この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。



「で、
    どうだった?
    お前の見立てを教えておくれ。」

表の営業の慌ただしさも終えた深更、
鬼栖庵の主は、
正しく〝鬼の栖〟の主となっていた。


この宿を支えるのは、
そこに無法を許さぬ格式と
沈黙に顧客を守って崩れぬ壁と
そこに降り積もる権力者たちの信頼だ。


後継に悩む点では
鷲羽の老人に負けぬと
主は常々考える。
一度は手に入れたかと思った男は、
予想に違わず、
その掌中の珠と慈しむ少年ゆえに揺らいでいる。


これがチャンスと思わねば、
この宿の主は張っていられない。
同時に、
ここの主を楽しむ余裕もこの男の適性を示している。


多すぎる秘密は危険を伴う。
かつて鷲羽海斗が救出した息子は、
欲をもったのだ。


主がその夜、
弱々しく言い訳を繰り返す息子は
父の最後の優しさを
甘い酒に受け取り眠りについた。
〝さあ
 おあがり。
 お前は疲れたんだ。〟
その声は慈しみに溢れていた。


妻というものを持たずに老境を迎えた主の
唯一の血縁は、
その存在を知る者も少なかった。
翌朝、
ひっそりと敷地を出ていった黒い車に何が乗っていたのか、
セツは特に知りたいとは思わなかった。


秘密が危険にさらされたことそのもの、
表沙汰にできない。
秘密がやすらいで眠る宿であるからこそ、
ここは鬼の栖たりえる。
人の情を深く理解すると共に、
それに流されぬ者でなければ主は勤まらぬ。


度量と胆力と冷徹。
情報の時代という言葉が広く流布した頃跡を継いだ主は、
この宿を守ってきた家系の中でも
際立って先見の明を備えた男だったのだろう。


もはや
血の繋がりで〝主〟を定めることは叶わぬ。
そして、
主は息子を連れ戻った男に
王を見たのだ。


洋間だった。
小さな老人が暖炉の前の椅子に
妙に可愛らしくちょこんと座っていた。
主は立っていた。
歩き回りこそしなかったが、
ただドアを向いてそこに立っていた。
〝サガちゃんは
 強いんじゃよ。〟
老人が慰めるというより、
子どもが父親の自慢をするような無邪気さで嬉しそうに両の手を擦り合わせたのを
セツは覚えている。


その男は
セツも見ていた。
見ていたが、
不思議に記憶は定まらなかった。
長身と整った顔と………だが、
その造作はと問われれば
それは灰色に沈んでいく。


そんな印象だった。


この宿は、
終わるのかもしれない。
漠然とそんな思いを抱きながら、
セツは片隅に控えていた。


そして、
聞いた。
タイヤが砂利を噛むひそやかな音が近づくのを。
見た。
主の体が弾かれたように揺らぐのを。


ドアが開いた。
ぶるぶると瘧を発したように震える
哀れな若者が降り注ぐ明かりに
おずおずと目をしばたたかせていた。


主が思わず踏み出した一歩は、
世間に認めてやれぬ後ろめたさと共に、
抑えがたく胸を締め付ける子への愛しさだったのだろう。
その一歩をセツは今もそう読んでいた。
主も親なのだ。
そう思ったのは、
しかし、一瞬のことだった。


続いて部屋に入った男がいた。
そして、空気は変わった。
長身の黒づくめの男は、
ぴょんと椅子から下りた老人に目もくれず、
主に頭を下げた。


隙のない身のこなしだった。
そして、
上げられた顔の端正なことはぎょっとするほどだった。
だが、
その男は己の容貌が他に与える力など、
何の興味もないようだった。

いや、
今ここにいる何者にも
この男は興味をもっていない。
傲慢とは違う。
ただ次元が違っているのだ。

冷たい。
ふっとセツは暖房のきいた室内で
冬の冷気を感じた。
男は冬の王のように感じられた。



〝サガちゃん
 お帰りっ〟
弾んだ老人の声にはっと我に返れば
洋間はいつもの姿を取り戻した。
ふかふかの絨毯を踏んで
とことこ近づく老人に構わず、
その男は主に告げた。

〝御前がご迷惑をおかけしました。
 このまま御前をお連れしたい。
 失礼いたします。〟


セツの脳裏に鮮烈に残ったのは、
その冷気だった。
おそらくは戦闘を終えたばかりだった男の纏う抜き身の風情は、
静かでありながら凄まじいオーラを発していた。



主は、
あのとき、
出会ったのかもしれない。
己の後継を託したいという切望に。
そして、
その切望が主を真のこの宿の主とした。
己を縛っていた枷を外させるほどに。


セツは今そう思っている。
〝大切なお客様〟として、
ふたたびセツの前に現れた男は、
「佐賀様」という名前をもっていた。





「こちらに佐賀様を
 いただけるか………でしたら、
 ありません。」


セツは、
男をその名で呼び、
主の問いに答えた。

再会の日、
セツは軽い驚きを覚えていた。
なぜ一警護だった男がこれほどの厚遇を受けるのか。
それは主が白々しく捲し立てた息子の奪還への感謝などではあり得なかった。


それは、
あの明け方にひっそりとこの宿を出ていった車に乗せられて
とうに処理された一件のトラブルに過ぎず、
男は老人の配下として、
その件に関わった手足に過ぎない。



初めて、
客として接待を勤めた〝佐賀〟に向かって
主が乞うた願いに、
セツは
それをようやく知った。
そして、
それは叶うのではないかと思った。


冬の王は、
王の威はそのままに、
少年を伴っていた。
そして溺れていた。
世にも人にも馴染まぬのは王も少年も変わらなかったが、
少年はあまりに脆かった。


この宿の秘密に抱き取って
そっと慈しむしかない。
そう感じた。
だが、
王は、
鷲羽という国を得て、
そこに少年を包む繭を得た。


 まあ
 諦めたものでもないさ
春の披露目の折り、
何をというでなく主は呟いた。


そして、
ふたたび現れた王は揺れていた。
あの王を絵ながら珠玉自らその中に惹かれていく男がいたとは。


セツはふっと微笑んだ。
王の威を恐れず、
王の愛をものともせず、
その珠玉の心に場を占めた〝たけちゃん〟
という愛らしい呼び名をもつ男、
どんな男なのだろう。
会ってみたいものだ。
そう思った。


「なぜだい?」

主が不服そうだ。
佐賀の接待を任せたときから、
主はセツには心を隠さなくなっていた。
共犯者ということだろうか。
それを擽ったくも思いながら、
セツは楽しんでいた。

心とはおもしろいものだ。
人を揺らし、
醜くもすれば美しくもする。
神すらも及ばぬほどに美しく。


「勾玉を着けておいででした。」

セツは、
訝しげな主の顔を前に、
恍惚として、その笑みを変えてみせた。

「寝間から出られます時、
 佐賀様は胸に勾玉をかけておられました。
 お話に聞く翠の光、
 しかとこの目で見せていただきました。

 それは、
 鷲羽の長であることを
 佐賀様が受け入れておいでの証でございましょう。」


廊の曲がり角から現れた客人を迎えた一瞬を、
セツは繰り返し思い起こしていた。

恭しく頭を下げ、
仲居の務めを果たしながら、
今まさに生きて動く神話の中に、
己はいた。
そう思う。




翠光が幾百の矢を放っていた。
ややうつむく男の顔は
その光を受けて静謐だった。
緋から覗いた細い指先が、
翠光に触れながらそれを弾くほどに白かった。
はだけた男の胸を縁取る黒は力に満ち、
緋の薄布は黒に抱かれて揺れていた。


着せるのではなく
小さな頭を残して緋に包まれた少年の
白い指先だけが、
命をもって男の胸を辿るのを
その一瞬にセツは見た。


その指に滴る欲情が
翠光に透き通る。
その後ろに幻が甦った。


〝休ませたいのだが。〟
声が降ってきた。

〝調えてございます。
 お食事はいかがいたしましょう。〟

顔は上げなかった。
その指先すら
見てはならぬものだと、
セツは感じ取っていた。

〝気にかけてもらい感謝する。
 だが、
 こちらから呼ぶまで構わないでいてもらえたら
 ありがたい。〟

〝かしこまりました。
 果物と御酒とを
 次の間に用意してございます。
 もしよろしければお召し上がりください。〟


黒い浴衣の裾が
目の端を過ぎていった。



ふうっと
恰幅のいい体が吐息に揺れた。
鬼面は面白げに主を見下ろす。

「勾玉かね。」

「はい。」

鬼の栖の主従は、
短く確認しあった。


「次はあるかな。」

「どうでございましょう。
 鷲羽を離れても
 心は縛れませんから。」

いかにも惜しいと
主はこぼし、
セツは微笑む。

次はないともあるとも言えぬ。
だが、
ここに逃れても
逃げ切れぬ。
己の恋情から逃れることのできる者はいない。


呼び鈴は鳴らなかった。
白い指先が浮かぶ。
セツは思う。
あの少年はどこまで連れて行かれたのか。
深淵か天空か、
その極みを漂った名残を纏う白は欲情を結晶させて美しかった。


イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。


人気ブログランキング