人生は悲喜交々。

 

結局、そういうことなのでしょう。

 

「孫ができた」

 

誠に喜ばしい事です。

 

本当におめでとうございます。

 

でも、あなたが今その慶事を伝えたその人はつい一月前に流産したのです。

 

その人がどういう気持ちになっているか入蔵にはわかりません。

 

その人はとにかく「おめでとう」と言いました。

 

本当にそういう気持ちでおっしゃったのでしょう。

 

でも、このやりとりを聞いていた入蔵は複雑な気持ちになりました。

 

言われた人は「今度こそ私も!」と思い祝福しているのかもしれません。

 

しかし、その心の隅に一抹の寂しさがあるのでは無いでしょうか?

 

孫ができたと喜ぶ人を責めているのではありません。

 

うれしいときには精一杯喜ぶべきでしょう。

 

自分の喜びを誰彼と無く伝えたくなる気持ちもよくわかります。

 

おめでたい話を聞いて本当にうれしい気持ちになる事もあります。

 

でも、他人にその喜びを伝えるときは少し、相手に対して想像力を働かせる(あるい

人にそは節度)を持つ必要があるのでは無いでしょうか?

 

「いちいち相手に対してそんな事を考えていられない」

 

確かにそうでしょう。

 

そんな事は誰もできません。

 

でも、ちょっと想像力を働かせて言葉を発する程度の配慮はだれにでもできるのでは

ないでしょうか?

 

同じ事をいわれても相手を慮る気持ちがその言葉の中にあるかないかはわかると思い

ます。

相手を慮る気持ちがある事が聞く側に伝われば、自分のさみしい気持ちも、語ってい

いる人の喜びをすなおに自分の喜びにして癒やされることができるのではないでしょ

 

うか。

 

このブログでも何度も書いてきたように、入蔵は数々の舌禍事件を起こして参りまし

 

た。

 

こういった想像力の欠如が原因になったものもあると思います。

 

ケースバイケースという事があります。

 

いつもこのような姿勢でいる事が正しいというわけでは無いと思います。

 

でも、今までこういうことを考えた事が無いという読者諸氏にはご一考いただきたい

 

と思います。

 

父が亡くなって一人で診療をしなければならなくなったとき入蔵は毎晩仏壇に向かっ

無事故でその日の診療を終えられた事を報告し、感謝の祈りを捧げていました。

 

体調が優れなかったときは毎日、「目覚められた事」に感謝の祈りを捧げていました。

 

喜びの対象は実にシンプルです。

 

でも、試練のなかで、そのシンプルな事がどんなに「有難い事」なのか気付けた事はとても幸せな事であったと今思います。

 

冒頭のような些細な出来事について、グズグズと書き連ねている自分に嫌悪感を持ちつつも、うれしい事を伝えるときにも少し相手に対して想像力を働かせるべきだという、ささやかな気付きを得た「今日」に感謝している入蔵です。

 

では、また(^^)/