博文 評 )

 

 

 

 

”我、防長の任を受くるにあたり

志を募り 一隊を創設せん

之、名付けて奇兵隊といわん”

 

 

亡き吉田松陰の教え ”草莽崛起” (そうもうくっき)の精神を説き、長州全土から志士を募りました。

 

 

( 元治元年6月8日 奇兵隊創設 )

 

 

 

 

晋作は何の為に戦ったのか?

 

 

時は元治元年(1864年) 12月15日夜

 

「国を売り、君を捕らえて至らざるを無し。 忠臣義に死す! 是この時なり! 我、主君への義を貫き挙兵するものなり!  志ある者は我に続け!」

 

奇しくも、赤穂浪士が吉良邸への仇討ちを実行した同じ日に、藩の仲間たちに激を飛ばした晋作。 雪の降る下関を単騎で功山寺へと走ります。 

 

 

( 高杉晋作回天義拳像 功山寺 )

 

 

境内で独り待つ晋作の元に駆け付けたのは、晋作を兄と慕った伊藤博文(後の初代総理大臣)と遊撃隊を率いる石川小五郎ら三十有余名のみ…

 

 

”これよりは、長州男子の腕前お目に懸け申す!”  

 

 

都落ちし功山寺に逗留していた公家の三条実美対して、こう告げて挙兵した高杉晋作。 長州藩に対して仕掛けたクーデターとして、”功山寺義挙” と語り継がれていますよね。 

 

晋作が訴えた ”決起の大義” を読み取ってみると…

 

”主君敬親公と世嗣君を蔑ろにし、幕府の言いなりに長州を売る君側の奸たちを俺は討つ! 今がその時だ! 俺は毛利家への忠義を尽くす! お前たちも続け!” 

 

…と宣言しています。

討幕や尊王攘夷などとは、一言も言っていないのです。

 

では、晋作が決起に至るまでに、どの様な事が起きていたのでしょうか?

 

 

 

 

【 晋作、失脚を経験する… 】

 

 

文久三年(1863年)六月十六日 教法寺事件が発生。 

民兵の奇兵隊士が長州藩士を斬殺するという、前代未聞の大事件が発生してしまいました。 

 

 

 

 

その責任を問われ、晋作は奇兵隊総督を罷免されてしまいます。 晋作が初代奇兵隊総督を務めたのは、僅か三ヶ月間でしかありません。

 

 

 

 

【 悪夢のような ”元治元年” 】

 

 

晋作にとって、功山寺で挙兵した ”元治元年” は、筆舌に尽くしがたい悪夢のような年でした。 どの様な年だったのかと云うと…

 

 

・元治元年三月二十九日 晋作、囚人になる。


奇兵隊総督から罷免された晋作に、藩の幕府恭順派は晋作を潰す絶好の機会として、”藩に無断で京都へ行った” 、”中岡慎太郎らと土佐藩主久光公暗殺計画の密議に加わった” などという嫌疑で、晋作を野山獄へ投獄してしまいます。

 

 

・ 元治元年七月八日 池田屋事件発生

 

攘夷派志士による ”御所焼き討ち計画” を知った新選組、土方歳三・近藤勇らが池田屋を急襲。 

 

 

池田屋に同席していた 松下村塾四天王 吉田稔磨 斬死。

 

 

 

・ 同年七月十九日 禁門の変発生


前年に発生した ”八月十八日の政変” で、京都追放処分になった長州藩。 これに激高していた攘夷急進派たちは、藩兵を率いて抗議の上洛を準備。 抗議行動を止めようとした晋作・玄瑞らの説得は失敗…

 

 

来島又兵衛らが暴走し上洛すると、御所近くまで進軍。 蛤御門を守る会津藩兵に銃撃を仕掛けてしまいます…

 

「長州藩、内裏に向けて銃撃!」

 

この報を聞いた西郷隆盛は激怒。 自ら薩摩軍を率いて援軍に駆け付け、容赦ない攻撃を行います。 長州軍は薩摩軍から盛大な返り討ちに…

 

松下村塾四天王 久坂玄瑞と入江九一らは、公家の鷹司邸に仲裁を求めに行くも、交戦の末に無念の自刃… 壊滅した長州軍は長州藩邸に火をかけ、京都に大火を引き起こしてしまいます。

 

 

 

・ 同年七月二十三日 長州藩、朝敵となる

 

朝廷より、長州藩征討の勅命が下る。 幕府により、十五万の征長軍が編成され進軍開始。

 

 

 

 

・ 同年八月五日 第二次下関戦争 

 

米英仏蘭は17隻の大艦隊を率い下関を徹底砲撃、砲台を破壊するだけでなく、陸戦隊を投入。 長州藩は応戦するも惨敗、夷人に下関を放火 ・ 一時占領されるという恥辱を味わう。

 

 

 

 

奇兵隊総督を罷免、入獄・謹慎を強いられていた晋作に…

盟友の松下村塾四天王たち三人の死の報が次々と届きます。

 

故郷は朝敵賊軍の烙印を押され、東からは幕府軍十五万が進軍開始、西の海では欧米連合艦隊が下関を砲撃、破壊・放火・占領… 攘夷だ尊王だと言っている状況じゃありません。

 

元治元年、長州藩は四面楚歌… 絶体絶命。 

 

 

 

 

【 隠された晋作の決意 】

 

 

功山寺で決起する直前、晋作の故郷は空前絶後の窮地に陥っていました。

決起にあたり、晋作は死の覚悟を記した手紙を ”奇兵隊のパトロンであった白石正一郎宅” に送っています。

 

この手紙には、「今後、もし自分が死んだならば、これを君に託す。」 と、晋作が自ら決めた ”墓碑銘” が記されていました。

 

 

 

 

死しても恐れながら天満宮の如く成り、

赤間関の鎮守と相成り候志に御座候。 

別紙詞作御覧頼み奉り候。

 

 

~ 墓石表 ~

 

故 奇兵隊開闢総督 高杉晋作則

西海一狂生東行墓

遊撃将軍 谷梅之助也

 

~ 墓石裏 ~

 

毛利家恩古臣 高杉某嫡子也

 

 

 

 

 

 

この墓碑銘を読むと、吉田松陰が遺した言葉が思い出されます…

 

「賞賛されて忠孝に励むものは珍しくない。 責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、真の忠臣孝子である。 武士たるものが覚悟すべきこと、実にこの一点にある。」


「諸君、狂いたまえ」

 

 

 

 

【 叶えられなかった、晋作の遺志 】

 

 

功山寺で決起した後の活躍は、皆さんがご存じの通り。

下関に布陣した晋作は、長州藩最強部隊の奇兵隊を従えて藩政を掌握。 総数、僅か二千の奇兵隊を指揮し、幕軍十五万を迎え撃ちました。 

 

瀬戸内海の大島口に幕軍主力が集結と聞けば、下関から軍艦で駆け付け夜襲、幕府最新鋭艦隊を撃破。 関門海峡が危機となれば、対岸に布陣していた小倉藩内へ斬り込み門司港を占領、停泊していた長州藩への上陸用船をことごとく焼き払ってしまいます。  

 

まさに、獅子奮迅の戦いっぷり。

幕軍主力を四ヶ所で撃破した晋作と奇兵隊は、長州藩に有利な条件で和議を結びます。 晋作たちは、十五万の幕軍に萩の土を踏ませる事はなかったのです。

 

これだけの大功績を挙げたにもかかわらず…

 

晋作が託した墓碑銘が刻まれる事はありませんでした。 墓の表には ”東行墓” とだけ刻まれています…

 

 

 

(高杉晋作の墓 東行庵にて)

 

 

裏には ”谷潜蔵 源春風 号東行 慶応三年丁卯四月十四日病歿 赤間関享年二十九” と刻まれています。

 

 

晋作の墓には、彼が刻んで欲しいと望んだ ”奇兵隊” や ”毛利家恩古臣” といった文字は、一切刻まれていないのです。

 

 

 

 

【 晋作を ”討幕の志士” にしたかった? 】

 

 

晋作が志半ばで没し、葬儀一切を執り行った白石正一郎(奇兵隊を資金面で支援した豪商)たちは、晋作の遺言を黙殺しました。

 

後に、晋作の遺言が世間に知られる事になりますが、墓一帯を ”東行庵” として整備した伊藤博文・山縣有朋・井上馨ら明治新政府ですらも、晋作の遺志を叶える事はなかったのです。

 

 

 

 

これはあくまで私説ですが…

 

”晋作が主君の為に挙兵し故郷を守る為に戦った” というストーリーは、武士の世を壊したかった明治新政府には都合が悪かったようですね。 

いつの間にか ”討幕の志士 高杉晋作は、尊王攘夷を貫き挙兵し幕府と戦い打ち破った” という話にすり替ってしまっている気がしてなりません。

 

 

 

 

【 高杉晋作 遺言墓碑銘の碑 】 

 

 

これは、”隠された晋作の遺志” を叶える為、没後150回忌(2016年4月14日)に建立された顕彰碑です。

この様な碑が建てられていたとは、全く知りませんでした。

 

 

 

 

 

晋作は、没後150年経ってやっと ”私は毛利家恩古の臣である高杉家の嫡子だ” と名乗る事が出来た様です。

 

 

 

 

 

 

 

【 晋作の遺言 】

 

 

晋作の妻 雅子さんの回想録

 

 

 

東行は馬関の新地の林屋という家の奥の座敷に寝ていました、
林屋と申しますのは唯今でいえば、
新地の村長さんとでも申します家でございました。
 (中略)
東行の体は悪くなるし、それにひき代え世間は愈々騒々しくなるので日に日に昂奮するばかりで いつもいらいらしていました。


井上(馨)さんや福田(侠平)さんに向っていつも
『ここまでやったのだからこれからが大事じゃ。 しっかりやって呉れろ。しっかりやって呉れろ。』 と言い続けて亡くなりました。
いいえ家族のものには別に遺言というものはありませんでした。
『しっかりやって呉れろ』というのが遺言といえば遺言でございましょう。

 

高杉雅子の回想 より引用

 

 

 

晋作はが亡くなったのは大政奉還の半年前。

闘病中も今際の際にも、討幕や尊王攘夷などの言葉は一言も残していません。

 

 

 

(下関市新地町に建つ晋作終焉之地碑)

 

 

 

日本と欧米列強を敵に回した故郷を救い、武士として主君に忠義を尽くした晋作。

奇兵隊を率いて時代の流れを決定付けた戦いに勝利するも、これからという時に喀血し、体は日々弱っていく… 悔しかった事でしょうね。

 

藩を廃し廃刀を強行し、武士の存在を否定した明治新政府… 晋作はどんな気持ちで眺めたのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

晋作は本州の西端にある花街の一角で、27年の生涯を終えました。 遊郭のど真ん中で療養してあの世に旅立つとは、晋作らしいですよね。  狂気的な行動や泥臭い一面も含めて、私は高杉晋作の大ファンです(笑)

 

そんな事を想いつつ、晋作の終焉地に立つ私…

一礼して、下関を後にしました。

 

 

 

本州最西端と

高杉晋作ゆかりの地を巡る旅

 

 

 

 

 

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それでは、次号で sei
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