特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

茨城急行 北越ケ谷駅~岩井警察線を追憶した その5 岩井にあった茨急バスの営業所

2018年08月09日 13時00分04秒 | 旅行






北越谷駅~岩井警察まで埼玉・千葉・茨城の3県を跨いできましたが、目吹もとい芽吹大橋を渡って終点の茨城県に入りました。

 


自然博物館入口。映画ジュラシックパーク公開の翌年開館という絶妙のタイミングで出来た公共施設、茨城県自然博物館。
わたくしも開館直後に始まった「恐竜化石展」を知人と見に来ましたがそのとき車で行こうという知人を抑え、愛宕駅から茨急バスに乗ってきました。
当時ここを走る茨急バスには東武から継承した北越谷駅発岩井車庫行線が残っていました。
車内で茨城県と全然関係のない埼玉のウエディングなんとかという結婚式場の宣伝が車内に流れてきて
「この一本抜けてるところは昔と変わらないな」と微笑ましく思いました。
停留所は「入口」と言っていますが、本当の入口まで1キロ以上歩かされてクタクタになったものです。

ジュラ紀や白亜紀ほど古くありませんが博物館ができる何年も前のわたくしの小学生時分は「七郷支所前」と言っていました。
「支所」というのは昭和の大合併で消滅するまであった旧村の役場のことですが、
ここから歩くこと数分で駐在所や小学校、さらには消防署、農協といった主だった公的施設があるので
ここが旧七郷村の中心だということがおのずと了解できます。

野田でも旧村の役場と新市の中心を結ぶバス路線というのは必ず存在していて、
例えば従前精力的にお話しした野12なる路線にあった木間ヶ瀬小学校前というバス停は小学校があったからバス停が設けられたのではなく、
小学校前の道路差しはさんだ真っ正面に旧木間ヶ瀬村役場があったからに相違なく、
もし小学校が無ければ「木間ヶ瀬支所前」であったでありましょう。






辺田三叉路。ヘンダミツマタジではなくヘタサンサロと読みます。
また三差路ではなく昔から「三叉路」と書かれています。東武・茨急・関鉄みんなそうでした。
岩井とかこの辺は難読地名が多いのです。
わたくしは隣町の人間なので読めますが岩井の「三(ミムラ)」それから境町の「大歩(ワゴ)」はまず普通の人には読めそうもありません。

昭和には関東鉄道のバス停はここではなく東武・茨急とはあさっての方向の三叉路反対側に置いてあり、
行先も守谷駅行きはなく水海道駅へ行くもの一方向のみでした。

後年関東鉄道バスを見かけるとその方向幕には「神田山 → 岩 井」と矢印が付いているのをよく見ましたが、
小学生の頃はただ単に「岩 井」としか書いてありませんでした。
市街にあった関鉄のバス停標柱にも経由地書きはなく「岩井 ゆき」あるいは「水海道 ゆき」としか書いてありませんでした。
辺田三叉路以外は東武と同じポジションにバス停が置いてあって、意外とニアミスすることが多く東武・関鉄と2台続いて来たことがありました。

続いて来たとしてもこの三叉路から東の水海道行きと南の野田行きとで生き別れになります。
「水海道は字が似てるからきっと水戸にあるんだ、車体が水色をしているのが水戸のバスの証拠だ」と小学生当時勝手な解釈をして眺めておりました。
東武も関鉄もその塗装パターンはともに寒色系で方向幕の小ささも同じで後乗りワンマンバスでしたが乗り間違えたことは一度もありません。


水海道駅行き関東鉄道バス時刻表。平成28年、新町十字路停留所にて。

岩井のバス路線は大正期に境町~岩井町~水海道町および岩井町~沓掛の各線が設けられたのが始まりだそうで
土地の人々には心のふるさとのような路線であったでしょうが、
水海道営業所ともども廃止されてしまい近年新設した守谷駅行きがほそぼそ走るばかりになりました。

しかしながら守谷ならばつくばエキスプレスで北千住・秋葉原へ乗り換えなしですから少なくも茨急で野田へ行くよりは
使い勝手が良いようにわたくしには思われます。



話を茨急に戻しますと、常陽銀行発行「常陽藝文 ふるさとのバス」によれば昭和51年、下妻市から岩井市へ「主たる事務所」を移しています。
岩井を本拠としたのは昭和55年までの4年間だけだったようですが、昭和56年以降も建物と車両を見ることが出来、
岩井行き辺田三叉路バス停すぐそば、現在は中古車屋さんの置き場になっている道路右側にありました。

なお終点、岩井警察まではあと停留所10個ほどあります。
終点にたどり着いた茨急バスは岩井東武車庫には入れませんから、
恐らくここまで帰庫して休憩していたのでしょう。



今記憶を何とか呼び覚まして当時の情景を乱雑に描くとこんな感じです。
バスのクリーム色をもっと濃くしたようなあるいは日影だったから色濃く見えただけであったかそんな外壁色のそれほど大きくない建屋があって
道路に正対する面に「茨城急行自動車(株) 岩井営業所」と電話番号が壁にじかに書いてありました。
入口は観音か引き戸か忘れましたがガラス扉で、脇に交通安全とか交通標語の掛け看板ないしボードがありました。
建物の野田方面側にもまた同じ高さの建物があったので、野田から来ると見えませんが逆に岩井から野田へ行くバスからはよく見えました。
日中の時間帯しか見たことがありませんが車両はいつも2台程度留置されていてフロント部がなぜか道路近くギリギリまで来ていました。

(『交通東武』昭和51年2月28日号)

バス止めのスペースは路面がぬかるんでいた記憶がないので舗装されていたと思いますが敷地のどこかにプランターらしきもので花卉が植えてあり
綺麗なアイロンの効いた白Yシャツに赤褐色のネクタイ、胸ポケットにキラキラ光る筆記具を刺した装いの、
白髪のオールバックで縁の目立たない眼鏡をかけたおじいちゃんのような職員が金ジョウロを持ってポックリポックリ歩いているのを見ました。
停まっている車両の方向幕はほとんど「回 送」でしたが「茨 城 急 行」と社名を出したものもありました。
どこか特定の行先を出している光景は記憶になく、また塗装も縞模様のない次世代塗装車ばかりが記憶に残っています。
バスが止まっているその隣にはちょっと派手な看板のカタカナの名前の酒屋か食料品店のような店が道路から引っ込んだところにありました。

 

 

下妻の旧本拠は建物を残したままニッポンレンタカーと東武鉄道が合弁設立した「ニッポンレンタカー東武」の営業所に変じています。






(『いばらきのバス路線』)
わたくしの小学生時分にはまだ残存していた茨急バスの辺田(岩井)~下妻駅線はここを起終点としていたものでありましょう。
時代をともにしながら乗ったことは勿論見かけたことすら無いのが残念でなりません。

 








現在当地に来てもバスの営業所としての面影はありませんが、中古車屋さんの裏側は集合住宅の駐車場になっていて
茨急時代のものと思しきバス停柱が1本残っています。
時刻表板取付のためのボルト穴が設けられています。
曲げ鉄骨が溶接されていて紐を引っ掛けておくために使用されたようです。
住人の方の許諾を得て撮影しましたが、表層が剥がれきってしまってて文字も模様も全く見えません。

しかしここにバスの営業所があったことを知る者には、同じくらい色あせてしまった遠い遠い昭和時代の路線バスのアルバムのようにも見えてならないのです。



2 コメント

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Unknown (南栗橋車両管理区荒川支所)
2018-10-06 23:57:19
恐れ入ります

こちらのお話を読んで国土地理院の航空写真検索してみました

http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1016773&isDetail=true

この航空写真で管理人様の仰っている位置にバスが3台止まっているようです

位置関係は辺田南の信号脇です

なかなか興味深いお話ためになりますm(_ _)m

今は写真だけパシャパシャ撮り貼り付ける輩が多すぎて

過去の歴史が積み重なって今がある事の理解が出来ないというか
古いモノイコール『ダメ・悪』と単純に切り捨てすぎのような気がします

ちなみに
旧東武バス越谷営業所を引き継いだ朝日自動車越谷営業所ですけど
大型車両が配置されたようです
(その中の1台に東武バスイーストから7Eがグループ間転籍してきました)
Re:Unknown (surrender90)
2018-10-13 13:16:53
コメントいただきありがとうございます。
茨急の事業所というと松伏かせいぜい北茂呂しか想起できない世代が増え、
久しく残念に思っておりましたのでちょっと言及してみた次第です。
越谷には子供の頃、房北車庫だか何だかそんな名前のバス停があって越谷のバスはこっから出てくんのかなと思ってたことがあります。

ところでやはりバスは撮り物ではなく乗り物ですから、
写真を撮るにしろ何にせよしっかり運賃払って
乗車しないことにはそのバスを味わうことはできないのではないかなとわたくしは思っております。

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