私は、私と仲良くなりたいと思った。

 

自己憐憫や劣等感、自己卑下を超えたい。

自分を幸せにしたい。

いや、するんだ。

この自分自身で自分を卑下し、後にする・・・

このループはもう要らない、と。

 

そして、私自身と仲良くなりたいと思ったのだ。

 

どうやら自分自身と仲良くなるためには、

自分ののぞみや願いを叶え、自分自身を満足させること。

自分の人生を自分で生きること。

自分の足で、自分を満たし、自分自身を満足させること。

それが重要なようだ。

 

そこで、ふと思ったのが

自分のご機嫌は自分でとる

ということだった。

 

誰かの顔色でもない。

まずは、誰よりも先に、自分を幸せにしよう。

そこに注力を注いでいく。

まずは、何よりも「自分の機嫌」をとろう。

 

他人ではない。

まずは、自分なのだ。

 

 

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で、コレ又ふと気がついたのだが・・・

こちらを選ぶ。

闇よりも光を選ぶ。

そういうのは違うのだと。

 

あっちを否定し、こっちにする。

こっちに決める、こっちを取る。

それでは違う。

 

こっちではない・・・そうやって拒否られた方は心の片隅に残っているのだ。

蓋となって、触らぬ神に祟りなしではないが見てみぬ思いとなって心の中で腐熟してゆく。

 

そうではないのだ。

片方を選ぶではなく、そうやって蓋をするのではなく・・・手放してゆくのだ。

 

何方かを握りしめるのではなく・・・手放してゆく。。。

 

 

もちろん暗闇の中で強く光を信じて前に進むのは大切だが。

 

ふと、そんな事に気がついたら、

 

私は何者にも屈しない

何者にもならない

どのような闇(蓋や恐怖やそういう卑下させるようなエネルギー、傷つくこと)にも

私は心を開き、あるがままに生きていく。

凛と、私はワタシとして生きてみせる。

 

その中で寂しさや悲しみや痛みと向き合うのが必然なのであれば、そうしよう。

面と向かって味わおうではないか。

感じきろうではないか。

 

そう、思えた。

 

 

寂しさは我慢すればいい。

内観の先生に、そう言われた事がある。

 

寂しさで人にすがり、自己卑下と劣等感で人に卑下ってとり入り、自己憐憫で自分からは這い上がらず。

 

そんなもの大概利用されるか失敗する。

小馬鹿にされ、下に見られ、侮られ、

守られるはずもない。

助けの手はやってこない。

自らが自らを助け、タクしかないのだ。

 

そして、あの人は優しくしてくれたから味方。

だったけど、冷たくなったから敵。

と、むき出しで警戒する。

 

そんな自分の損得(優しくされたかされないか)で判断するような極めて利己的な人格では、利用するかされるかの関係でしか関係を築けない。

なんせ、そうやって人を利用しているのだから。

喧嘩のときとかに出てきたりすると、その人に対して

「物や絵に描いた餅で釣ろうなんて、なんて品性がない・・・脅しで釣ろうなんてなんて品性が・・・」

と思ったりするし。

自分も。

そしてこのクセはワタシにもきっと有るんだし。

 

なんつうか脱線したが・・・・

そういうのは全て寂しささいう通り雨を握りしめているからなのだ。

通り雨は止むまで我慢しなさいっーことなのだ。

 

そして、ふと今回思った

個としての自立や、自分の人生を歩むこと、自分自身を幸せにすること、望みを叶え満足させること、そういう「自分のご機嫌を自分でとってゆく」という行為の中に、寂しさを・・・一人ぼっちなる孤独を・・・抱えながらも手なづけ、ともに生きる事ができるヒントが有るのではないかと思うのだ。

 

あと、共にそういう道を歩む仲間がいるということね。

そばには居ないし、見えないけど。

ともに歩むということは、そういうことでも有ると思った。

 

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個こして歩むと、ともに歩むということがなくなって孤独なのではないか?

と思っていたが違うらしい。

共存という歩み方も有る。

 

そして、ともに歩むと言うのは私の場合は目には見えないメンターと共に。

という方が良い。

 

人とは「ともに歩む」というよりも、共存だ。

その中で個として共存するのかで、袖ふれあうもなにかの縁ということなのだろう。

 

あくまで、混じりっけなしの

掛け値なしの

自分で生きるのだ。

自分を違う者で濁らせてはならない。

その輝きは、自分特有の個の質なのだから。

 

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そうそう、そういえば蓋は自分で作るものなのだが、

オープンにすると決めてヒリヒリする蓋を開けて交流を図ってみると蓋はなくなる。

いや、開閉式になるし、痛くはなくなる。

そのうち、要らないと思えれば、消えるだろう。

そうやってエネルギー交流をすることが蓋を和らげる一つの方法なのだと思った。

受け入れると言うかね。

 

(ただし粗末にされたり理不尽を受け入れるということではない。

だって、自分は粗末にされていい人間ではないでしょ?

そんなもの一人も居ないし)

 

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雨の中、右往左往せず、雨雲を追っかけず・・・

自分を生きる。

個を生きる。

そこに光が有る。

 

そう、トトは思った。

 

自分の願いを叶えながら(自分のご機嫌をまっさきに考え、トリ、自分自身を幸せにしながら)

*なぜまっ先になのかと言うと、人の機嫌を考えて自分を殺すのは本末転倒だということ。

自分がNOのときにはNOということ。

それで人がどう思おうとその人の問題だし、もう少しやり方があるかもしれないし、なにより自分に嘘も矛盾も無理もない。

自分が自分のために選択し、選び、決断したことで自分自身を幸せにできるのだから。

 

クリエイトね。