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聖エリジオ司教   St. Eligius E. 

2020-12-01 08:22:30 | 聖人伝
聖エリジオ司教   St. Eligius E.           記念日 12月 1日


 聖エリジオはフランス王朝に仕えた聖人が少なくない中でも、一際すぐれた人物である。彼は590年に生まれた。父母は共に信心深く、わが子を宗教の旨に従って教え育てたから、彼もすこぶる敬虔に生い立ち、幼少より既に祈祷を好む事が甚だしかった。しかしその最も優れた才能を示したのは美術の方面であったので、両親は彼に金銀細工を習わせたのに、彼はその技に大いに上達し、その道の大家となったが、それと共に彼は徳を磨く事にも心を傾け、一切の人に親切で、わけても貧者に慈悲深かった。そして熱心に聖書を研究し、その説明を聞くことを一方ならず好んだ。
 彼の芸術家としての名声が天下に轟き渡るや、フランス王国クロタールはその時まだ30歳の彼を宮中に招かれ、宝石貴金属を以て美麗な玉座を造るよう命ぜられた。必要な金銀宝石などは王の宝蔵から彼に下げ渡された。やがてエリジオは王の為二つの玉座を作り上げ、さて言うには「頂いた金銀宝石は余りましたから、二つの王座をこしらえました。」と。注文通り1つ造れば足りるのに、手数を惜しまず二つをこしらえ、過剰な宝石を少しも私せぬ彼の清廉さは誠に感ずべきではないか。されば国王もその正直にして潔白な心事を見事な王座の出来栄えにも増して喜ばれ、彼を王立造幣局長ならびに御自分の顧問とされた。
 けれどもエリジオはこの驚くべき立身出世にも一向思い上がる様子はなく、依然謙遜そのものの如くであった。そして周囲の人々が腐敗堕落していたにも拘わらず、徳の道にも長足の進歩を遂げた。彼はその人々を誡め、時々は国王にさえ諫言申し上げた。彼等はよくその忠告を容れた。というのは、彼が行い正しく熱心に祈り、あまつさえ厳しい断食をし、一点の非難すべき所がなく、従ってその言葉にも大いなる権威があったからである。
 クロタール王が崩御になると、ダゴベルト王が後を継がれたが、この方もエリジオを側近に置かれ、重大な問題に関し、種々御諮問になった。彼は今や高位高官の一人となり、なおも前途の栄達は測り知れぬものがあった。然し彼は貧者その他の不幸な人々を救う為に財を散じ、自らは貧しい生活に甘んじていた。例えば宮廷に在る時、彼は役目相当の立派な服を着用していたが、自宅にあってはみすぼらしいほどの服を着、その調度の類も至って質素なものばかり用いたのである。
 その上エリジオは努力して神学を修め、深遠な学識を具えるに至ったから、ノアヨン司教区の司祭信徒達は彼にその司教となるよう懇願した。で、彼は先ず叙階の秘蹟を受けて司祭の資格を得、641年司教に叙階され、その任に就いた。
 ノアヨン司教区は非常に広大であった。その上住民の大部分はまだキリスト教に帰依していなかった。けれどもエリジオは熱心にそれら未信者の改宗を計り、諸々方々に教会を設け、幾つかの修道院も建てた。彼はまた貧窮な人々の救済にも配慮を怠らず、殆ど自分の収入の全部をその為に投じて更に悔いなかった。なお教育にも大いに心を用い、司祭を養成する1つの学校をはじめなどした。そして余暇在れば自ら手を下して、教会の為に貴重な聖具を製作した。それにこの頃になっても国王やその後継者達から意見を求められる事がしばしばあった。
 69歳に達したエリジオは死期の間近に迫ったのを感じた。時あたかもその司教座聖堂の建築中であったが、彼はよく「工事を急いで下さい。そうでなければ私はその竣成を見る事が出来ぬかも知れぬ」と語り、傍人をして暗然ならしめたという。然しエリジオ自身は至って朗らかで、憂い顔の彼等を顧み、「喜んで下さい、私はもう長い間天主の御許に帰る日を待ちかねていたのですから」と言ったが、果たして幾程もなくこの世を去った。その臨終に彼は枕辺にある人に、互いに相愛し、又貧者に憐れみをかけるようくれぐれも勧めたとの事である。

教訓

 「私は死を恐れない。寧ろ天主が定め給うた時に死する事を喜ぶ。それは死に由ってこそ天国に在す懐かしい聖父の御傍にゆく事が出来るからである」衷心からこう言うことが出来た聖エリジオは如何に幸福であったろう!我等もその幸福にあやかりたいならば、また彼の如く正しい生活をせねばならぬ。


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