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『八十日間世界一周』ジュール・ヴェルヌ著、鈴木啓二訳

>協働の物語

この話は、理想の協働のあり方の物語と読むことができます。

この作品の主人公、フォッグとパスパルトゥーはお互いに対立する性質をそれぞれ持っていて、それぞれ静と動の人ということができます。例えば

 

フィリアス・フォッグは、いつものあの動じることのない表情で、あたかも彼自身と直接戦っているかのようなこの猛り狂う海の光景を眺めていた。彼の表情はひとときも曇ることはなかった。が、二四時間の遅れが生じれば横浜行きの客船の出発時刻に間に合わなくなり、それが彼の旅に支障を来すことにもなりかねないのであった。しかし悠揚迫らぬこの人物は、あせりも不安も感じることがなかった。それはあたかも、この嵐も全く計画のうちであり、予測されていたかのごとしであった。この不測の事態についてこの旅の友と語り合ったアウダ夫人もまた、彼の様子をそれまでと変わりなく平静であると感じた。

一方パスパルトゥーについては、彼がどれほどの怒りのうちにこの苦難の時を過ごしたか、想像がつこうというものである。その怒りを彼はほとんど隠そうともしなかった。それまでは全てがあんなにもうまくいっていた。大地も水も、自分の主人にその身をささげているように見えた。汽船も汽車も自分の主人につき従っていた。風も蒸気も一体となって主人の旅の手助けをしていた。しかしついに、誤算の時が告げられてしまったのか。パスパルトゥーはまるで二万ポンドの賭け金を自分の懐から出さねばならないかのようで、生きた心地ではいられなかった。

のように、待つしかない状況の捉え方が対照的ですし、また、

 

その間パスパルトゥーは、一本の木の最も高い枝の上に乗って、一つの考えを何度も繰り返し思い描いていた。その考えはまず彼の心を稲妻のように貫き、やがて彼の頭の中に焼き付けられた。はじめは彼はこんな風につぶやいた。「それはあまりの気違い沙汰だ。」しかし今ではこう繰り返すのだった。「いや、悪くない考えかもしれん。ああした馬鹿者たちを相手にする時には、これは一つの、いやひょっとして唯一のチャンスかもしれない。」

その直後のことであった。情景が急変したのである。恐怖の叫びがあがり、おびえた群衆たちは誰も皆我がちに体を地に伏せた。老藩王は死んでいなかったのか。彼が突如幽霊のごとく身を起こし、若き妻をその腕に抱き上げ、彼に亡霊のような外観を与えているうずまく靄の中を、火刑台から下りていく姿が見えたではないか。行者も衛兵も祭司も突然の恐怖にとらわれて地に顔を伏せたままでいた。目を開いてこの驚異を見ようとする勇気は彼らにはなかった。

こうして件の蘇生した人物は、フォッグ氏とフランシス・クロマティー卿が立っている場所の近くまでやってきた。そしてそこで短くこう言った。「逃げましょう。」それはパスパルトゥーその人であった。あのパスパルトゥーが、濃い靄が立つ中を火刑台までしのびよっていったのであった。あのパスパルトゥーが、いまだ深い闇を利用して若い女性を死から引き離してやったのだった。あのパスパルトゥーが、大胆かつ見事にその役割を果たし、居並ぶ人々の驚愕のさなかを通り抜けてきたのであった。

番狂わせを起こして危機的状況を挽回するのは、パスパルトゥーの本領発揮といえます。とはいえ、

 

彼は二つのことに気づいていなかった。まず一つは、インドのパゴダの中にはキリスト教徒たちの入場を厳しく禁じている場所があるということ。そしてもう一つは、信徒たち自身ですら、入り口で靴を脱ぐことなくパゴダ内部に入ることはできないということであった。ここで注目しておかなくてはならないのは、英国政府が、当然の政治的理由から、当該国の宗教を、その最も無意味な細部に至るまで尊重し、また国民にも尊重させ、この習慣を侵す者は誰であれ厳しく処罰しているという点である。

パスパルトゥーは何の悪意も持たず、ただ一人の旅行客としてパゴダの中に入っていった。彼はマラバルの丘の内部を飾る、目もくらまんばかりの光り輝くバラモン装飾に見ほれていた。その時であった。彼は突然、神聖なる敷石の上に押し倒されたのである。激怒にあふれた目つきの三人のバラモン僧が彼に襲いかかり、彼の靴と靴下をはぎとった。それから彼らは、野蛮な叫びをあげながら彼をめった打ちにした。

しかし頑健で敏捷なフランス人は勢いよく体を起こした。彼は拳骨一発と足蹴りを一発与え、長い法衣を着て身動きがとれないでいる二人の敵たちを殴り倒した。それからパスパルトゥーは全速で走りながらパゴダの外に飛び出していった。三人目のインド人が群衆をけしかけながら彼のあとを追ってきたが、その男との距離もすぐにひろがった。

「そして証拠物件として、冒濱者が残したこの靴があります。」書記はそう付け足して、机の上に一足の靴を置いた。

「僕の靴だ。」パスパルトゥーが叫んだ。彼の驚きはこの上もなく、制することもできぬまま、自分でも意識しないうちにこの叫びを発してしまったのであった。

主人と召使の頭の中に生じた混乱がどんなものであったかは想像がつく。あのボンベイのパゴダでの出来事を彼らは忘れてしまっていたのだった。そしてまさにその出来事のせいで彼らは今カルカッタの裁判官の前に連れて来られているのだった。

ランダムウォーク裏目に出て全体の工程に迷惑をかけることもあります。けれども、それに対するフォッグの対応が、

 

パスパルトゥーは茫然自失の状態であった。この刑のために自分の主人は破産に追いやられる。これで二万ポンドの賭け金が失われてしまう。そして全ては、自分が全くの野次馬根性であの忌まわしいパゴダの中に入っていったせいなのだ。フィリアス・フォッグの方は、まるでこの有罪判決が自分とは関係のない出来事であるかのように、いささかも取り乱さず、眉をひそめることすらなかった。しかし書記が次の案件に移ろうとした時に、彼は立ち上がってこう言った。

「保釈金を支払おうと思います。」「その権利を認めます。」判事が答えた。フィックスは背筋の寒くなるのを感じた。が、判事が「フィリアス・フォッグとその召使両人の外国人という身分に鑑み」て、保釈金をおのおのについて一○○○ポンド(二万五○○○フラン)という多大な額に決めたのを耳にして、再び安心をとりもどした。

もしもフォッグ氏が刑に服さなかった場合、支払うべき金額は二○○○ポンドになる計算であった。「支払います。」そうこの紳士は言った。

そしてパスパルトゥーの持っていた財布から紙幣の束を取り出し、それを書記の机の上に置いた。

「このお金はあなたが監獄を出られた時にお返しします。」判事がそう言った。「それまでの間、この保釈金と引き換えにあなたは自由の身です。」「行こう。」フィリアス・フォッグは彼の召使に言った。

極めて事務的であり、一切おとがめがない、というのは非常に重要なポイントです。フォッグとパスパルトゥーの間には、主人と召使いという明確な上下関係があり、フォッグはパスパルトゥーにさまざまな指示をしますが、やり方に関しては口出ししない、奇妙な不干渉が徹底されていることがわかります。これがこの物語を協働の寓話と読んだ時の一つの教訓です。

 

上下関係の中にある奇妙な不干渉

 

パスパルトゥーにしても、

 

「私はここまでフォッグ氏を尾行してきた。しかしいまだに、ロンドンに頼んである逮捕状が手元に届いていない。だから君に手伝ってもらって香港に引き止めておく必要がある。」「私がそれを......」「英国銀行が約束している二○○○ポンドの報酬は君と山分けしようと思っている。」「絶対に御免だ。」パスパルトゥーは答えた。彼は立ち上がろうとした。しかし再び倒れた。彼は意識と力がいっしょに自分からぬけおちていくのを感じた。口ごもりながらも彼は言った。「フィックスさん。あなたがおっしゃったことが仮にすべて本当だったとしても――そんなことはありえないと私は思っているが――仮に私の主人があなたが探しておられる泥棒だったとしても――私はこれまでも、今も、あの方にお仕えしているし――あの方は善良で寛大な方だと思ってきたし――あの方を裏切るなどということは、絶対にない――世界中の黄金と引き換えでもない。私の生まれた村ではそういうことは絶対に許されないことだ。

 

尊敬や、自身の倫理観による盲目的なまでの服従がありますが、フォッグのやり方をまねて、何かをする、ということはありません。どこまで行っても、自分は自分、他人は他人なわけです。それが尊敬する相手や目上の相手であってもです。逆にフォッグがパスパルトゥーに何か彼の職域を犯すようなことを言うこともありません。引用の様な致命的なミスの後でもです。仕事上のパートナー、仲間の間にはまさにこういう種類の連帯が必要です。自分と違うという理由で委縮したり腐したりしているうちはいまだそのレベルではないということです。

 

>フォッグはどういう人物か

静の人、と先ほど述べましたが、動に関する心の動きが全くない、というわけではありません。例えば、

 

「私ならダイヤを出しますね。」フォッグ氏とアウダ夫人、フィックスの三人は顔をあげた。プロクター大佐が彼らの近くにいた。スタンプ・W・プロクターとフィリアス・フォッグはすぐに互いの顔を認めあった。

「ああ、あなただったんですか、英国の方。」大佐が大きな声で言った。「あなたがスペードを出そうとなさっていたんですな。」

「そう、そして実際にそのスペードを今出すところです。」フィリアス・フォッグはそう冷やかに会えると、スペードの一つを場に出した。「私はダイヤがよいと思いましたがね。」プロクター大佐は苛立ったような声で言い返した。そして後は大げさに、出されたカードをつかんでこう付け加えた。「あなたはこのゲームが全然わかっていない。」「なるほど、私の得意なのはもう一つのゲームの方かもしれません。」フィリアス・フォッグはそう言って立ち上がった。「お望みとあらばそのもう一つのゲームを試してみても構いませんよ、ジョン・ブルの息子のようなお方。」この不作法な人物はそう言い返した。

…(略)…

「フィックスさん。」フォッグ氏が言った。「申し訳ないが、この件はただ私ひとりに関わることです。さきほど、私がスペードを切るのは間違いであると主張したことで、大佐はさらにまたひとつ私に対する侮辱を働いた。これについてきちんとした釈明をしていただかなくてはならない。」

「いつでも、お望みの場所でいたしましょう。」アメリカ人は答えた。「そしてお望みの武器を手にしながらね。」

 

是非もなく行動する激情を持っていることがわかります。より正確にいうと、彼は動を持たないために静なのではなく、巨大な衝動を持ち、それを御し得るさらに大きな理性を持つ人物なのです。そもそも、本作の目的である80日間世界一周という危険な賭けに挑むことを決めたのもフォッグであって、その意味でこの物語がフォッグ的人物の激情と理性の対決→理性敗北の危機→協働による状況の打開という流れとして読めます。80日間世界一周という試みは、ゲーム仲間とのつまらない意地の張り合いで、全財産を賭けて勝負することになるわけですから、無軌道もいいところです。フォッグなる人物の価値基準に、こういう古典的な騎士道的名誉とリアリズムが同居していて、彼を彼たらしめているのはそのうちの後者の勝利であるということは先に述べました。この物語の始まりは、後者の敗北で始まるわけで、その意味でフォッグ的ではないといえます。

 

しかしこういう衝動的行動が、ただ無軌道なだけかというとそうでないところがこの作品のすごいところです。作中でもこの理性の敗北、フォッグ的でない振る舞いは何度か見られますが、

 

フォッグ氏はじっと腕を組んだままでいた。彼は重大な決心をしなくてはならなかった。すの近くではアウダ夫人がひと言も発することなく彼のことを見つめていた。彼には夫人の長しの意味が理解できた。もしもこの方の召使が捕虜になっているのだとしたら、この方は召使をインディアンたちから奪い返すために、全てを試みられるべきなのではないか。

「死んでいるにせよ、生きているにせよ、私は彼を探し出してみせます。」彼はただそうとだけアウダ夫人に言った。

「ああ、ムッシュー。ムッシュー・フォッグ。」若い女性は彼女の旅の伴侶の両手をとりながらそう叫んだ。その両手は涙でぬれていた。

「生きて見つけ出すことも可能でしょう。もしも我々が一刻の時間も無駄にすることがなければ。」そうフォッグ氏は付け足した。

この決心によって彼は自分の全てを犠牲にしようとしていたのであった。彼はたった今、自分の破産を告げたにも等しかった。ほんの一日の遅れでも、それだけでニューヨークを発つ客船に乗れなくなる。そうすれば彼の賭けの敗北は決定的であった。が、「これは私の義務だ」という考えを前にして、彼は逡巡することがなかった。

アウダ夫人は駅舎の個室に引きこもり、そこでたった一人、フィリアス・フォッグのことを、その純粋で偉大なる寛大さや落ち着きある勇気のことを思いながら待っていた。既にフォッグ氏は自分の財産の全てを犠牲になさった。そして今は自分の命までも危険にさらす覚悟でおられる。そしてそれら全てを、何の躊躇もなく、ひたすら義務感から、あれこれ言わず、実行なさっている。フィリアス・フォッグは彼女の目には一人の英雄と映った。

 

のような人間として崇高な行動が生まれることがあるわけです。本作の人物造形からわかることとして、完成した人間は、成功にこだわらない、平たく言えば失敗する、という命題が出てくると思います。この失敗はまさに本作冒頭の掛け値無しの失敗の時もあれば、人間性復権を意味する時もあります。こういう状況の原因である先述した感情と理性の対立、さらにその奥にある意思、この総体がフォッグなる人物であり、物語を通して彼が語られていく過程が、感動を生む、というのは、まさにこの完成した人間の失敗が、美しさを含んでいる、ということだと思います。

 

完成した人間は、失敗する

 

>旅の細部

においてもやはりフォッグとパスパルトゥーのリアクションの違いが非常に意味を持っていると思います。フォッグにとっては旅は事務的なものであって、観光というようなことは眼中にありませんが、パスパルトゥーにとっては全く逆です。旅の中で、パスパルトゥーの「変身」のシーンがたびたび出てきます。

 

一二時三〇分、汽車はブルハンプル駅に停車した。パスパルトゥーはこの駅でとてつもない金額を払って革スリッパを購入した。スリッパは模造真珠で飾られており、パスパルトゥーは明らかな虚栄心とともにこのスリッパを履いた。

 

若い頃の悲しい思い出をよみがえらせるような、多彩色の羽根で飾られた中世の衣装を身にまとい、六ピエもある鼻が彼の顔に取り付けられた時、真摯なる青年はまったく惨めな気持ちになった。しかしこの鼻こそが彼の糊口の道なのだった。彼は腹を決めた。

パスパルトゥーは舞台に上がった。そして「ジャガンナートの山車」の土台部分を形作ることになる彼の仲間たちとともに整列した。彼らは全員、鼻を空に突き出して舞台にじかに横たわった。曲芸師たちの第二のグループがこれらの長い鼻の上に身を預けにきた。さらに第三のグループがその上に階を作り、第四のグループもそれに加わった。こうして、先端だけで触れ合っている鼻と鼻の上に、人間による記念塔がうちたてられ、それはまもなく劇場天井部分の垂れ幕の高さにまで届こうとしていた。

拍手はさらに激しくなり、楽団の楽器も、同じ数の雷がとどろいているかのように鳴り響いた。と、その時であった。ピラミッドがぐらりと揺れ、均衡が崩れた。土台を作っていた鼻の一つが欠け落ちて、記念塔がトランプの城のように崩れ落ちた。

それはパスパルトゥーのせいであった。彼は自分の持ち場を離れ、肩の羽根の助けを借りることもなく欄干を越えていったのであった。右手の桟敷席をはい上り、一人の観客の足元にひれふした彼は、大声でこう言った。「ああご主人様。私のご主人様。」

 

この変身というモチーフは出会った現象に感化され文字通り性質が変わることの暗示と言えると思います。パスパルトゥーは旅の中で、琴線に触れた靴を買うこと、仮装して舞台の上で何かを演じること、という大小様々の、自身のありようを変容させる意味を持つ経験をしていっているわけです。この対立する二つのリアクションは、旅する一人の人間の心の揺れ動きとも取れます。

 

訳者の解説で興味深いのが、

 

ヴェルヌの『八十日間世界一周』がシャルトンの『世界一周』誌から借りてきたのは、世界をカタログのようにとらえようとする姿勢そのものであったのではないか。二つの『世界一周』においてはいずれも、世界中の種々の「驚異」に関する「知」が、それらのエキゾティスム的神秘や観光的関心へと還元・平板化され、好奇心を強くかきたてる――しかしあくまでも了解可能な―個々の断片として並べられる。

…(略)…

あらゆる遅滞は取り戻され、最後の劇的な「幻の一日」の出現でフォッグは賭けに勝利し、アウダ夫人は彼の妻となる。フォッグ氏の「帳尻」は見事に合った。

ところが興味深いことに、この小説はもう一度、経済性と無償性が拮抗する奇妙な一文で終わっているのである。そこでは、旅における等価交換(何かを得るために)と無償性(何の見返りがなくても)への強い欲求が、再び互いに緊張をみせながら併置されている。

「そもそも人は、得られるものがもっと少なかったとしても、世界一周の旅に出かけるのではなかろうか。」

 

物語の最後でこの対立する二つの個性の融合が試みられている点です。この旅を通して、一番変わってしまったのは、旅から何も感じていなかったはずのフォッグだったというのです。これを読んだ時、我々はどう感じるでしょうか。物語は、普段理性に従って生きているわれわれを多かれ少なかれフォッグ的なひととして想定しているのだと思います。その上でわれわれの心象の上にパスパルトゥー的なものを持ち込み、それによってわれわれの理性が揺さぶられる、作中で決死の冒険や軽率な失敗として描かれるものは、理性の範疇を超えた何か神秘的な無垢なものからの呼び声であり、作中におけるパスパルトゥーという個性との出会いが、われわれの理性に風を通すような印象を受けます。こういう所感に至った人間は、最初に述べた協働のあり方を理解した人間になっていると思います。協働は何かをここでまとめなおすと、結局指示は出しても口出しはしない、というまとめ方や、いいところも悪いところもまとめて個性として尊重すること、と簡単に言えますが、これをより高解像度で読もうとすると本作を読むとよいと思います。