『名古屋 空手物語 ~怪物志願~ 』第45話

 

《型とは何か!? 其の④》


いよいよ「平成」から「令和」と云う新時代に突入した。
最近、巫女系と云うか、スピリチュアル系で右翼的思想の女性と知り合い、月一ぐらいでお茶会を伴にし御話を伺っている。


まぁ仮に其の女性を卑弥呼としておこうか…卑弥呼様の云われるには、令和天皇(此れは本当は薨去された後の諡号なのデ、本来は天皇陛下とダケ呼称しなけれバ為らない処なのだが、テレビでも今後はソゥ呼ばれて行くダロゥから私も使用させて頂く。元々、日本国に陛下は御一人しか存在しないのだから、今後陛下と呼ばれる方は浩宮様御一人である)には、白い龍が憑いて守護されていると云う。
此れは、卑弥呼様自身では無く別の霊能者が観た話らしい。卑弥呼様は、竹田会(テレビ出演でも著名な明治天皇の玄孫に当たる竹田恒泰氏が開催されている勉強会)にも出席しており、皇居の掃除とかにも積極的参加しているとの事。
皇居の掃除の時には、竹田氏と令和天皇(此の時点では未だ皇太子徳仁親王)が親しげに話されていたソォだ。平成天皇の再従甥(はとこ)に当たる方なのだから、当たり前と云えバ当たり前なのだが、訊いている私には何か別世界の出来事の様でもある(苦笑)。


皇居はあれだけの木々や森に囲まれた自然環境の場所であるにも拘らズ、皇居内に蚊は一匹も居ないと云う。
確かに皇居は、元々は徳川家康の江戸城跡デ、天台宗の南光坊天海が徹底的に方位を研究し尽くし鬼門封じを行った場所である。或る種の結界が張られているから、人間に害を与えるモノは蚊すら入り込めないでいるのダロゥ。


最近は、自分の身の回りでシンクロする事が多い。今回のブログを書く前日、昼食を摂る為車中でラジオを訊くともなく耳にしていたら、一水会の鈴木邦男氏がCBCラジオに出て喋っていた。最近は、予備校の講師として左翼陣営ばかりの中に混じり活動していると云う。
卑弥呼様の自家用車には、日の丸のシールが貼って有る。 呉の大和ミュージアムにある長門の軍艦旗が、欲しいとも云っていた。此れもシンクロなのだが、昨日の『開運!なんでも鑑定団』で、此の日章旗は以前司会をしていた石坂浩二氏が出品物を購入し寄贈したモノらしいやネ…一週間前ぐらいに日章旗の話をしたばっかりなのに(汗!!)。


右翼と云えバ昔、文藝春秋社発刊の『田中清玄自伝』と云う書籍を読んだが、其の著作内には田中清玄氏が本当に尊敬する右翼は橘孝三郎、三上卓の両氏しか居ないと書かれていた。此の書籍を手にしたのは、其れより以前に読んだ『山口組三代目』飯干晃一著や『田岡一雄自伝』で触れられていた田中清玄氏との邂逅が更に詳しく記されていると思ったからだ。其れは、山口組三代目田岡組長と田中清玄氏が、右翼の大立者児玉誉士夫氏の全国ヤクザ組織を統一(「東亜同友会」)し懇意にしていた政界人と共に日本全土へ影響力を及ぼソォと立案した構想への嫌疑からだった。

 

田岡組長と田中清玄氏の考えは、こんな組織が誕生したら大政翼賛会並みの力を持ち軍国主義の再来に繋がるとの懸念からだった。結果、児玉誉士夫氏と対立関係になった田中清玄氏は、児玉氏に心酔する東声会会員に銃撃される。が、ヤクザ組織の統一構想自体は自壊させられた。
ソォ云えバ、大山館長も大山猛虎とか名乗り闇市で暴れ回っていた時代だったか、連合国軍総司令部(GHQ)から逃れる為に山籠りする前だかに、智弥子夫人を田中清玄氏に預けたとか・・・・・・


私自身は右でも左でも無いが、令和天皇は同じ歳であるからシンパシーを感じるし、何かあれバ御力に為れたらと思わない事もない(矢張り、少し右寄りかしらん)。
Оクンが、「令和」と云う年号を茶化して「ちくわ」と読ンでいたから、共通の知り合いである卑弥呼様が日の丸の鉢巻を締め特攻服デ刺しに行くから気ィ付けぇヨ!! と、脅しておいた(笑)。


卑弥呼様の話は、訊いていて色々と勉強になるし面白い。
長崎のAと云う喫茶店のマスターは、異能者(宇宙人説も有り)だとの話も面白かった。両手に持ったルービックキューブを一刻も瞳を離さズ眺めていたが、一瞬で両方共揃えて仕舞ったと云う話も有るし、ビール瓶をゴムの様に引き伸ばし丸めたモノが喫茶店中に転がされているとの事。
マスター曰く、心の底から柔らかいと信じられれバ、伸ばせるしひん曲げられるソォだ。喫茶店の壁に貫手を差し込む事スラ出来たらしいが、客がドン引きするので今は行っていないらしい(苦笑)。
卑弥呼様には、とても現状では信じ難いから、グニャグニャに捩じ曲げられたガラス細工の様なビール瓶を是非一本貰って来て呉れと頼ンでいる最中だ(爆笑)。


しかし、拳道会の垂木折りも、硬質な靴の踵で全体重掛けて踏ん付けてもビクともしない垂木を手刀や正拳で斬るのだから、心底柔らかいと思い切らないと実現出来ない気がする。果たして、同じ原理なのだろぅかしらんネェ!?


Оクンから久々にメールが来て、一枚の画像が添付されていた。二人の人物が写った写真である。一人は、元K-1戦士の佐竹雅昭だったが、もう一名は顔に見覚えはあるモノの中々思い出せない。
メール内容は、「此の方達は一体誰でしょう!?」と、クイズ形式だ。
私は天邪鬼な性格なのデ、来たメールに対して当たり前の返信をした事は一度も無い。今回も態と複雑に応えて遣った。


「一人は茶帯時代、鬼瓦権造チャンに敗北した佐竹クンだけど、もう一人の禿げ茶瓶(自分の頭もほぼ似た様なモノなのに、其れを棚上げして…笑)は誰か知らんゾ」
直ぐに返信のRe:メールが届いた。
「何ンと伝説の空手家中山猛夫さんデス」


私も慌ててRe:Re:メールを返信。
「ああっ、禿げ茶瓶発言取り消し。嘘、嘘!! 尊敬してます。憧れでした(爆笑)」


極真の第九回全日本選手権大会に修行一年足らズの茶帯(黒帯を締めて出場)ながら初出場して、地方の支部道場出身でありながら準優勝して仕舞ったと云う、後の黒澤浩樹や数見肇をも凌駕するビックリ伝説の主である。
正道会館の主催した第一回、第二回の全日本大会を二連覇してもいる。本当に強かったンだヨ、中山猛夫師範は。他の出場者が皆ンな子供に見えたモノね…自分が出場し続けていると若い後輩達が伸びられないからと第三回以降の大会からは自ら身を引いたとも、石井館長に説得されたとも訊いているケド。
第九回全日本選手権大会の決勝では現大道塾の東孝師範に敗北しているが、此れは致し方ない。当時の大会流の闘い方では、東師範が一番油の乗った最強の時である。
実は我れらがM大先輩(徳島支部)も、第九回全日本選手権大会の四回戦で東孝師範と当たり判定負けを喫している。


勿論、芦原道場出身の中山猛夫師範にしても徳島支部のM大先輩にしても、顔面有り掴み有りの試合だったらと思わないでも無いが、矢張り当時の東孝師範(現在の大会選手の完成された組手から観れバ、未だ煩雑さは観られるモノの当時の水準では抜きン出ていた)は強く、ルールが違っても敵わなかったカモ知れないと思えます(個人的見解デッス)。

 

さて、何時も通りの雑談は此れぐらいにして本題に突入します。


先回の続きで大東流合気柔術中興の祖である武田惣角は、本物だったのか中途半端な剣術家だったのか。映像も残されていない現在、其の実態は判りません。しかし、其の弟子とされる植芝盛平や佐川幸義の強さは、更なる孫弟子達や実子後継者の証言記録や書籍で発表されております。植芝盛平の合気道も、最終的に塩田剛三と云う怪物爺さんを生み出しました(失礼!! 汗顔)。
一概には申せませんが、強い弟子や孫弟子を多く輩出し残している以上、武田惣角の技は或る程度本物だったのではないかと推測されます。
但し、黒田鉄山と甲野善紀の両氏に拠る対談書籍内にある様に、甲野善紀の大師匠に当たる鹿島神流第十八代宗家國井善弥(今武蔵の称号有り)も又、多くの伝説を纏った神技の持ち主で有りましたが、黒田鉄山の祖父である黒田泰治鉄心斎に真剣での勝負を何度も申し入れ、いざ受理されると戦わズに遁走した事実が御座います。
私も長年生きて来た為、明治時代の強豪や敬愛する大山倍達館長などの伝説が脆くも崩れ去る出来事に数多く接して来ており、以来疑り深い性質に成って仕舞いました。


今の私は、達人の存在を信じ懇願しつつも、裁判所内に設置されている正義の女神テミスが片手に持つ天秤の如く真偽どちらに傾くか判らない混乱した状態なのです。


佐川幸義が達人なのは間違いない。でも、シュートボクシングの吉鷹弘が現役引退した後、武術を求め歩いた時佐川道場では相手して貰えなかった現実がある。
塩田剛三でスラ、格闘技のプロとガチンコ勝負をした事は無い。
ロバート・ケネディ夫妻のボディーガードとの手合わせは一本組手並みのエキシビションマッチ程度だし、大山倍達と澤井健一が塩田剛三の道場へ道場破りに出向いた時も、何ンだか二人共道場の雰囲気に飲まれたか遠慮してか闘いにまでは至らなかったソォだ。マイク・タイソンが表敬訪問した時も、周りの付き人は二人を噛み合わせ様としたがタイソンが紳士的態度を崩さなかった事でガチンコ勝負が回避されている。尤も、一試合何十億を稼ぐ拳をタイソンが一銭にも為らない喧嘩に使う訳も無いが・・・・・・
唯一、プロの格闘家やアマチュアチャンピオンクラスの強豪と実践を行い、総てを制しているのは宇城憲治ぐらいである。でも、約束組手とか道場組手クラスの実践だから、厳密に云うと本気の横綱白鵬やボクシング元5階級王者フロイド・メイウェザーとガチンコ勝負するのとは異なるダロゥ。


現在、フルコン系空手家で年齢と共に体力勝負が頭打ちになり行き詰まっている人達は、ほぼ武術的達人に師事したいと考えているが、其の多くは此れまで遣って来た事自体が邪魔をして、信用したいケド信用出来ないの狭間に落ち込ンでいるのではないダロゥか。


以前もブログに書いたが、徳川四天王の一人の本多忠勝は、道場稽古では凡人だったらしい。勝てると見込ンだ道場仲間の一人が、真剣勝負を申し込み着流し姿で待っていると黒糸威胴丸具足と突盔形兜に身を包み長さ2丈刃長1尺4寸4分5厘の名槍蜻蛉切を手に騎馬で駆け付けて来たので相手は慌てて逃げ出したソォだ。
宮本武蔵は60数試合闘って敗け無しの剣豪と讃えられているが、戦場経験は唯一関ヶ原合戦ぐらいである。一方の本多平八郎忠勝は、13歳から家康の馬の轡を取り53歳の関ヶ原合戦まで徳川家の総ての合戦に参戦し生涯不敗且つ負傷キズの一つも無しと伝わる。
57回モノ合戦の中には、徳川家が滅亡寸前にまで追い込まれた三方ヶ原の戦い(対武田家)や豊臣秀吉の大軍に対峙した小牧・長久手の戦いなどの不利な闘いも数多かったが、本多平八郎忠勝は逆に活躍しているのである。


私は、実践で相見えれバ武蔵拠りも忠勝の方が強かったと思う。其れは、相手が柳生宗矩でも同じだ。常識的に考えると、兵法家の剣術指南役である宗矩の方が忠勝拠りも強いのダロゥけれど、コト実践の場となると話が違って来る気がする。


剣術は、室町から戦国時代に掛けて、新陰流の上泉伊勢守信綱や天真正伝香取神道流の飯篠長威斉家直、鹿島新当流の塚原卜伝、一刀流の伊藤一刀斎などに拠りかなり高度な技術体系として整備・完成された。以後、代々継承を重ねる内に衰退や形骸化して行くコトはあっても、其れ以上の技術向上は無かったと云える。剣術はほぼ戦国時代には、完全に完成していた様だ。
だからと云って、其れ以前の源為朝は弱かったのダロゥか。もっと遡れバ、天孫降臨の折に建御名方神を諏訪まで追い払った武甕槌(『古事記』では「建御雷之男神」と表記)は、武術が大成される以前の武将だから弱かったのかしらん!?


中国の各時代の英雄である白起や項羽、呂布、関羽、趙雲など拠りも柳生宗矩の方が強いと云い切れる人は少ないのではないかナ。
関羽は現在、世界各国で道教の三番目の神様にされている(初代は墨子、次が老子)し、趙雲は劉備の息子である阿斗を背負い一万人の敵兵の中を単騎で駆け抜けたと伝わる。白起や項羽は、其れコソ何十万人単位で敵兵を殺害している。こんなのと戦場で出会ったら、闘う処の騒ぎではない。私なら先ず逃げ出すわネ(爆笑)。


現在では、武道を齧った事も無い全くの素人である小父ちゃんや小母ちゃん達が、合気を駆使して格闘家足る我々を苦もなくバタバタと倒している。だが、もし我々が実践の場で殺してやるとばかりに鉄拳を振り上げたら、冷静に対処出来る素人武術家が何人居るダロゥか。
矢張り実践を体験して来た我々が、其のパワー体質を完全に抜き切ってからしか稽古に取り組めないと云う遠回りはあるモノの実践を経験して後に合気的な道を歩む事が重要だと思われる。

 
本当に強さとは、何ンであろうかしらん・・・・・・ネ!?


 
【※此の作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、一切関係ありません】