日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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吾輩が汗を流した現場です

2020年11月09日 17時40分17秒 | 日記
「伊東市観光会館」は、静岡県伊東市和田1丁目にある。伊豆半島の東の玄関口である伊東市の観光会館です。昭和40年3月に当時は不動建設㈱だった現在の㈱不動テトラへ入社した筆者が最初に赴任した現場です。
 「伊東市観光会館」は山紫水明の豊かな自然に周りを囲まれた伊東市の観光地の紹介から、自然保護や市民の健康づくりなど、また文化事業等を推進しています。
延べ床面積は約4,600平方メートルで、地上3階建ての建物となっている。 ホール、別館の他に会議室が4つある。ホールは定員1,007名(1階席715名・2階席292名)収容可能である。有名な歌手のコンサートや 映画も上映されていている。

 設計は、横浜の㈱国設計が1964年の指名コンペで獲得しました。事務所創設者の江國正義(旧姓田中)は、東京帝国大学建築学科を卒業後、大正9年に同大学助教授に就任しました。大正12年の関東大震災直後には、帝都復興のための特別委員としてメートル法による日本初の「建築構造基準」を制定しています。
 昭和になり研究の成果を実践に求め、服部時計店本店(銀座和光・昭和5年)、 東京高島屋(日本橋・昭和5年)、軍人会館(九段会館・昭和7年)、台湾銀行本店(昭和8年)、 日本生命本社ビル(大阪・昭和10年)など多くの構造設計を手がけました。戦後、横浜国立大学や法政大学に招聘され、研究者・教育者として精力的に活躍しました。昭和27年には横浜国立大学工学部長を、同28年からは同大学学長を2期努め、 同34年の退官後、名誉教授に推挙され、昭和37年6月横浜に「国建築事務所」を創設しました。
 株式会社不動テトラ(ふどうてとら)は、東京都中央区日本橋小網町に本社を置く、日本の建設業者(ゼネコン)。2006年 (平成18年) 10月1日に、総合建設業の不動建設株式会社と、海洋土木・消波根固ブロック大手の株式会社テトラが合併して誕生した。テトラの設立時の経緯から、新日鐵住金が株主となっている。消波ブロックの代名詞ともなっている「テトラポッド」は、不動テトラの登録商標である。不動建設㈱は1947年(昭和22年)1月28日 大阪市に株式会社瀧田ノ組として設立された。筆者が入社した時の本社は大阪市南区鰻谷中之町にあった。
 閑話休題。
 伊東温泉の中心を流れる松川の川沿いには東海館などが建ち風情ある景色を演出しているが、其の河口に位置する伊東港に観光会館は面している。

 徳川家康の外交顧問・三浦按針(英人:ウィリアム・アダムス)が松川河口で日本最初の洋式帆船を建築したことを記念して松川河口に架かる“なぎさ橋”のたもとに按針碑が立つ。イギリス生まれのアダムスはオランダ商船隊の水先案内人を勤めていたが、慶長5年(1600)に船が難破して九州に漂着。後に家康の信任を得たアダムスは250石取りの旗本に取り立てられ、帯刀を許されたのみならず相模国逸見に采地も与えられた。また、三浦按針の"按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ。その記念碑の前の空き地に現場事務所と飯場があった。江東区砂町の資材置き場から運ばれた畳には、南京虫が巣食っていて駆除するまでに何度も食われた。南京虫は、床虱ともいう吸血性の寄生昆虫で、首や手首の被服との境目を吸血する。刺されたところは極めて痒い。
 港には東海汽船の事務所があり宇佐美から通勤してくる年上の別嬪の事務員さんとすぐに親しくなった。着任時の現場は基礎工事の最中で、掘削はモンケンでレールを打ち込んで松矢板で土留めをする工法で行われていた。深い部分の掘削は湧水が多く砂質土のために苦労した。海側の部分では水中ポンプを埋め殺したこともある。
 コンクリ-ト打設はタワーのバケットをウィンチで引き揚げ、3才の深型カート車で運ぶという、所謂、猫打ちで行った。鉄筋工の配筋検査が済み、型枠の穴を襤褸(ウエス)で塞ぐのが済むと設備工事や電気工事のスリーブ入れと続き、スラブの上にカート用の通路を作る。コンクリート打設は現場のお祭りだから別途工事の監督まで全員が青竹を持ってコンクリートを突き固めた。
 鉄骨工事は大阪の㈱豊南製作所が担当し、リベットで鉸める工法だった。灼熱したリベットを空中でキャッチする鍛冶鳶の妙技には舌を巻いた。基礎に埋め込んだアンカーボルトの台直しやモルタル饅頭による高さの微調節など此の現場で覚えたことは多い。
 現場のスタッフは、現場代理人が本籍福島県で大阪都島工業卒の菅原和雄氏。次席が都城工業卒の野上正直氏。野上氏は当時、伊東の芸者と同棲していた。野上氏は、友人の姉にあたる教師に筆おろしをされたという人物。次が女形タイプのなよっとした阿部氏。次が筆者と同期の渡辺君。支店の担当課長は浅草寺宝蔵門の現場代理人だった忠岡氏。安全担当は支店の塚越氏。設備担当は支店の寺内氏。他に飯炊きの小母さんとその娘が事務員でいた。
 別途工事の空調設備は静岡市の菱和設備㈱で担当の分部氏は小柄でちょび髭をはやしていた。分部氏の静岡弁は大阪弁の多い会社の中では懐かしく聞こえた。
 仕事が終わった後は港で釣りを楽しみ、月に二度の休日にはスクーターに乗って近隣を遊びまわった。当時、原付免許しか所持していなかったが一度も捕まったことはない。
 風呂は現場の近くの銭湯へ通ったが天然温泉だったと思う。その他に開通したばかりの新幹線に乗って銀座の支店に行くのが楽しみだった。当時は新幹線にビュッフェがあった。
 取りとめもない話に終始したが世の中に出て最初に携わった仕事だから意外に憶えているものだと我ながら思う。
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