なぜか、突然、どうしても聴きたくなる昔の歌謡曲はありませんか。先日、久保田早紀の「異邦人」がどうしても聴きたくなって、ユーチューブで検索しました。うねるようなダイナミックな旋律があるかと思えば、静かで哀切なパートもあって、ふたつが見事に調和した名曲です。気宇の大きな詩もいいですね。

 

 

異邦人がはやったのは1979年後半から1980年の初めにかけてでした。当時、私は中学生で、子ども心に作詞作曲の久保田早紀は天才だと思いましたが、今聴いてもそう思います。その「久保田早紀」、現在は「久米小百合」という本名でキリスト教のミュージック・ミッショナリー(音楽宣教師)をしていることを知りました。

 

 

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「異邦人」は、今はなき三洋電機の「くっきりタテ7」というカラーテレビのCMソングでした。アフガニスタンの草原で撮影した映像のバックに久米さんの「ちょっとふり向いてみただけの異邦人」という歌声が流れます。このCM映像と、民族楽器のダルシーマを使った中近東風の旋律によって、「異邦人」のオリエンタルなイメージが膨らんだのです。

 

 

しかし、詩をよく読むと、中近東を連想させる言葉はほとんどありません。「異邦人」と2番の「祈りの声 ひずめの音」くらいでしょうか。でもリスナーは曲のイメージから「市場」をバザールに、「大地」を「砂漠」に読み替えました。

 

 

久米さんは中近東に行ったことはありませんでした。冒頭の「子供たちが空に向かい両手をひろげ」の光景は、当時住んでいた八王子から都心に通う中央線の車窓からみたものでした。テヘランやイスタンブールの街角ではないのです。曲の題名もはじめは「白い朝」でした。「異邦人」には「シルクロードのテーマ」という副題がついていますが、もともとは「中央線沿線」がテーマだったのです。しかし、久米さんがデモテープをCBSソニーに送ったことで曲の運命は変わります。

 

 

CMに採用されることになり、三洋電機の戦略に合うように曲は改造されました。久米さんは詩を手直しし、メロディーはプロがアレンジしました。ディレクターは酒井政利氏。酒井氏は「異邦人」の7か月前に発売されたジュディ・オングの「魅せられて」も手掛けました。「魅せられて」は、エーゲ海のイメージがうけて大ヒットし、酒井氏は次の手として「シルクロード」を狙ったのです。「白い朝」は「異邦人」に改題されました。久米さんは「異邦人」という題名が気に入らなかったようで、「旅人」とか「エトランジェ」を望んだようですが却下されました。

 

 

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「異邦人」は1979年10月1日に発売され、12月27日から3週連続で「ザ・ベストテン」の1位を獲得し、セールスは144万枚にのぼりました。

 

 

しかし、久米さんの心は穏やかではありませんでした。もともと曲作りは好きだったけれど、アイドルになって有名になりたいとは少しも思っていなかったのです。「異邦人」も誰かに歌ってほしいと考えていたくらいです。「夜のヒットスタジオ」や「ザ・ベストテン」に出て芸能人的なパフォーマンスを求められることがとても苦痛でした。芸能界は豪華客船で、自分はいつ転覆するともしれない手漕ぎボートで必死についていっている、というような気持ちだったそうです。

 

 

「これは私ではない」。久米さんは心に穴が開いたようになります。それでも「久保田早紀」のイメージに合う新曲を求められます。それは作りたい曲ではありません。皮肉なことに、「久保田早紀」は、本名「久保田小百合」に対して異邦人化していくのでした。

 

 

当時、雑誌の取材をよく受けましたが、曲調が独特だったためか、「あなたの音楽のルーツは何か」と毎回のように聞かれました。私のルーツ?久米さんは自問します。そこで思い至ったのが子供のころに通っていた教会の日曜学校でした。友達と一緒に行った日曜学校で賛美歌を歌うのが楽しかった。久米さんはずっと足が遠のいていた教会を訪ねます。聖書は9歳のころから持っていましたが、実家が曹洞宗の久米さんは、この時までじっくり読んだことはありませんでした。

 

 

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久しぶりに訪ねるようになった教会で聞いたのが、聖書の「マルコによる福音書第6章45節から53節」でした。

 

 

ガリラヤ湖の中ほどで、嵐に遭って船を漕ぎあぐねていた弟子たちをイエスが助ける話です。湖を歩いてきたイエスを見て弟子たちは幽霊だと思って叫び声をあげます。しかし、イエスは「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言って船に乗り込むと、風はやみました。

 

 

久米さんは「これは私のことだ」と思いました。芸能界という嵐の中で漕ぎあぐねていた久米さんは、イエスの弟子たちに自分を重ねたのです。まったく信仰心はなかった久米さんに、牧師の言葉が響きます。「苦しければ声をあげてください。そして、みなさんの近くにいる神様を船に迎え入れてください」。久米さんは、心の穴がふさがっていくような気持ちになりました。1981年に洗礼を受け、プロテスタント系のクリスチャンになります。

 

 

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久米さんは、その後、シンセサイザー奏者の久米大作氏と結婚、デビューから5年で引退します。引退コンサートでは「これで『久保田早紀商店』のシャッターを閉めます」と語りました。商業主義音楽との決別宣言でした。

 

 

久米さんは各地の教会を回って音楽伝道活動をしています。音楽宣教師というのは、音楽を演奏したり、歌を歌ったりしてキリスト教の精神を伝える人のことです。久米さんはピアノを弾いて、時には無伴奏で賛美歌を歌い、自分の体験を語ります。「クリスチャンになって後悔したことは一日たりともありません」と語る久米さんは、還暦を超えて生き生きとしています。「異邦人」のころはどこか憂愁のあった歌声も、子供番組の歌のお姉さんのように明るくなっていて、敬愛するという矢野顕子とも似ています。

 

 

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「異邦人」の歌詞は、女子短大生時代に書いたものですが、その後の久米さんの歩みを予言するようなフレーズがあります。「私を置き去りに過ぎていく白い朝」は芸能界のようです。「時間旅行が心の傷をなぜかしら埋めてゆく不思議な道」というのは、日曜学校を思い出して教会を訪ね、音楽宣教師となる道のりそのものです。

 

 

久米さんは、「なぜ『異邦人』があれほどヒットしたのかわからない」と話しています。1979年というのは高度成長の背中が遠ざかりつつある頃でした。時代の熱気は薄れ、一方向に走っていた日本人が立ち止まって、自分はなにものかを問うようになった時期です。円高で旅行しやすくなり、海外は近くなって、若者は自分探しの旅に出ました。欧米とは違うエスニックな世界も注目されるようになります。エーゲ海の「魅せられて」の前には、1978年に庄野真代の「飛んでイスタンブール」が流行りました。NHK特集の「シルクロード」が放映されたのは1980年です。

 

 

そんな時代の日本人の共感を呼んだのが「ちょっとふり向いてみただけの異邦人」「あとは哀しみをもて余す異邦人」というフレーズでした。それは、久米さんだけではなく、日本人の多くに、なにかしら予言的、宣託的に響きました。目標が見えにくくなって疎外感の中で暮らす「寂しい自分」を、「異邦人」の中に見たのです。

 

 

そういう意味では、「異邦人」は、「ガリラヤ湖の嵐」を歌ったと言えなくもありません。久米さんが今歌う賛美歌の前段として「異邦人」はあった。今、各地を回って、求められれば「異邦人」も歌うそうです。賛美歌と「異邦人」はつながるものなのでしょう。