最大の前方後円墳である仁徳天皇陵古墳など、百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録されることが決まって、改めて注目されているのが被葬者です。本当に仁徳天皇が葬られているのかと。現代の歴史学・考古学的な見地から言えるのは、

 

 

仁徳天皇は実在したのかどうかわからない。実在したとしても、被葬者が仁徳天皇であるというのは、はなはだ疑わしい、ということです。

 

 

そもそも、宮内庁が定めている被葬者は、誰が、いつ、どうやって決めたのでしょう。キーマンは、水戸の黄門様、伊藤博文、そして・・・

 

 

東野英治郎の演じる水戸光圀

 

 

■政府見解

 

古墳に被葬者を結びつけることを治定(じじょう)といいます。治定については政府の正式な見解があります。野田内閣時代のもので、2012年2月、共産党衆院議員の吉井英勝氏の質問に答えました(内閣衆質一八〇第一号)。吉井氏は仁徳陵古墳のある堺市議を3期務めたことがあります。答弁書には次のようなことを書いています。

 

 

「(吉井氏)御指摘の四十五陵は、「延喜式」に加え、「日本書紀」、「古事記」等の古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づき治定されたものである」

「陵墓参考地の治定に当たっては、古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づき、総合的に判断されたものと考えている」

 

 

つまり、天皇や皇族を葬る陵墓や、今後陵墓になる可能性のある陵墓参考地は、「延喜式」「日本書紀」「古事記」の三つの書を根拠としていて、現地調査により地元の言い伝えも参考にして決めたというのです。

 

 

 

■記紀

 

「日本書紀」「古事記」でも多数の陵墓に関する言及があります。しかし、記紀は8世紀に成立していますので、仁徳陵などの巨大古墳が造営された5世紀から300年ほどたっています。現在にシフトすると江戸中期くらいの時間差ですので、古墳の被葬者が口伝で正確に伝わっていたとは考えにくい。

 

 

伝承はあいまいなものですから、記紀の編者の気持になって考えると、伝承を優先するよりも、自分たちが描く歴代の天皇像に合致するようにしたいと思ったはずです。大山古墳が一番大きい陵墓であることは知っていたでしょうから、最大の陵墓に誰を当てはめるか、善政を敷いた偉大な天皇として描かれた仁徳がふさわしいのではないか、衆議した末にそう決めたのではないでしょうか。被葬者の特定には編者たちの作為が働いたと私は考えます。

 

 

■延喜式

 

さて、「延喜式」ってどんな書物でしょうか。神社の社格を言うときによく引き合いに出されますが、読んだことがなかったので、図書館で借りてきました。延喜式は「国史大系26」に収められています。

 

 

この本、ものすごく重い。計ってみたら1.8キログラムありました。延喜式だけで1032ページです。

 

 

「延喜式」は、格式を詳述した「役所マニュアル」みたいなもので、とにかく細かなことが書かれています。平安時代の905年(延喜5年)、醍醐天皇の命令で編まれ、927年に完成しました。この時期に格式をまとめたのは、天皇権力の回復のためでした。律令国家が弱体化し、世が班田収授から荘園制に移行する中、ルールによって行政をしめなおす必要があったのです。古墳に関することは巻21の「諸陵寮」に書かれていて、84の陵墓が列記されています。「諸陵寮」は行政機関の名前で、陵墓の管理が仕事でした。例えば仁徳天皇陵古墳はこんな風に書かれています。

 

 

「百舌鳥耳原中陵

難波高津宮御宇仁徳天皇。在和泉国大鳥郡。兆域東西八町。南北八町、陵戸五烟」

 

 

①被葬者②場所③大きさ④陵戸の数の順になっています。難波高津宮御宇とは、「難波高津宮で天下を治めていた」という意味です。高津宮(こうづぐう)址の碑は、大阪市天王寺区の高津高校の中にありますが、実際どこにあったのかは判然としません。古代の大鳥郡の郡域は今の堺市とおおよそ重なっているようです。兆域とは墓の領域です。1町は109㍍ですので、東西南北870㍍くらいになります。仁徳天皇陵古墳は、お濠を含む最大長が840㍍、最大幅が654㍍ですので、南北の方はだいたい一致します。陵戸(りょうこ)とは陵墓の守衛さんです。「5烟」とは「5戸」のこと。墓守が5世帯住んでいたということですね。

 

 

当たり前ですが、延喜式には、「何丁目何番」とまで書かれていません。ざくっと「〇〇郡」程度ですから天皇と陵墓を1対1で対応させることはできません。地形も古代から大きく変わっていますし、その場所の地名がずっと同じだったという保証もありません。縁起式は謎解きの端緒でしかないのです。

 

 

「延喜式」は記紀や口伝などに基づいて書かれています。延喜式の少し前のことですが、「続日本後紀」の843年の記録に、神功皇后陵と成務天皇陵を間違えていた話が載っています。伝承に基づいて神功皇后陵としていた山陵は実は成務天皇陵だったというのです。延喜式はそうした混乱の中で編まれたのです。

 

 

■黄門さまの発起

 

鎌倉時代、室町時代と陵墓は放置され、破壊され、次に陵墓調査が行われたのは江戸時代のことです。儒教を重んじていた、水戸の黄門様こと水戸光圀は、「孝」の精神から陵墓の調査と修復を求める請願文を書かせました(元禄7年)。「伏して望むらくは太祖を追尊してその祭るべきを祭り、諸陵を追及してその修むべきを修め、孝を万世に示し」。幕府に提出はされませんでしたが、こうした考えが幕府にも伝わったのでしょう、元禄期に幕府による現地調査が行われました。延喜以来、700年ぶりです。

 

 

元禄調査は神武天皇から103代花園天皇までを対象にしており、代官や領主に命じて行わせ、22の天皇陵は不詳とされましたが、それ以外は現存すると判断されました。崇神、継体などの陵は「湮没」(いんぼつ)、つまり跡形がないとなっています。ちなみに仁徳天皇陵は、ここでも「和泉国大鳥郡百舌鳥耳原」でした。

 

 

押さえておきたいのは、この元禄調査は、地方に丸投げして回答させたということです。命じられた方も困ります。「1000年も前のことわかるかいな」と思いつつ、お上の命令には逆らえないので、古墳周辺の里人に聞いてもらちが明かず、古記録などをひっくり返して適当に回答したのでしょう。もちろん発掘調査はしていません。しかし、調査報告は幕府の公式見解となりますので、後代に影響を与えました。第51代天皇までに限ると、45陵が決定され、このうち仁徳陵など15陵は現在でも宮内庁が天皇陵として管理しています。その他の30陵は転々と変わりました。そして、「湮没」とされた陵もやがて復活していくのです。

 

 

江戸期の修陵事業については、本居宣長が「菅笠日記」で面白いことを書いています。現場主義で取材力のあった宣長は奈良を歩いて里人の話をよく聞いていました。陵墓を開墾していた里人にとって、陵墓と判断されて立ち入り禁止となるのは迷惑なことで、調査の役人に「陵墓はない」とうそをついただろうというのです。

 

 

「御陵のある里は、ことなる民のわづらひおほくて、そのしるし(益)としては、つゆなければ、いづこにも、是をからき事にして、たしかにあるをも、ことさらにかくして、此里にはすべてさる所侍らず、とやうに申なすたぐひもあめり」(菅笠日記)

 

 

本居宣長

 

 

■国学のエンジン

 

 

元禄の頃から仏教伝来以前の日本人の精神性を探る国学が興隆し始めます。国学と、その派生形としての尊王思想、公武合体論が陵墓調査のエンジンとなります。学者の陵墓研究も盛んになっていきました。元禄時代には松下見林の「前王廟陵記」が書かれました。寛政年間には竹口英斉「陵墓志」、並河永「大和志」があります。文化5年(1808年)には、水戸学系の蒲生君平が「山陵志」を著しています。19世紀には在野の研究者による陵墓研究がブームになります。

 

 

■文久修陵

 

 

幕末になっても陵墓問題は水戸から提起されました。水戸は黄門さま以来、古代資産の保存にはひときわ熱心だったのです。徳川斉昭(1800~60)は、天保5年(1834)に陵墓の補修建言をしました。斉昭は徹底した尊王攘夷、廃仏主義者でした。

 

 

当時の幕府はこれを拒否しますが、斉昭の没後の文久2年(1862)に、宇都宮藩主の請願を受け入れ修陵に取り組みます。時に、日米修好通商条約調印(1858)、安政の大獄(1859)、桜田門外の変(1860)と激動の時代で、衰退する幕府は、朝廷の権威に頼った公武合体によって体制維持をはかります。公武合体のシンボルとして、朝幕一体による陵墓修復は価値がありました。経費としては5万5500両が計上されます。公武合体といえば、和宮と徳川家茂の婚儀が行われたのも文久2年です。

 

 

朝幕一体の文久修陵で行った治定は、権威をもちました。参道や拝所が整備され、きれいな絵図(文久山陵図)ものこされました。文久修陵をもって治定は固まったのです。

 

 

 

文久山陵図の仲哀天皇陵(修復前と後㊨)

 

 

 

■陵墓コンサルタント

 

 

この治定で中心的な働きをしたのが「陵墓コンサルタント」とでもいうべき存在だった国学者・谷森善臣(1817~1911)です。著書「諸陵徴」(1851)、「山陵考」(1862)は修陵の基礎資料とされました。

 

 

谷森は京都の人で、国学者の伴信友に学んだ熱烈な勤王の志士です。同門には天誅組に参加して獄死した人もいます。谷森の情熱は、政治や軍事に向かわず、山陵研究にそそがれました。文献を渉猟し、現地を歩き、山陵の考証に努めます。その功績が認められて文久修陵の顧問団の筆頭に選ばれました。修陵は慶応3年(1865)まで3年間続き、不明の14陵を除く116の天皇陵を整備しました。

 

 

谷森は、記紀や延喜式のほか、続日本紀、寺社文献、先行する山陵研究書を読み込み、現地に足を運んで地元の人たちから詳しく聞き取りました。その文献分析力、現地取材力には卓抜したものがあり、発掘による考古学が存在しなかった時代、谷森の陵墓考証は、幕末時点で到達できる限界点でした。維新政府は、治定において谷森案を引き継ぎます。

 

 

谷森こそ、現代の皇陵治定に決定的役割を果たした人なのです。

 

 

 

谷森善臣

 

 

■明治の暴挙

 

さて、これで終わりではなく、明治になってもまだ不明陵は残っていたのです。ぽつぽつと、空白を埋める作業が行われます。神代三陵を九州に定めたのは明治7年、崇峻天皇陵は明治9年です。わからないものをわかるとするのですから、かなりの力技でした。そして、明治22年(1889)、最大の力技を強いられる問題発言がありました。発言の主は伊藤博文です。不平等条約の改正に躍起になっていた伊藤はこう述べます。

 

 

「万世一系の皇統を奉戴する帝国にして、歴代山陵の所在の未だ明らかにならざるものあるが如きは、外交上信を列国に失ふの甚しきもの」。

 

 

不平等条約と山陵がどういう関係があるのか、不合理というしかありません。伊藤の頭の中では、外国の賓客を招いての鹿鳴館のパーティーも、山陵の治定も同レベルのことだったのです。

 

 

かわいそうなのは、当時の諸陵助、足立正聲です。「そんな御無体な」といったか、いわなかったか、京都、奈良、山口に走ります。京都では光徳、村上など10天皇、奈良では、顕宗(けんぞう)、武烈天皇、山口では安徳天皇の陵を無理やり定めました。13もの天皇陵のでっち上げは、自分でも情なかったことでしょう。鶴の一声による混乱は、今も昔も変わりません。

 

 

明治26年(1893)、顕宗天皇陵など13陵の補修が完了しました。「明治天皇紀」は、「歴代山陵始て完備するに至る」としています。このとき、谷森は長年の山陵研究の功によって従5位を叙されました。4年後、従4位に昇叙します。谷森あっての「山陵完備」であると明治政府も考えていたのでしょう。

 

 

伊藤博文

 

 

■屋上の屋

 

治定は「虚」の中から「実」を精錬するような困難な作業でした。墓碑、墓誌といった物証はなく、「記・紀・式」をよりどころにしたものの、いずれの書も学問的判断を支えるほどの信頼性はありません。記紀は神話と史実を接続した虚実ないまぜの「歴史書」ですが、延喜式はその記紀の周辺を、江戸・明治期の学者は、延喜式の周辺を彷徨したにすぎません。屋上屋を重ねるとはこのことでしょう。参考にされた口伝がうつろいやすいことは、伝言ゲームをすればわかることです。

 

 

判断材料が乏しい中、治定は一貫して政治的理由で実施されてきました。現代の科学的考古学によって覆されるのは当然のことなのでしょう。しかし、現材の皇室法上、治定変更に関する規定はないのです。