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サッカーW杯ロシア大会で、グループリーグH組の日本がポーランド戦で取った戦術が論議を呼んでいる。これは、日本人としてのメンタリティーに注目すると、非常に特異な戦法に思えた。日本的なもの(他力本願)と、そうではないもの(反武士道)が同居していたからである。歴史的な心性と連絡しつつ、そこから離れる。しかも、「決勝トーナメント進出のため」という西洋的な合目的性の装いがある。選手本人にしても、ファンにとっても、理解できるが理解できない、あるいは逆に理解できないが理解できる、という矛盾した気持ちになる選択だったのではないか。外国人は、さらに理解に苦しんだことだろう。

 

 

ポーランドに対して1点ビハインドだった後半37分、交代投入した長谷部に西野監督は「スコアはこのままでいい。不用意なファウルは避けろ」と指示した。選手たちは、自陣でパス回しを始めた。その頃、同じH組のコロンビアとセネガルは同時並行の試合闘っていた。西野監督が「反則の少ない負け」を指示した後半37分の時点では、コロンビアが1-0でセネガルにリードしていた。そして、反則行為に対する警告数によって決まるフェアプレーポイント(FPP)で、日本はセネガルを2ポイント上回っていた。FPPは今大会から導入され制度で、勝ち点や得失点などで並ぶチームは、FPPで決勝T進出を決めることになっていた。結果的に日本に初めて適用された。

 

 

日本の戦法について、選手からは「見苦しい試合だった」との声も聞こえたが、本田は「結果がすべて。すばらしい采配だった。僕が監督でも、これはできなかった」と称賛した。外国人はどう受け止めたか。元プレミアリーグ選手は「最後の10分間は恥ずべきもの。W杯で一番見たくない」と英BBCの番組で嘆いたそうだ。

 

 

 試合の経過(読売新聞から)

 

 

①他力の選択

 

 

試合の会見で西野監督は、「完全に他力。監督としては、究極の選択だったかもしれない」と述べた。サッカーの監督から「他力」という言葉を聞くとは思いもしなかった。注目すべきは、日本の判断には「コロンビアが勝ちますように」という「祈り」が含まれていたことだ。

 

 

後半37分の時点で、セネガルのコロンビアとの点差は、たったの1点である。日本が「反則の少ない負け」作戦を取った後に、セネガルが追い付いて引き分ければ、日本のGL敗退が決まっていたのである。セネガルが点を入れるか否かは、日本の努力とは無縁のこと。どうすることもできない。祈るしかない。日本選手たちは祈りつつパスを回していたことだろう。

 

 

試合時間は10分ほど残っていたのに、日本が「負け」作戦を選ぶほどセネガルが追い付く可能性は低かったのだろうか。ただでさえ、何が起こるかわからないW杯である。セネガルの負けを信じるには飛躍が必要だ。不確かなものを信じ、自力を放棄する。これは宗教的だ。スポーツの合目的性を超えている。

 

 

おそらく、日本以外の海外チームは、自分たちの運命を完全に相手に預けるような戦術はとらない。「ずるい」プレーをするのは、自分たちが有利になる合理的理由があるときに限られる。今回の例でいえば、コロンビアとセネガルが0-0だったとして、残り10分で日本が3点負けていたら、両チームは引き分けを選んだだろう。これは合理的判断である。たった1点差の確実性を信じた日本の戦術は、非合理性を多分に含んでいた。

 

 

結果として日本はGLを突破した。真宗門徒の念仏が「無碍の一道」(歎異抄)をもたらすように、「欣求16強」の他力本願は道を開いた。

 

 

真宗門徒は「南無阿弥陀仏」「帰命無量寿如来」と唱える。「南無」も「帰命」も帰依することだ。阿弥陀仏という絶対者に帰依する。これは信仰生活における根本姿勢であるが、西野監督の信じたのは、「コロンビアの勝利」という非常にあやふやなものだった。

 

 

真宗門徒でなくても、日本人は窮した時に、自力を放棄し他力にすがる。他力のなんたるかは問わない。「分別を超越した」(鈴木大拙)他力に走るのである。これは浄土教のもたらした日本人の「行動の型」の一つだと思う。歴史上も繰り返し現れ、ときには神話的な他力にすがる。根拠のないものにすがるのだから「南無」や「帰命」の対象は「空」だ。「空」に寄り添い、「空」を信じるのである。

 

 

 

②武士道

 

 

リオ五輪で桐生ら陸上リレー選手が刀を抜くポーズをしてスタジアムに入ったように、日本の男子アスリートはサムライを意識している。野球の日本代表の愛称は「侍ジャパン」だし、サッカーの代表チームの愛称も「SAMURAI  BLUE」(サムライブルー)だ。

 

 

選手たちは「サムライ」にどんなイメージを重ねているのだろうか。日本サッカー協会のホームページでは「誇り高く、フェアに、そして、負けることをよしとせず勝利への強い思いを持って戦います。そこには、世界にも知られた、戦いの場に挑む日本人にオリジナルで高度なメンタリティが存在します」と説明している。サムライとは今も、勇敢で誇り高くフェアなのである。

 

 

さて、今回の戦術はサムライらしいだろうか。私には、ポスト「ラストサムライ」の戦法に思えてならない。セネガルから見ればあきらかにアンフェアな戦法だ。それなのに、フェアプレーポイントで日本がセネガルを上回ったのは皮肉だ。

 

 

「武士道」を著した新渡戸稲造は、少年にもある「戦闘におけるフェアプレー」精神に武士道の萌芽を見ていた。少年は「小さい子をいじめず、大きな子に背を向けない」姿にあこがれる。日本代表は強敵に背を向けなったが、最後は半身になっていなかったか。

 

 

サムライは虚栄的である。なによりも体面を大事にする。「勇敢であることよりも勇敢に見えることを大切に考える、このような道徳観は、男性特有の虚栄心に生理的基礎を置いている」(三島由紀夫)。ベネディクトは「菊と刀」で日本人の道徳を「恥の道徳」と規定した。

 

 

「かくすればかくなるものと知りながら

やむにやまれぬ大和魂」

 

 

これは吉田松陰が刑死前夜に詠じた歌だ。

松陰なら蛮勇と言われても徹底的に攻め抜き、それでGL敗退なら潔く受け入れたことだろう。