join the にほんブログ村 小説ブログへ follow us in feedly

『椿姫』デュマ・フィス著、新庄嘉章訳

>墓を開く

お墓の移築のシーンは強烈です。

 

大きな白い経帷子が死体を蔽うて、ところどころからだの曲線を描き出していた。この経帷子は片すみがほとんどすっかり腐って、そこに死人の片足がのぞいていた。

わたしは気分が悪くなるような思いがした。今こうやって書いているときでさえも、あの光景の思い出がまざまざとよみがえってくるようだ。

「さあ、急ごうぜ」と警官が言った。すると、ひとりの男が、手をのばして経帷子の縫い目をほどきにかかった。そして、端をつまみあげたかと思うと、いきなりそこにマルグリットの顔があらわれた。それは見るも恐ろしく、語るもすさまじい光景だった。両眼は、もはや二つの穴でしかなかった。くちびるは影も形もなくなり、そこにはかたくくいしばった白い歯が露出していた。ひからびた長い黒髪は、こめかみにへばりつき、両頬の緑色のくぼみを少し蔽いかくしていた。だが、わたしはこの顔の中にも、かつて幾度か見たことのあるあの色の白い、ばら色の、楽しげな面影を認めたのだった。

 

徐々に棺桶→経帷子と進んでいって緊張感が高まってきて、出し抜けに変わり果てたマルグリットが出てくる演出で、その前に

 

顔はといえば、これがまたすばらしく、一種独特ななんともいえぬあだっぽさがあった。ほんとに小さくて、ミュッセの口ぶりをかりると、母親がことさら念入りにつくろうとして、こんなにも小さくこしらえあげたとでもいったようだった。

言葉では言いあらわせない優雅な卵なりの顔へ、まず、二つの黒いひとみを入れ、その上に、絵に描いたような清らかな弓形のまゆを引く。そして、目を伏せれば別にばら色の影を落とすような長い睫毛で目を祓い、上品な、筋の通った、利口そうな鼻を描く。その鼻孔は肉感的な生活へのはげしいあこがれに少しばかりふくらんでいる。さらに、口もとを形よく描き、くちびるをやさしくほころばして、そこに、牛乳のように真っ白な歯並みをのぞかせる。そして最後に、まだだれも手をふれたことのない桃を包んでいるあのびろうどのような細かな毛で膚をいろどる、とこう言えば、読者には、この魅惑的な容貌の全体がほぼ想像されるであろう。

 

マルグリットの美しさを筆舌に尽くして書いておいて、最後に

 

だが、わたしはこの顔の中にも、かつて幾度か見たことのあるあの色の白い、ばら色の、楽しげな面影を認めたのだった。

 

と生前の彼女とのつながりを示すことで、このシーンはより残酷になっています。他でもないまさに彼女が変わり果てたのであり、目の前に広がる光景に対するごまかしや妥協の余地が一切ありません。これは現実じゃないだとか、彼女も生前は美しかっただとかいう、ヌルい言い訳、誤謬が生まれる余地を完全に絶っています。

 

変わってしまった彼女にもう一度会いたいという感情は、日本神話の「イザナミイザナギの離縁」の話でも出てきます。

 

死後、イザナミは自分に逢いに黄泉国までやってきたイザナギに腐敗した死体(自分)を見られたことに恥をかかされたと大いに怒り、恐怖で逃げるイザナギを追いかける。しかし、黄泉国と葦原中津国(地上)の間の黄泉路において葦原中国とつながっている黄泉比良坂(よもつひらさか)で、イザナミに対してイザナギが大岩で道を塞ぎ会えなくしてしまう。イザナミは閉ざされた大岩の向こうの夫にむかって「愛しい人よ、こんなひどいことをするなら私は1日に1000の人間を殺すでしょう」と叫ぶ。イザナギは「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて1日に1500の子どもを産ませよう」と返した。そしてイザナミイザナギは離縁した。

 

イザナミ - Wikipedia

 

このエピソードの一致は、男にとってこういう行動が根源的な動機に突き動かされた帰結であることを示唆すると思います。男というのは、たとえそれによって不幸になることがわかっていても、どこまでも薄い和解への期待に賭けてしまって、秘密を解き明かさないではおれない生き物なわけです。それの究極形が「墓を開ける」なんだと思います。期待をかける先が、何か合理的な約束ではなく、彼女の移ろいやすい美しさだったり、同じく移ろいやすい彼女の気持ちだったりするというのも男性性の分かりやすい発露だと思います。

 

リスクを推してでも会いたいわけです。リスクとも呼べない、ほどんど確実といっていい負けの目に賭けてしまうことが、会いたい気持ちの大きさの証左です。そういう風に抽象化するとこういう光景はわりとよくある話になります。昔の恋人に会ってその恋人の気持ちが跡形もなく変わってしまっていることに打ちのめされるのはいつだって男性だと相場が決まっていますが、それはそういうことで、つまりこのようにして男は、「墓を開く」ということです(笑)。

 

>チョロすぎると嫌

マルグリットのためならばどんな苦労をしてもいいと思っていたわたしは、彼女があまりにも無造作にじぶんを受け入れ、長いあいだの辛抱と大きな犠牲で購おうと思っていた恋を一も二もなくわたしにくれてしまうのではないかと、それを恐れたのでした。だいたい、男というものはみんなこんなものです。想像がこういう詩を感覚に残しておいてくれればこそ、また、肉体の欲望が魂の夢に対してこういうふうに一歩譲っていればこそ、幸福なのです。つまり、《おまえはこの女を今夜じぶんのものにすることができる。だがそのかわり、あすおまえは殺されるのだぞ》とこう言われたとしても、わたしはきっとそれを承知することでしょう。ですが、《十ルイやってごらん。そうすればおまえはあの女を自由にすることができるよ》と言われたとしたら、わたしはきっとそれをはねつけて、夜の夢に見た城が目がさめてみたら消えてしまっているのに泣くあの子どものように泣くことでしょう。

 

これも男は非常に心当たりがある話で、子供のように泣く、とあるとおり、結局どこまで行っても子供なんですね。

 

>けがれたものの復権

哀れな女たちよ!もしも彼女たちを愛してやることが悪いというのなら、せめてあわれんでやってほしい。人びとは、太陽の光線を見ることのできない盲や、自然の和音を聞くことのできない聾や、胸の思いを声にあらわすことのできない唖のことはあわれに思うけれど、しかし、廉恥心という偽りの口実にかこつけて、こういう心の盲や、魂の聾や、良心の唖のことはいっこうにあわれんではやらないのだ。ところでこうした心の不具のために、悲しみ悩んでいる不幸な女は、いきおい気違いじみたまねをするようになり、心ならずも、善を見ることも、神の御声を聞くことも、愛や信仰のきよい言葉を口にすることもできなくなるのだ。

...(略)...

キリスト教は放蕩息子の巧みな寓話を用いている。イエスは、愛欲のために傷つけられた魂に対しては、心からの愛に満たされていた。そして、喜んで、その傷をなおすことのできる香料を取り出して、手当てをしてやった。こうしてイエスは、罪の女マグダラのマリアに向かって、《なんじ多く許さるべし。なんじ多く愛したればなり》と言った。崇高な許しは崇高な信仰を目ざめさせないではおかなかった。

われわれがキリストよりも厳格でなければならないという理由がいったいどこにあろう?道心堅固な人間と見られたさにまじめくさった顔をする世間の人びとが持っているような考えを後生大事に守って、しばしば傷口から病人の悪血のように過去の罪悪を吐き出しながら、傷口の手当てをし心の傷手をなおしてくれる親切な手を待ちこがれている血まみれの魂を、にべもなく振りすててしまっていいという理由がどこにあろう?

 

「どうしてこのままじゃいけないんだね?」

「旦那もご存じでしょうが、亡くなった方に対しては皆さまそれぞれいろいろなお考えがござんしてね。あっしどもは毎日それを見ておりますよ。この土地は五年間しか買い切ってないもんで、若い旦那は、永代の、もっと広い土地がお望みなんですよ。そりゃなんといっても、新墓地のほうがよござんすからね」

「新墓地っていうと?」

「左手の、今売りに出ている新しい地所でございますよ。この墓地も、はじめっから今のようにしょっちゅう手入れをしてたら、立派なもんになったんでしょうがね。これでちゃんと見られるようにするまでには、まだまだなかなか手がかかりまさあ。それに、世の中には妙な人間がいますもんでね」

「なんのことだね、それは?」

「つまり、こんな所でまでいばりくさる手合いがいるってことでさあ。こう申しちゃなんですが、このゴーティエさんは、浮いた稼業の人のようでございますな。しかし今じゃ、おかわいそうに、あの世の方だ。こうなりゃ、毎日あっしどもがお水をあげる、あの立派なご婦人方と同じことじゃござんせんか。ところがね旦那、この近所にお墓のある人のご親戚が、この娘さんの素姓を知るてえと、こんなとこに葬っちゃいけねえ、ああいう女どもには、貧乏人と同じように、別の離れた墓場があるはずだ、とこう言わっしゃる。そんなべらぼうな話があるもんですかね。あっしは、そんな手合いはうんとやっつけてやるんですよ。ずいぶん収入があるくせに、年四度のおまいりも怪しいもの。それに、じぶんでお花を持ってくるにはくるが、その花がまあなんと言っていい花やら!亡くなった人のために泣いてると口では言いながら、内心お墓の維持費のことばかり気に病んだり、また、涙なんて流したこともねえくせに、お墓には哀れっぽい文句を刻んだり、そのうえ、近所のお墓には難癖をつけるなんて。まあ、どうか、あっしの言うことをご信用なすってください。あっしは、この娘さんを存じているわけでもなく、どんなことをなすった方かも知らねえが、あっしはこのかわいそうな娘さんが好きでならねえんです。それで面倒もみてあげれば、椿の花もできるだけお安くしてあげてるようなわけでさあ。ここに眠ってる方はあっしの一番好きな人です。あっしどもは、旦那、墓地に眠ってる人をかわいがらないじゃいられねえんですよ。なぜってね、こういそがしくちゃ、ほかのものをかわいがってる暇なんかござんせんからね」

 

まさに無償の愛、無償の赦しです。愛欲による罪を多く愛したと換言することも、忙しくて他の物をかわいがる暇がないと考えることも、発想の転換、論理の放棄です。その意味で本作の主題になっている娼婦という職業にも通ずるところがあります。その職業は絶えず愛という交換不可能な、至高のものを金銭と交換する職業であって、論理の放棄や超克と言うことがそこでは常に起こっています。

 

>娼婦の流儀

「あなたおばかさんね」とマルグリットは彼に答えました。「あなたのおっしゃることなど、あたしがきいてあげられないってことは、ようくご承知じゃありませんか。あたしみたいな女と二年もこうやって知りあいになっていながら、今さら恋人になりたいなんて、おかしいわ。あたしのような女は、二つ返事で身を任せるか、それでなけりゃ、梃子でも動かないのよ。

どうぞあたしをいい友だちとしてかわいがってちょうだい、それを越えてはいけませんわ。あたしに会いにいらしてちょうだいね。ごいっしょに笑ったり、お話ししたりしましょう。でもあたしを買いかぶらないでね。だってあたしなんか、ほんとにやくざな女なんですもの。あなたはお優しい方ですわ。あなたはかわいがられたいのね。でも、あたしたちの社会で暮らそうとなさるのには、あなたはまだお年も若すぎるし、それにあんまり情にもろすぎますわ。それよか、どこかの堅気な奥さんのお相手をなすったほうがよくってよ。よく分ってくださいますわねえ。あたしは根は正直な女だから、こんなことあけすけに申しあげるのですけど」

あたしたちみたいな行きあたりばったりの女ってものは、ずいぶん変わった望みを持ったり、思いもよらないような恋をしたりするものよ。ときにはこれに、ときにはあれに夢中になる、といった調子なの。だから世間には、あたしたちからなに一つ手に入れないうちに破産する男もあれば、花束一つであたしたちをものにする男もあるわ。あたしたちの心は、とても気まぐれなの。それがあたしたちの心のたった一つの気ばらしでもあれば、また、たった一つの言いわけにもなるんだわ。あたし誓って言うけど、だれにだってあたし、あなたにほど早く身をまかせたことなんかなくってよ。それはいったいなぜかしら?

つまりはあなたが、あたしが血を吐くのを見て、あたしの手を握ってくだすったからよ。泣いてくだすったからよ。あたしを心から哀れんでくだすったたったひとりの方だからよ。

あたしはもうあなたの幸福のお役にはたたないの。でも、生きて息のできるあいだは、あたしあなたの好き勝手になるわ。夜でも昼でも、気がむいたら、いつでもいらしてちょうだい。あなたの思い通りになるわ。でももう、あなたとあたしの将来を、一つに結びつけようなどとは考えないでね。それでは、あなたも不幸になるばかりだし、あたしだってあなたのために不幸にされちまうわ。あたしもまだしばらくは、きれいな女でいられてよ。だからそのあいだを十分利用なさればいいんだわ。でも、それ以外のことはお求めにならないでね」

 

これら刹那的、快楽主義的な思想と、

 

若い娘が素直であればあるほど、たとえ恋人にはやすやすと身を任せないまでも、少なくとも恋には身も魂も投げ出してしまうものです。というのは、疑うことを知らない彼女には、抵抗する力などは全然ないからです。ですから、こんな娘の愛を得るくらいのことは、二十五歳にもなった男なら、だれにだっていつでもできることです。論より証拠、世の中の若い娘を持つ人びとは、厳重に監督の目を光らせ、障壁をめぐらしているではありませんか!こういうかわいい小鳥どもを籠の中に押しこめておくためには、修道院の塀の高さも、尼さんが持っているしっかりした錠前も、宗教が絶え間なく課すおきても、十分ではありません。それにだれも、その籠の中へ美しい花を投げ入れてやろうともしないのですからね。ですから、娘たちにしてみれば、じぶんたちに隠されている世界にあこがれて、それがなにか心をひくものに思われるのは当然のことで、じぶんたちの入れられている籠の格子越しにいろいろな秘密を教えにきた最初の声に耳を傾けたり、はじめて不思議なヴェールの端をかかげてくれた手を祝福したりせずにはいられないのです。しかし、玄人女から真心をこめて愛されるようになるというのは、そのむずかしさは、これとは全然違ったものです。こうした女たちになりますと、肉欲のために魂はすさみはて、心は官能に灼けただれ、感情は放逸な生活のために鈍ってしまっています。彼女らにはどんなことを言っても、またどんな手を使っても、そんなことはとっくの昔に知りぬいているのです。色恋沙汰をひき起こすことがあっても、そういう場合、ものを言うのはやっぱり金です。稼業として愛するのであって、相手に心をひかれて恋するなんてことは決してありません。彼女らは、処女が母親や修道院などに守られている以上に、算盤で守られています。ですから、時々、息ぬきや、申しわけや、もしくは慰みのために、勘定ぬきの恋をすることもあるのですが、それには《気まぐれ》という言葉を考え出しています。ちょうどあの高利貸が、大勢の人から散々生血を吸っておきながら、飢えて死にかかっている貧乏人に二十フランの金を貸してやって、利息も証文も取らないで、それで今までにしたことがいっさい帳消しになると思いこんでいるようなものですね。

パリで年収二、三万フランの若い人たち、つまり社交界に出入りして、やっとどうにかやっていけるといった程度の人たちなら、だれだってマルグリットのような女の恋人になった場合、じぶんたちの出すだけのものじゃ、その女の家賃と召使のお給金にも足りないってことは、よく心得ててよ。でもそんなことは、口に出してなんか言わないわ。そんなことはまるで気がつかないような顔をしていて、十分楽しんだあげくのはては、あっさりさようならを言うわ。もしその人たちが、なにもかもじぶんでしてやろうなどと、とんだ見栄でも張ろうものなら、結局は、まるで阿呆みたいに財産をつぶして、パリに十万フランの借金を残したまま、アフリカあたりで自殺するようなことになってしまうわ。それだからって、相手の女がその人たちに感謝するものと思って?まるで反対よ。その人たちのおかげで商売を棒にふったとか、その人たちといっしょにいるあいだに、とんだ散財をしたとかって、きっとその女は言うにきまってるわ。ああ!こんなことはみんなみっともない話だと、あんたはお思いになるでしょうね?でもこれはみんな、ほんとうのことなのよ。あんたはいい方だし、あたしは大好きよ。あたしはもう二十年も、今言ったような女たちの中で暮らしてきて、そういう女がどういうものだか、どのくらいの値うちがあるものだか、よく知ってるの。だからあたしは、ひとりのきれいな娘があんたに対して持っている気まぐれを、そんなにまじめにとらないようにしてほしいのよ」

「それにまた」と、プリュダンスはさらにつづけました。「もし万一あんたとのことを公爵に感づかれて、あんたにするかじぶんにするか、二つに一つの返事をしろと言われた場合、マルグリットが伯爵や公爵をそでにしても、あんたに走るほどあんたを愛してるとすれば、あの人の払う犠牲は、そりゃたいしたものよ。あんたのほうでも、それと同じくらい大きな犠牲を、あの人のために払うことができて?そのうちに飽きがきて、もうあの人なんかいらなくなったとき、あの人があんたのためになくしたものを、あんたはいったいどうやって償ってやるつもりかしら!なに一つだって、償ってやることなんかできやしないわ。あの人はあんたのおかげで、お金もはいれば行く末幸福にもなれる世界からひきはなされてしまうのよ。あんたにじぶんの一番はなやかな時代を捧げて、しかもやがて忘られてしまうのよ。その場合、もしあんたがありふれた男なら、面と向かってあの人の過去をならべたて、じぶんもほかの情人たちと同じことをしただけなんだと言うでしょう。そしてあの人を見すてて、きっとみじめな目にあわせるでしょう。もしまたあんたが正直な人で、どこまでもあの人の面倒をみる義務があるというふうに考えるとすれば、あんた自身、どうしようもない不幸に落ちこんでしまうわけよ。なぜって、ああした女との関係も、若いうちこそ大目に見すごしてもらえるけど、相当年配になればそうはいきませんからね。あらゆることにそれがじゃまになり、家庭をもつこともできなければ、出世することもできやしない。しかも家庭だの出世だのってものは、殿方にとっては、第二の、そして最後の恋なんですものね。だからあたしの言うことを信用して、ものごとをありのままの値うちで受け取るように、女は買いかぶらないようにするのよ。そしてああいう稼業の女には、何事にもよらず、あんたの頭をおさえつけるような権利は持たせないことだわ」

あたしの言った通りでしょう!ほんとにあんたなんぞは、ただおたがいに愛しあって、田舎へ行ってのどかな夢みたいな生活をすればいいように思ってるんでしょう?だめよ。そんなもんじゃないわ。理想的な生活のそばには、ちゃんと物質的な生活ってものがあるのよ。どんなに美しい決心だって、ばかばかしい鎖だけど、鉄のように丈夫な鎖でしっかりこの世につなぎとめられていて、容易なことじゃ、その鎖をたちきることはできないのよ。マルグリットが、何度もあんたをだますようなことはしなかったというのも、あの人が特別な人間だからよ。あたしがあの人にいろいろ言って聞かせたのも、べつに間違ってはいないわ。だって、みすみす裸になるのを見るのは、とてもたまらなかったんですもの。でも、どうしてもあたしの言うことをきかないのよ!あんたを愛してるから、どんなことがあっても、あんたをだませないって言うの。それはとても美しい、とても詩的なことだわ。でも借金取りには、それじゃ通用しなくってよ。

 

物質的、実際的な生活の枷との厳しい対立、この対立を乗り越えて前者の勝利を待ち望む気持ちが、けがれたものの復権を叫ぶ声であり、娼婦という職業が文学作品の主題になるときのテーマなのだと思います。

 

>意外なラスト

本作のラストは意外です。というのも、人生を変えるほどの恋をして、絶え間ない感動と絶望の嵐をいちいち間に受け続けたアルマンでしたが、

 

家の中にじっと落ちついているなんてことは、とてもできません。部屋は、わたしの幸福を入れるにはあまりにも小さすぎるように思われました。この胸の思いをぶちまけるには世界全体が必要だったのでした。

ああ!わたしたちは大急ぎで幸福になろうとしました。まるでいつまでも幸福でいることはできないのを見ぬいていたかのように。

この最後の文句を読んだとき、わたしは今にも気が狂うのではないかと思いました。 一瞬わたしは、あやうく通りの敷き石の上にぶっ倒れそうな気がしました。ぼうっと目がかすみ、こめかみの血がはげしく脈打ちました。

やっとのことで少し気を取り直すと、わたしはじぶんの周囲を見まわしました。そ してほかの人たちの生活が、じぶんの不幸とはなんのかかわりもなくつづけられているのを見て、ひどくびっくりしました。

 

後追い自殺をしない

 

のです。創作において死とは、その人物が文字通り命を賭けたことの証拠です。命をかけて、賭けに負けて命を落としてしまうのですから当然です。もし賭けに勝ってしまうと、いかに命をかけていたといっても、なにか勝ちを推測できる合理的な理由だったり、主観的な確信があったのではないか、と考える余地があります。そういう余地を残さない終わり方がデッドエンドです。

 

主人公が死なないバットエンドの作品として、チェーホフのワーニャ伯父さんを過去に読みました。

 

真に絶望した人間の死や生活の破壊は、短絡的意味において、また利害関係者たちにとって、救いとなる場合があるので、安易なデッドエンドはバッドエンドとして一枚落ちる、ということがある

 

『かもめ・ワーニャ伯父さん』チェーホフ著、神西清訳 - H * O * N

 

結局死という装置は説得力を高めるためのものであって、死の前に登場人物の感情を十分に説得できていれば、死を用いることは必須ではなく、うえに述べたように邪魔になることもあるわけです。

 

本作でも事情は同じで、マルグリットがいくつかの手紙と思い出を残して死んでしまい、残されたアルマンはどうなったかというと、

 

最後に、わたしたちはマルグリットの墓に詣でた。墓の上には、四月のさわやかな日の光が、若葉を芽ぐませていた。

アルマンには最後にもう一つ、はたすべき義務が残っていた。それは父のもとに帰省することだった。が今度も、彼はわたしの同道を望んだ。

わたしたちはCについた。わたしは、息子の話から想像していた通りの、背丈の高い、威厳のある、しかも親切なデュヴァル氏に会った。

氏はうれし涙にくれてアルマンを迎え、愛情こめてわたしの手を握った。わたしたちを迎えてくれた、この老人の胸のなかでは、父性愛が他のすべての感情を支配していることに、わたしはまもなく気がついた。

ブランシュと呼ぶお嬢さんは、そのすみきったひとみや目つき、清らかな口もとなどが、心はただもう神聖なことしか考えず、口はただもう敬虔なことしか言わないような少女であることを証明していた。彼女は帰ってきた兄を見るとほほえんだ。この清純な少女は、遠く離れたところで、ひとりの娼婦が、その名を神に祈ってもらいたいばかりに、わが身の幸福を犠牲にしてかえりみなかったことなど、夢にも知らないのだった。

 

圧倒的喪失感です。マルグリット以外のすべてがあるわけです。家族の愛や安心できる居場所、気遣い、そういう心を慰める素晴らしいものがすべてあって、しかもその中にマルグリットがいない、ということに気付くとき、われわれは本作のバットの虜になっているんだと思います。

 

あるいは読者の感情移入の問題もあるかもしれません。つまり、命を左右するほどの苛烈な愛と喪失による傷は、家族や友人の暖かい愛で癒されるというのが、多くの人にとって了解可能、納得可能な過程であり、そのような経緯が、真に迫るということです。ここまで考えて、失恋は恋愛の一部である、という命題が出てきます。私はこの命題をさらに推し進めて、失恋は恋愛の完成である、とまで言いたいと考えています。恋愛から失恋という過程を恣意的に切り取った結婚という営みが、少なくともそれを経験した人にとって何の感動ももたらさないことは、周知のことと思います。が、それはさておき、この物語が取り扱うテーマを描くときに、主人公の死による意思の苛烈さを描くよりも、失恋の後の慰安の中の寂寞感を描く方がより必要であるということは確実に言えると思います。そもそも最初に先に紹介した強烈なお墓の移築のシーンがどういう意図でプロットされているかというと、あれがアルマンにとっての愛の死であり、あそこでマルグリットの美しさ(に象徴される彼女の存在)が永遠に失われているということを理解してからでないと、本作の語り手に、この物語を過去の出来事として伝えることはできないのだと思います。お墓を開けて絶望することは、失恋という営みの雛形なわけです。失恋するまでの恋はというと、これはその人にとって認識のすべてであって、客観視などできないもので、それがそうであるほどその愛は苛烈なんだと思います。

 

失恋は恋愛の一部