夷狄を待ちながら (集英社文庫)
J・M・クッツェー
集英社
2003-12-16


 はろはろ~どうも私です!(・◇・)ゞ
 今日は念願のクッツェーだよ!.。゚+.(・∀・)゚+.゚
 


 でもさあ!もうまずはこれをはっきりさせとこうよ!(`・д・´)(若干キレ気味に)

 「夷狄」という言葉!

 前もぐちゃぐちゃ言ったけど、これはもともと中国の朝廷が、自分たちに従わない周辺部族を呼んだ言葉でありますよね。わたしの認識としては、夷狄って言葉は完全にその時代の中国の周辺部族を指す言葉であって、がっちりした固有名詞なんですよ。匈奴とか倭人と一緒。誰かから見た(まー主に中国だけど)ある民族の名称。

 それをね! 原題の「Barbarians(直訳・野蛮人、蛮族)」と一緒にしちゃいけないと思うんですよ。だめなんですよ。間違ってるんですよ。誤訳なんですよ。日本語わかんない人が訳してるんですよ。

 てか、ほんとに謎すぎたから、訳者あとがきでなぜこの言葉を使ったのか解説してるに違いないって思ったんだけど、してねえし!(゚皿゚メ)

 え、なんなの、まじで。クッツェー先生に喧嘩売ってんの? ねえねえ?

 いやでもまじで喧嘩売ってんだとは思うんですよ。だってこの訳者、ほかにもいろいろやらかしてんですよ。例えば、この小説の舞台は軽くファンタジーで、別にどこという設定はないんですが、それでもまあ南アフリカとかあの辺ですよ。その雰囲気ですよ。ジョル大佐とか、そういう名前の人が出てくる世界ですよ。そこで「異邦人」という言葉を使うんですよ、この訳者は。

 はいはい、私も一応これについては調べましたよ。さぞかし素晴らしい、この言葉でないといけない理由があるんだと思ってのことですよ。そしたら一応は「邦人」というのは、直、日本人のことではなく「自国の人」という意味だということを知りましたよ。わかりましたよ。

 その上で言うけど、おかしいだろこれ。だって、「邦人」って日本人が使う日本の言葉じゃん。アメリカ人が会話で「邦人」って言う? じゃ、日本語ぺらぺらのアメリカ人が「あの人、邦人なんだけどさ」みたいにいったとき、私たちは「いまの「邦人」という言葉はアメリカ人の口から出たのだから「アメリカ人」という意味だな」って思います? 思わないでしょ? もう「邦人」と「日本人」はニアリーイコールなんですよ。それが訳者の時代は(つってもそんな古くないし)原義に近かったとか、考えられませんよ。

 もうね、おかしい。誤訳に次ぐ誤訳というか、もう言葉のセンスがない。訳者に。ちなみに土岐恒二って人ですけど。この人日本人なのかな? 日本語喋れるのかしらって思うくらい。

 もう言いますけどね、最初の行からひどいんですよ。

 なぞなぞいくよ? 丸いガラスが針金の輪にはまってぶら下がってて、玉は黒っぽくて不透明だけど、向こうからは玉を透かしてちゃんと物が見えるものな~んだ? 答え? サングラスですよ。

 あのね、もうこれは絶対訳が悪い。クッツェーは悪くない。原文なんか知りませんけど、もうこれは絶対そう。サングラスというものを比喩を使って表現し、それが日本語に訳された結果が黒い玉ですよ!!!! もうどうにかして! Google翻訳しないで! 日本語に訳して! お願いだから!

 

 私の悲痛な叫びが届いたならば、誰かこの「Wating for the Barbarians」を訳し直してください。まじで。そしたら買うから。もう全然読めない。下手な日本語の向こうにあるエキスをなんとかすすろうとするんだけど、辛い。もう単語チョイスだけじゃなくて、文章もひどいからこの人。

 しかもわかりにくいひどさなんだよね。翻訳ものは、訳者のあとがきを最初に読むべきかもしれない。まず、読める翻訳物は訳者の文章も良い。もうこれはセンスがなさすぎる。そのせいで全然物語に入っていけない。普通でいいから訳してくれ。いつまでも言っててもしょうがないからあらすじへ進むけども。



 あらすじというか、この物語に横たわるものはやっぱりクッツェー先生の育った環境のトラウマでしょうなあ。「少年時代」って、自伝的な読み物ですけど、ファンは読んでみたらいいと思います。

少年時代 (Lettres)
J.M. クッツェー
みすず書房
1999-08


 クッツェー先生の何がよろしいかって、まっすぐに立とうとするところ。陳腐に言えば、真実を求めている姿勢とでもいいましょうか。

 物語としては、(主人公の側にとっての)野蛮人たちの地と接した辺境の町、そこの民政官の目から見た世界ですね。
 帝国、と呼ばれる西洋人と思しき人たちと、原住民である「野蛮人」。民政官は帝国の人間で、しかし他の帝国の武官たちと違って野蛮人を「理解している」ように思っている。情けをかけている、あるいはかばっている。
 というのも、彼らのいるこの「土地」は原住民たちが歴史を刻んできたものであり、帝国は新参者です。あたかも西洋人移民とアフリカ原住民といったような、この構図が、クッツェーの中にとても強くある。
 そこで彼は何を見るか。土地というものが誰に所属するのか(あるいは誰が土地の所有者なのか)、そこにもともと築かれていた社会や文明をいともたやすく蹂躙することの是非、権利の是非、原住民たちの原始的な生活への嫌悪、帝国人という文明を持った人々、その文明というものに対しての疑問(つまりどちらが良いとか悪いということはあるのか?)。
 しかし、クッツェーの中で原住民が土地のものであるという事実に対する憧れはとても大きく、それが主人公の民政官が野蛮人の女へ施す行為として描かれている。けれど、自身の中にあるその憧れさえも、きちんとクッツェーは見つめている。野蛮人の女に対する礼儀がなっていないと考えている。そして、その礼儀なるものは彼がその土地の異物である以上、決して手に入れられないということも。
 ここからさらにクッツェーがいいのは、野蛮人を決して美化しないこと。彼らもまた帝国のように狡猾で、盗み、奪い、人を殺す。帝国は防衛しなければあっという間に丸裸にされてしまう。少なくとも、その辺境の町においては。人間なのだ、すべては。


 クッツェーはそれを知った上で物語を語る。そこが素晴らしいと私は思う。この物語を中村文則なんかを崇拝してるクソ左翼どもに読ませてやりたい。(私は右翼じゃないけども)右翼になれとかそういうことじゃなく、もうああいう話がクソすぎて浅すぎてどうしようもない。

 もうこのクッツェーの重みを見ろよ。ちゃんとよく考えてみろよ。クソの話ししてるとクソになるからやめるけど、もうちゃんとしてんなクッツェーは!と思いますよ。最大級の賛辞ですけど。


 まあ、この人の生まれた時代が時代だし、いまはもうちょっと思想が進んでるから欧米人んんんんってとこもあるけども、あとほんとにこいつらキリスト教だな!(`・д・´)ってとこはあるけども、この人の姿勢がとてもいいです。みんな見習うべきです。小説を書くにあたって、みんなこうあるべきです。

 てかさ、あらすじよんでわかったっしょ? 「Barbarians」って単語がどれだけ重要か! 「野蛮人」って言葉は最近使っちゃダメなんじゃないですか~~? みたいなクソみたいな考えでクッツェーは「Barbarians」って単語を使ってないんですよ!! 

 まずそれを分かれ!!! この馬鹿どもが!!!(゚皿゚メ)(゚皿゚メ)(゚皿゚メ) 


 まあ、あとクッツェーは男だから性欲とかまじめんどくさいなって思うわ。男の人はこういうほうがいいのかな? なんか全然感情移入できないんですけど。まあ、クッツェーが精力強いんだろうね(下世話)。

 でもほんとに。こないだの恥辱も精力老人の話だったし、未読の「遅い男」ってのもそういう話っぽいし。なんか、そういうところをはぎとるともっと真実が見えると思うんだけど、男の人はそんなことないのかな~よくわからん。

 気に入らないところとして、同じような男が主人公なのがやだなー。つまらん。いったんそこから離れて欲しいけど、クッツェーももう寿命が近いくらいの人だしな。

 なんか動物愛護の話とかあったけど(買ってない)、全然読む気にならない。キリスト教&欧米的動物愛護なんか糞食らえですよ。あいつら人間が特別だと思ってるんですから。もうほんとにあの考え方は相入れない。

暴力の人類史 上
スティーブン・ピンカー
青土社
2015-01-28


 「暴力の人類史」も、捕食という暴力みたいな言葉があって、もうアッタマきましたから。えーじゃあ狼は生物として暴力的なんですねーみたいな。(`・ω・´)

 日本人としては、捕食って暴力じゃないと思うんですよ。あいつら殺しすぎて肉くいすぎたから嫌になっちゃったってだけですよ。それに日本を巻き込まないでいただきたい。

 私は食べることは生きることであり、何を食べても命をいただくことに変わりはないと思っています。だいたい、海外のベジタリアンってダイエット目的の人だって多いんですからね(ぼそっ)。


 というわけで、このままだと欧米嫌い、否、異文化のバカが押し付けてくる価値観嫌いが加速するだけなのでこの辺で終わり。読みたくなった皆様におかれましては、訳には注意してお読みください。訳が訳なのでおすすめはできませんが、クッツェーはおすすめです。

 それではまた次の小説で。ばいばい!(*・ω・)ノ