音楽の誕生日映像/早坂文雄、作曲家

1914/8/19~1955/10/15、日本の作曲家

本日は東洋の伝統だけではない早坂文雄の曲をご紹介。

写真は早坂文雄/アサヒグラフ 昭和30年2月16日号より

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hayasaka_Fumio.JPG

 

音楽:早坂文雄/ピアノ協奏曲  (32:40)

https://youtu.be/rNEEQMR6750

ピアノは岡田博美、指揮はドミトリ・ヤブロンスキー、演奏はロシア・フィルハーモニー管弦楽団、録音は2005/4/29~5/5、モスクワにて

 

音楽:早坂文雄/古代の舞曲  (13:04)

https://youtu.be/rPfnr44CDEE

指揮は芥川也寸志、演奏は新交響楽団、録音は1979/4/6

 

音楽:早坂文雄/ピアノの為のロマンス No3  (6:40)

https://youtu.be/hALgD0Wqunc

ピアノは河合珠江、録音は2016/6/27、京都アートセンターにて

 

音楽:早坂文雄/雨  (3:02)

https://youtu.be/Q3GYsDcLOSk

ピアノは平野裕樹子、録音は2016/3/11、すみだトリフォニーホール

 

音楽:早坂文雄/舟歌  (4:01)

https://youtu.be/hRkhWm04UHw

ピアノは平野裕樹子、録音は2016/3/11、すみだトリフォニーホール

 

音楽:早坂文雄/七人の侍から「逢瀬 」  (1:03)

https://youtu.be/XoGJK91uFl8

映画「七人の侍」サウンドトラックより、録音は1954/4

 

 

1914年(大正3年)、宮城県仙台市に生れる。早坂家は代々宮城県志田郡の地主の家系で、祖父の代までは裕福だったと言われるが、父(順之助)の代には没落していた。幼時北海道札幌市に移住した。ただし、本人は生涯に渡って故郷は北海道ではなく宮城県であるという意識を持っていた。家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も旧制・北海中学(現北海高等学校)入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった。しかし16歳の時に父が出奔し、翌年には母も病没したため、2人の弟妹の面倒を一人で見なければならなくなり、音楽学校への進学を断念し、中学卒業ののち実社会に入った。

 

音楽への情熱は冷めやらず、ピアノが買えない彼は、ピアノの音が聴こえれば、見知らぬ家であろうとかまわずに、その家でピアノを弾かせてもらっていた。1934年、旧知であった伊福部昭・三浦淳史らによって「新音楽連盟」が結成されると、早坂もメンバーとなり、同年9月30日に開催された『国際現代音楽祭』では、ピアニストとしてエリック・サティ、マヌエル・デ・ファリャなどの作品を演奏した。このとき早坂により演奏された、サティの《右と左に見えるもの》、《三つのグノシェンヌ》、《気取りやの気むずかし屋の三つの特異的ヴァルス》、《新婚者の起床》の4曲は、全て日本初演であった。また同じころ、雑誌『音楽新潮』の寄稿者であった清瀬保二にピアノ曲《君子の庵》を送ったことから、清瀬との交流が始まる。カトリック教会でオルガニストを務めていた1935年、《二つの讃歌への前奏曲》が日本放送協会「祝典用管弦楽曲」懸賞に第2位入選し、翌1936年(昭和11年)1月に放送初演される。この時上京し、清瀬保二、菅原明朗、江文也らに会う。3月には日本現代作曲家連盟に入会し、この頃から『音楽新潮』などに寄稿するようになっていく。また、同年来日したアレクサンドル・チェレプニンの指導・影響を受けた。

 

1937年(昭和12年)、ピアノ曲《夜曲第1番》(1936年)がチェレプニン楽譜no.31として出版される。翌年、管弦楽曲《古代の舞曲》(1937年)がワインガルトナー賞優等賞を受賞する。同年胸部疾患にかかり静養するが、1939年(昭和14年)東宝映画社長の植村泰二に認められて上京、東宝映画に音楽監督として入社した。トーキー音楽の新分野に多くの仕事をこなし、名声を確立していく。同年、荻原利次、石田一郎、塚谷晃弘の「独立作曲家協会」に加わる。

 

翌1940年、管弦楽曲《序曲ニ調》(1939年)が日本放送協会主催紀元二千六百年奉祝管弦楽曲懸賞に主席入選。5月、日本現代作曲家連盟創立十周年記念作品発表会で《ピアノのための五つの楽章》(1940年)が初演され、7月の連盟総会で第18回国際現代音楽祭に出品決定。同年、独立作曲家協会の第4回作品発表会で《五音音階によるピアノアルバム第1、第2》(1940年)などが初演された。

 

1941年(昭和16年)、日本大学芸術科講師となり、新設の「映画音楽」を担当した。同年、日本音楽文化協会が発足し、その作曲部委員に就任する。1942年(昭和17年)、《室内のためのピアノ小品集》(1941年)が日本音楽文化協会「第3回室内楽作品試演会」で初演される。また同年、東京交響楽団(現在の東京フィルハーモニー交響楽団、現在の東京交響楽団とは無関係)主催「現代日本の作曲」演奏会で、《左方の舞と右方の舞》(1941年)がマンフレート・グルリットの指揮により初演される。しかし、肺浸潤を発病し、医師に2年間の療養を勧告され、入院する。1944年(昭和19年)、退院し、映画音楽などの仕事を再開するが、秋に再発。再び療養生活に戻る。

 

『アサヒグラフ』(朝日新聞社)1955年2月16日号のインタビュー記事より

終戦後、箕作秋吉によって「再結成」された「日本現代音楽協会」の作曲部推薦委員に就任する。同年、清瀬保二、伊福部昭、松平頼則、渡辺浦人、塚谷晃弘、荻原利次らと「新作曲派協会」を組織し、早坂は幹事として戦後の作曲家グループの先端の一翼を担った。

 

戦後は新作曲派協会において毎年作品を発表するなど精力的に活動を続けながら、同時に映画音楽の分野でも卓越した才能を発揮し、多忙な日々を送る。1947年(昭和22年)、新作曲派協会第1回作品発表会においてピアノ曲《詩曲》(1947年)などが初演される。同年、黒澤明と初めて会う。

 

翌1948年、《ピアノ協奏曲》(1948年)が東宝交響楽団(現東京交響楽団)主催「第11回東宝グランド・コンサート 日米現代音楽祭」で初演される。1949年(昭和24年)、第3回毎日映画コンクールにおいて、「酔いどれ天使」「富士山頂」「虹を抱く処女」の映画音楽で音楽賞を受賞する。翌1950年も「野良犬」で同賞を受賞。同年、東宝を離れ、「映画音楽家協会」を設立する。1951年(昭和26年)、音楽を担当した黒澤明監督の「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、その音楽も大きな話題となる。

 

1953年(昭和28年)、以前より次第に悪化していた結核により、一時危篤状態に陥るが、奇跡的に回復を果たす。同年秋、新作曲派協会、日本現代作曲家協会を脱会、また蔵書を売るなど身辺整理を始める。翌年、『音楽芸術』誌上で三浦淳史と「早坂文雄と汎東洋主義(パンエイシヤニズム)音楽論」と題して対談し、自作を語る。

 

1955年、交響的組曲《ユーカラ》(1955年)が東京交響楽団定期演奏会で初演される。その年の10月、映画「生きものの記録」作曲中に容態が急変し、亡くなった。没後、毎日映画コンクール音楽特別賞、芸術選奨が贈られた。

 

早坂はピアノ曲、管弦楽曲、室内楽曲、映画音楽の分野で作品を残している。特にピアノ曲は全創作期に渡っている。また映画音楽の分野では「羅生門」「七人の侍」他の黒澤明作品、「雨月物語」などの溝口健二作品など数多くの作品の音楽を手掛けた。また、『日本的音楽論』(1942年)の著書があり、多くの作品評・作曲家論(清瀬保二・諸井三郎など)も残している。続きは以下のウィキにて

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%9D%82%E6%96%87%E9%9B%84