最近、久しぶりにプレッシャーに押しつぶされそうになっております、わたくし。

 

それにしても、時間って不思議なものですよね。それこそ、時計という物があるから、時間が過ぎていくのをどうにか感じられる訳ですが、しっかりと体感しているかとなると、これまた、微妙。。。でも、昨日の私は、既に私でないという、無体感な事実がそこにあるわけです。数年前には、全く興味が無くて素通りしていた物が、今は、何故か意識しているという事も、時間と共に、私が変わっているという証拠なのかもしれないですね。

 

以前、こんな記事を書きました。ジーンと来た言葉 という記事。この記事にも、ちらりと書いた、致死率100%というお話。

 

昨日見つけた、こちらの番組。改めて、致死率100%について考えさせられました。

(この先、ネタバレです。)

 

 

この番組内に出てくる人体の展覧会が、確か、2003年辺り(定かでない)に京都に来まして、2度程足を運んでいるのですが、最高に良かったです。夏に、ロンドンに行った時、発見して、行きたいなぁと思ったのですが、娘に拒否られ、断念。

 

話がズレました。でね、この番組の中で出てくる、昔の話で思い出しました。

 

私は、小さい時(4歳位でしょうか)、長屋に住んでいました。そこは、本当に小さくて、今で言うと、2Kでしょうか。お風呂は無くて、銭湯でした。そのトイレが、汲み取り式トイレでした。トイレが怖くて、夢にまで出てきたのです。トイレから、火を噴いた怪獣が現れるという夢。トイレに行くのにも、小さな子供には、命がけです。自分よりも、トイレの方が大きいから、落ちない様にする技を身に付けるという・・・これぞ、生きて行くための技。

 

そして、祖父母の家は、農家で、まだ、化学肥料を使う前でしたから、勿論、トイレは汲み取り式でした。肥しを巻く季節に、祖父母の家を訪ねると、何とも言えない匂いが耐えられなかったのを今でも覚えています。

 

そんな、私の幼少期は、「死」がもっと身近であったんだと思います。

それこそ、家で亡くなった家族の身体が放つ匂い、飼っていた犬が亡くなって、硬直したあの感じ。当時は、それをあまり特別視していなかった様な気もするわけですが、それも、生活体系が変わると共に、私の感覚も変わったのかも?と思ったり。

 

番組内で言われた、「死」に対する意識が薄くなるにつれて、世の中に水洗トイレが普及されていった。という下りは、「はっ!」としました。

 

そして、一番、沁みたのが、

 

「生」と「死」は真逆にあるものではなく、「生」の中に「死」があり、別には出来ない、真逆ではないという言葉でした。

 

そう、非日常が日常になっていて、自分では、まだあと数十年あると思っているけど、確約なんてどこにもない。だからと言って、いつか来る終わりを恐れながら生きるのも違うと思う。でも、やっぱりもっと違うのでは?と思うのは、終わりが来ないと思って生きる事。

 

一日をどう生きるのか、って言うと、テーマが大きすぎて、それこそ、プレッシャーかもしれない。だから、せめて、今朝、無事に目が覚めて、いつも通り動いてくれて、夜、無事に寝床に付ける自分の身体に感謝したいなぁと思いました。

 

私が、モジモジしている、押しつぶされそうになっているプレッシャーも、そう感じられるという感覚がまだ残っているという事に感謝なのかもしれませんね。全てが経験というのが人生という物なのであれば、怖れる事はないのかもしれません。

 

半分以上、ネタばれになってしまいましたが、ぜひ、この動画、ご覧になってみて下さい。

 

最後までお付き合い頂きまして、ありがとうございました。