平和主義と財政と右翼と左翼 | ずるずると道・郷・話を愛でる

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佐藤健志氏の最新刊「平和主義は貧困への道」の紹介放送が上がっていた。

 

 

 

 

この本に書かれていた、財政法第4条の話は、新聞赤旗のサイトにQAとして載っていた。

 

2008年4月24日(木)「しんぶん赤旗」

公債発行を禁じた財政法の規定はなぜできたの?

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-04-24/ftp20080424faq12_01_0.html

 

〈問い〉 戦後、公債発行の禁止が明記した財政法の規定がつくられたのはなぜですか? なのになぜ「国の借金」がふくれあがったのですか?(愛知・一読者)

 

〈答え〉 わが国の財政法は、「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない」(第4条)とし、国債の発行を原則として禁止しています。

 この規定は、戦前、天皇制政府がおこなった無謀な侵略戦争が、膨大な戦時国債の発行があってはじめて可能であったという反省にもとづいて、財政法制定にさいして設けられたもので、憲法の前文および第9条の平和主義に照応するものです。

 この点について、現行財政法の制定時の直接の起案者である平井平治氏(当時、大蔵省主計局法規課長)は、当時の解説書(「財政法逐条解説」1947年)で、次のようにのべています。

 「戦争危険の防止については、戦争と公債がいかに密接不離の関係にあるかは、各国の歴史をひもとくまでもなく、わが国の歴史をみても公債なくして戦争の計画遂行の不可能であったことを考察すれば明らかである、……公債のないところに戦争はないと断言しうるのである、従って、本条(財政法第4条)はまた憲法の戦争放棄の規定を裏書き保証せんとするものであるともいいうる」

 こうした、財政法での国債発行の原則禁止と憲法の戦争放棄との関連は、年間5兆円近い軍事費をもつ「軍事大国」となり、その財源に赤字国債があてられている今日、戦後の原点としてあらためてふまえなければなりません。

 しかし一方、財政法第4条には「公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる」というただし書きがあり、これにもとづいて66年(昭和41年)以降、建設国債の発行が始まり、公共投資拡大を恒常化しました。さらに、75年度からは、財政不足をおぎなうために、赤字国債を発行するにいたりました。

 赤字国債をふやすことが将来世代にツケをまわし大変な危機をまねくことはわかっていながら財界の要求にこたえて、“あとは野となれ山となれ式”に公共事業費、軍事費をふくれあがらせてきた政権政党の責任が改めて問われます。

 

無力型の平和主義を唱えるがゆえに、国債を発行することは”罪深い”としているのである。

 

現行財政法の制定時の直接の起案者である平井平治氏(当時、大蔵省主計局法規課長)は、当時の解説書(「財政法逐条解説」1947年)で、次のようにのべています。

 「戦争危険の防止については、戦争と公債がいかに密接不離の関係にあるかは、各国の歴史をひもとくまでもなく、わが国の歴史をみても公債なくして戦争の計画遂行の不可能であったことを考察すれば明らかである、……公債のないところに戦争はないと断言しうるのである、従って、本条(財政法第4条)はまた憲法の戦争放棄の規定を裏書き保証せんとするものであるともいいうる

 

好きなように公債を発行することができると戦争ができる国になるから、公債を発行することは基本的に悪いことだ。だから特別に許した時だけ発行するということらしい。

 

官僚は法律の奴隷であり、それを遂行することは考えるまでもなく基本的な行動である。

財務省の財政均衡主義は別に最近に始まったことではなく、敗戦直後の米国による占領期に始まっていたのであった。真面目にまじめに・・これをこなしているのが財務官僚であり、それゆえに、増税、不況時においても確実に取れる税制は、この法律の条文の意図を実現する”財政均衡”に沿ったものである。

 

しかし、果たしてこれは、今の日本に必要なことなのだろうか?

 

共産党が嬉々として上記の新聞のQAとして取り上げていることなどを見れば、これが「平和主義」に根差したものだろうということはわかるだろう。

保守政権といわれる現政権や与党の考え方は、新自由主義で、グローバリズムをすすめるものである。それは、グローバリズムが国境や国籍にこだわらないことを前提としていることを考えると、「平和」でなければ成り立たない。共産党と同様に「平和主義」を前提としていることである。それ故に、この財政法第4条が訴える、「財政均衡」を変える理由がない・・という話である。

 

こんなところにも存在する「平和主義」が、経済的に衰退する日本からの当然の復興の手段である、国債発行を取り押さえている、というのは実に興味深い。

 

とりわけこの「平和主義」が、日本特有の、「自国(のみ)が積極的に軍事力を持たない」という意味になっているところに、その悲劇の発端がある。そのあたりの「根本問題」を直視することによって、本当にやるべきことが見える。

 

 

 

そして、前回の動画に引き続いて本の第2章以降の紹介をする動画が上がっていた。

 

言いたいことがありすぎて、佐波さんの口を挟むタイミングが大変そうな様子がうかがえてしまうが、その特攻ぶりはなかなかほれぼれするところでもある。

今回の話は、GHQの2重構造と、日本の右翼左翼がその2重構造のそのまま頼って、そこパラダイムから抜けられていないという説を披露しているものである。

 

しかし占領後に、自主独立の手立てとしての再軍備を吉田茂が拒否するということを行ってしまい、それを修正することなく今に至るという悲劇の始まりでもあったという。そんなに日本人は敗戦に打ちのめされたのか・・。直接打ちのめされた後の世代もそのパラダイムから抜けられないのか…。

ここから抜けるためにはどうすればよいのか、ということが、この本に書かれていると、佐藤氏はsaya氏に行っていたように思うが、最後まで読んだところ、確かにそれは書いてはあった。実にシンプルなことではあるが、「パラダイム」の強力さは一人一人のその決断を鈍らせるには十分な力を持っていることは、現実を見てもわかる。しかしあきらめるわけにはいかないし、あきらめたら・・そこで・・・

試合終了、そこで行きつく先は一つになってしまうのである。

あとは、それを「ええじゃないか」と踊り狂って過ごすのか、絶望に耐えて、耐えきれなくなって死ぬか、という選択肢になってしまうのである。それはあまりにも、先祖にも申し訳なさすぎるし、当然子孫に対しても無責任すぎることである。