カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

なぜ伝統的ラテン語ミサなのか?なぜ新しいのはいけないのか?62の理由

2019-03-09 22:17:12 | ミサ
なぜ伝統的ラテン語ミサなのか?
なぜ新しいのはいけないのか?
62の理由

(伝統的ミサ) 二千年間もの尊むべき使用試されかつ真実のもの
(新ミサ)1969年に捏造試験的なもの

(伝統的ミサ) 明白に犠牲である祭壇と司祭
(新ミサ)明白に食事であるテーブル使用

(伝統的ミサ) 天主を中心に据えられる崇敬の為に構成されている
(新ミサ)人間を中心に据えられる自由な構造が乱用招く

(伝統的ミサ) 完全にカトリック一・聖・公・使徒継承
(新ミサ)半分プロテスタント四つの徴(しるし)全てを欠く

(伝統的ミサ) トリエント公会議にて法典化聖人教皇によって(教皇聖ピオ5世)
(新ミサ)企画考案された六人のプロテスタント牧師の認可のために

(伝統的ミサ) 実り豊か!数知れぬ聖人、殉教者、聖職召命の群れ
(新ミサ)不毛!空っぽの神学校、ミサ参列者の減少、大量の背教

(伝統的ミサ) .....この我々の、永久に有効であるべき、教令によって、我々は、このミサ典礼書において、何かが付加されたり、削除されたり、変更されたりなど決してなされるべきではないことを、定め、かつ命ずる。.... 教皇聖ピオ五世“クオ・プリムム”1570年7月14日
(新ミサ)「新典礼によって、非カトリック共同体は、カトリック教会と同一の祈祷文をもって主の晩さんを祝うことができるであろう。」 マックス・テュリアン Taizeのプロテスタント牧師「刷新されたミサにおいては、福音主義(新教)のプロテスタントに本当に差障りになるものは何一つない。」 M.G.ジークヴァルト Strasbourgのプロテスタントの教理神学教授

(伝統的ミサ) 聖なる聖会から決して廃止された事がない!
(新ミサ)失敗した試み


 何故、良心的に、我々は新ミサ(或いは教皇パウロ六世のミサ、Novus Ordo[新通常文]、新典礼)に与ることができないか。自国語でもラテン語でも、人々に対面しても聖櫃に対面しても、である。従って、これらと同じ理由で、我々は、忠実に伝統的ミサ(或いはトリエント・ミサ、古いラテン語ミサ、ミサ—レ・ピアーヌム、聖ピオ五世のミサ典礼書、全時代のミサ)を堅持するものである。(これらの理由は、ブラジルのカンポス教区の教区司祭が発表した60の理由に基づいている。)
【原文はアメリカ合衆国Ridgefieldの聖トマス・アクイナス神学校が出版した英語のもので、これはその邦訳である。】

 1.何故なら、新ミサは、(伝統的ミサがそうであるような)カトリック信仰の紛れもない明白な告白ではなく、曖昧なもの、プロテスタント的なものだからである。従って、我々は、信仰する通りに祈るからには、プロテスタント流の新ミサで祈りながらも、なおカトリック信者として信仰することはできない、ということになる!

 2.何故なら、変更は単に些細なものであるに留まらず、実に「根本的な刷新・・・完全な変更・・・新しい創造物・・・に関わる。」(新ミサの共同作成者、Msgr. A. ブニーニ)ものだからである。

 3.何故なら、新ミサは、「真理が・・・永久にカトリック信仰と切っても切れない関係にある“教理の神聖なる遺産”に不忠実であることなく、変更され、或いは無視されることができる、という思いに私達を至らせてしまう。」からである。*

 4.何故なら、新ミサは、「トリエント公会議の第22総会において公式化されたミサのカトリック神学からの、著しい離脱を提示している。」からである。同公会議は、“教理典範(=カノン)”を定めることによって、「玄義の完全性を侵害する異端に対して打ち勝ち難い防壁を築いた。」のであった。*

 5.何故なら、両者の相違は、単に些細な点に関する或いはただの祭式の修正に関するものであるに留まらず、「永遠の価値を有する全ての事柄は ——それがいやしくも未だ見出され得るとしても—— 、(新しいミサにおいては)より少ない場しか与えられていない。」からである。*

 6.何故なら、「典礼における真新しい変更は、既に困惑と信仰の弱体化のしるしが見受けられる
信者たちを、全くの混乱に陥れる他ないということを、最近の改正の結果が、十分に示唆している。」からである。*

 7.何故なら、今日のような混乱の時代においては、我々は、「その結ぶ実を見て、かれらを見分けることができる。」との我等の主の御言葉によって導かれるからである。新ミサの結実とは:合衆国における、主日のミサ参列者の30%減少(N.Y.Times誌5/24/75)、フランスにおける43%減少(マルティ枢機卿)、オランダにおける50%減少(N.Y.Times誌1/5/76)、である。

 8.何故なら、「最良の聖職者たちの間では、(新ミサの)実際的結果は、痛ましい良心の危機となっている。」からである。*

 9.なぜなら、新ミサ導入後わずか七年足らずで、全世界の司祭は41万3438人から24万3307人に減少 ——ほぼ50%—— したからである(聖座統計)。

 10.何故なら、「伝統とのかくも重大な決裂を正当化するために引き合いに出されている司牧上の理由は、我々にとって十分なものには思われない。」からである。*

 11.何故なら、新ミサは、我等の主の聖体におけるまことの現存に対する信仰を表明していない — ところが伝統的ミサはそれを全く間違いなく表明しているからである。

 12.何故なら、新ミサは、キリストの聖体におけるまことの現存を、キリストの我々の中における神秘的な現存と混同している(かくしてプロテスタントの教義に近似している)からである。

 13.何故なら、新ミサは、聖職位階の司祭職と人々の共通司祭職とでは、歴然と異なっているべき事柄を、(プロテスタントがしているように)ぼかしてしまっているからである。

 14.何故なら、新ミサは、キリストを聖体の秘蹟に現存せしめるのは人々の信仰であって、司祭の言葉ではない、という異端の理論を助長するものだからである。

 15.何故なら、ルーテル派の“信徒の祈り”の新ミサへの挿入〔=共同祈願〕は、人々全員が司祭であるというプロテスタントの誤謬に従い、かつそれを働かせるものだからである。

 16.何故なら、新ミサは、司祭のConfiteor(告白の祈り)を廃して、それを人々と共同のものにしてしまっており、こうして、司祭が裁判官、証人、天主との仲介者であるというカトリックの教えについての、ルターの否認を助成しているからである。

 17.何故なら、新ミサは、人々が司祭と共同執行するということを伝えようとしているからである — それは、カトリック神学に反する!

 18.何故なら、新ミサを作成するにあたって、六人のプロテスタント牧師が協働したからである(Drs.ジョージス、ジャスペル、シェパード、ケナッス、スミス、テュリアン)。

 19.何故なら、丁度ルターがOffertorium(奉献の部)を廃したように — そうしたのは、それがミサの犠牲的、贖罪的性格を明確に打ち出していたからであった —、同じく新ミサもそれを廃したのであり、それを単なる賜物のお供えごとに格下げしてしまったからである。

 20.何故なら、十分にカトリック神学が排除されたので、プロテスタントの人々が、まことのローマ・カトリック教会に対する反感を持ち続けながらも、新ミサのテキストを難なく使用できるほどだからである。プロテスタント牧師のテュリアンは、新ミサの結実の一つは「おそらく、非カトリック共同体が、主の晩さんをカトリック教会と同じ祈祷文を用いて祝うことができることだ。」と言ったものだ(La Croix誌4/30/69)。

 21.何故なら、新ミサにおける、聖変化の物語る様な【ナレーションの様な】やり方は、それが単なる記念であって、まことの犠牲ではない(プロテスタントのテーゼ)と暗示してしまっているからである。

 22.何故なら、重大な省略の数々によって、新ミサは、それが単に食事(プロテスタントの教義)であって、罪の赦しのための犠牲(カトリックの教義)ではないと、私達に信じるに至らしめるからである。

 23.何故なら、祭壇の代わりに、テーブル、聖櫃の代わりに人々に面すること、手での聖体拝領等は、プロテスタントの教理(例えば、ミサは食事である、司祭は単に会衆の座長である等)を強調しているからである。

 24.何故なら、プロテスタントの人々自身が、「新カトリック奉献文は、天主に献げられるいけにえの間違った見識を放棄した。(La Croix誌12/10/69)」と述懐したからである。

 25.何故なら、我々は、新ミサをもって礼拝することでプロテスタント化するか、そうでなければ全時代の伝統的ミサを忠実に堅持することで我等のカトリック信仰を守るかのいずれかである、というジレンマに直面するからである。

 26.何故なら、新ミサは、プロテスタントのミサの定義に従って作成されたからである:「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち“主の記念”を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった天主の民の集会である。」(4/6/69、新ミサ典礼書の総則第7項、ミサの定義)

 27.何故なら、両意に取れる曖昧さによって、新ミサは、プロテスタント信者の気に入ろうとする一方でカトリック信者の気に入ろうとするからである;こうして、それは“二枚舌”であって、あらゆる種類の偽善を忌み嫌われる天主を侮辱するものなのである:「・・・と二枚舌の人は、呪われよ、彼らは幾多の平和の人々を亡ぼしたからである。(集会の書〈=シラの書〉28章13節)」

 28.何故なら、人々を何世紀の間霊感してきた、美しい、親しまれたカトリック聖歌が投げ出され、強くプロテスタント感覚のものである新しい聖歌に置き換えられてしまって、もはや人はカトリックの行事に参加しているのではないという、既にはっきりした印象をより一層深めてしまうからである。

 29.何故なら、新ミサは、微妙に異端を助長しているような曖昧さを含んでおり、それは、明確に異端的である場合よりももっと危険性を帯びているからである。というのも、半分の異端は半分真理に似通っているからである!

 30.何故なら、キリストは唯一の浄配、即ちカトリック教会のみを持っており、彼女(カトリック教会)の礼拝式は、自らと敵対関係にある宗教にも仕えることなどできないからである。

 31.なぜなら、新ミサは、クランマーの異端的アングリカン・ミサ(=英国聖公会のミサ)の形態に従っており、かつそれを助成する方式は、まさに英国の異端者の方式に従っているからである。

 32.何故なら、聖にして母なる教会は、新ミサの如きミサにあずかることを拒否したために殺された、数多くの英国人殉教者を列聖したからである!

 33.何故なら、一旦カトリックに改宗したプロテスタントの人々は、新ミサが、彼らがプロテスタントとしてあずかったものと同じであるのを見て憤慨しているからである。そのような人々の一人、ジュリアン・グリーンは自問している、「何のために我々は改宗したのか?」

 34.何故なら、統計は、新ミサ使用以後のカトリックへの改宗の大減少を示しているからである。合衆国において年に10万人にも上る改宗があったのに、それが1万人以下に減ってしまったのである!

 35.何故なら、伝統的ミサは数多くの聖徒を生み出したからである。「・・・それによって、無数の聖徒が、天主に対する魂の敬虔を豊かに養ってきたのであります。(教皇パウロ6世、使徒座憲章“ミサ—レ・ロマーヌム”)」

 36.何故なら、新ミサは本性上、聖体の秘蹟に対する汚聖を拡大しやすいものになっているからである。そのような汚聖は、伝統的ミサでは見聞されたことがない頻度で、度々起ってしまっているのである。

 37.何故なら、新ミサは、外観にかかわらず、カトリック信仰ではない、新しい信仰を伝達するからである。それは近代主義を伝達し、誤謬を婉曲に言って唱道するために紛らわしい用語を用いることで、まさに近代主義の戦術に従っているのである。

 38.何故なら、自由選択の多様さを導入することで、新ミサは、各々の司祭が創造性という口実のもとに自分の好みのままに逸脱行為を犯しがちであることによって、典礼の統一性を侵害するものであり、結果として尊敬の欠如と無礼を伴った無秩序が不可避的に生じるからである。

 39.何故なら、多くの良きカトリック神学者、教会法学者、司祭たちが、新しいミサを容認せず、しかも良心的に新ミサを執行することができないと断言するからである。

 40.何故なら、新ミサは、以下のような事柄を削除したからである:跪き(三回分のみ残る)、カリス(杯)中での司祭の指の洗浄、聖変化後の司祭の指のあらゆる涜聖的接触からの保護、聖なる祭壇石と聖遺物、三枚の祭壇布(一枚に削減)。これらすべては、「どれほど無法にも、キリストの聖体におけるまことの現存という教義に対する信仰が、暗黙裡に否認されているかを、ひとえに強調しているばかりである。」からである。*

 41.何故なら、聖伝(Traditio Sacra)の幾世紀もの長い歴史によって、豊かにされ、円熟していった伝統的ミサは、聖人であった教皇ピオ五世によって法典化された(発明されたのではない!)のであった;他方新ミサは人工的に捏造されたからである。

 42.何故なら、自国語訳に引き立たされている誤謬は、新ミサのラテン語テキストにも存在しているからである。

 43.何故なら、新ミサは、その曖昧さと寛容さで、ミサの無効な執行の危険を助長していることによって、我々を天主のお怒りにさらしてしまうからである。「伝統的養成を受けておらず、しかも、“教会が行うことを行う”意向をもってNovus Ordo(新通常文)に頼る、近い将来の司祭達は、有効な聖変化を行うだろうか?それについては疑ってよい。」*

 44.何故なら、伝統的ミサの廃止は、ダニエルの書8章12節の預言を喚起するからである:「彼に毎日のいけにえを荒らす力が与えられたのは、(人々の)罪の為である。」又、ミサは、ここ地上における教会に存する最高で最も美しいものであるが故に、悪魔は異端者を使ってそれを私達から奪い去ろうと常に試みてきた、という聖アルフォンソ・リゴリの所見をも喚起するからである。

 45.何故なら、伝統的ミサが守られている所では、人々の信仰と熱心はもっと大きいからであり、一方新ミサの支配している所ではその反対であるのが事実だからである(ミサについての報告書、カンポス教区、ローマ教区、ブエノス・アイレス教区#69, 8/81)。

 46.何故なら、新ミサと相まって、新しい公教要理、新しい道徳、新しい祈り、新しい考え方、新しい暦、一言で言うなら、新しい教会、古いものからの完全な革命が進行するからである。「典礼改革派・・・・欺かれちゃいかん、これは革命の始まりだ。(バーミンガムの大司教 Msgr.ドワイアー、司教会議の代弁者)

 47.何故なら、伝統的ミサの本来的な美しさは、それ自体霊魂たちを引き付けるものである;一方、新しいミサは自ら引き付ける力を持たぬ故、人々の気に入ろうとして新奇さや余興を発明しなくてはならないものだからである。

 48.何故なら、新ミサは、トリエント公会議において、教義的に排斥された幾多もの誤謬を体現しており(全体が自国語であるミサ、大きい声で発音される聖変化の言葉、等。“ヤンセニウス派のビストイア会議の排斥”参照)、又教皇ピオ十二世によって排斥された誤謬を体現している(例:テーブルの形の祭壇。“メディアトル・デイ”参照)からである。

 49.何故なら、新ミサは、カトリック教会を、全てのイデオロギーと全ての宗教を抱き込むところの、新しい、エキュメニカル教会に変貌せしめんと試みるものだからである。その目標は、カトリック教会の敵共が長いこと夢見たものなのである。

 50.何故なら、新ミサは、司祭が一人でミサを執行する場合に、挨拶と最後の祝福を取り除いていることによって、諸聖人の通功の教義に対する不信仰を示しているからである。

 51.何故なら、祭壇と聖櫃は今や分離されてしまっており、こうして“キリストの司祭と祭壇上の犠牲”におけるキリストが、聖櫃の中での真の現存におけるキリストから区別されてしまっているからである。それは、「両者の本質そのものからして、一緒のまま保たれなくてはならない二つのものなのである。(ピオ十二世)」

 52.何故なら、新ミサはもはや人から天主に向う垂直的な礼拝を制定しておらず、それに代わって人と人との間での水平的な礼拝を制定しているからである。

 53.何故なら、新ミサは、第二ヴァチカン公会議の取り決めに適合しているかのように見受けられるが、実際には公会議の教えに反しているからである。というのも、公会議は伝統的ミサを維持し、奨励しようとの望みを表明したからである。

 54.何故なら、教皇聖ピオ五世の伝統的ラテン語ミサは決して合法的に廃止されたことがなく、従ってカトリック教会のまことの典礼であり続けており、カトリック信者はそれによって主日の義務を果たしてよい、からである。

 55.何故なら、教皇聖ピオ五世は、伝統的ミサを自由に、合法的に、良心の呵責や罰・判決・譴責の恐れなしに、執行できるための、“永久に”有効である永続的特許を授与したからである(教皇大勅書“クオ・プリムム”)。

 56.何故なら、教皇パウロ六世は、新ミサを公布するに際して、「その典礼は・・・・それ自体として教理的決定ではない・・・。(11/19/69)」と自ら言明したからである。

 57.何故なら、教皇パウロ六世は、英国のヒーナン枢機卿にトリエント・ミサを廃止ないしは禁止しているのかどうかを尋ねられた時に、「トリエント・ミサを全く禁止することが私の意向なのではない。」と答えたからである。

 58.何故なら、「新ミサのLibera Nosにおいて、至福なる童貞聖マリア、使徒ら、及び諸聖人は、もはや言及されていない;こうして彼女と彼等の取次ぎが、危機に瀕している時期にさえも、もはや願われていない。」からである。*

 59.何故なら、(新ミサの)三つの新奉献文のいずれにも、死せる人々の苦しみの状態について・・・言及されておらず、いずれにも、特定のMemento【特定の生者ないし死者の記憶】の可能性が存在しておらず、こうして、ミサの犠牲の贖罪的本性に対する信仰を密かに傷つけているからである。*

 60.何故なら、我々は、聖にして母なる教会の全世界的統治における、聖父なる教皇様の至上の権威を認めているが、同時に我々は、この権威さえも、かくも明白に信仰に反する礼拝式:曖昧さを持ち、異端を助長するミサ、又それ故に天主に嘉され得ないミサ、を我々に押しつけることはできないことも知っているからである。

 61.何故なら、第一ヴァチカン公会議に言明されているように、「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためでなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。(D. S. 3070)」からである。

 62.何故なら、異端ないし明らかに異端を助長するいかなる事柄も、従順に関わる問題とはなり得ないからである。従順が信仰の為に用立てられるのであって、信仰が従順の為に用立てられるのではないのである!この上述の件においては、従って、「我々は人間よりも天主に従わなければならない。(使徒行録5章29節)」からである。

* 注:“Novus Ordo Missae(新ミサ通常文)の批判的小調査書”を同封した、A. オッタビアーニ枢機卿とA. バッチ枢機卿の1969年9月25日付教皇パウロ六世宛の書簡

教書Quo Primum Temporeについて

2019-03-09 22:16:26 | ミサ
教書Quo Primum Temporeについて

 本考察は二部に分かれています。先ず、第一部として「I−A 教書それ自体・その日本語訳は一体どのようなものになるか」を原文と邦訳を羅和対訳形式で記し、第二部では「I−B この教書の法的適応範囲は一体どこまでなのか」と言う命題に就いての考察を述べます。

PIUS EPISCOPUS

SERVUS SERVORUM DEI

AD PERPETUAM REI MEMORIAM


天主の僕等の下僕

司教ピオは、

永遠の記念の為に。

Quo primum tempore ad Apostolatus apicem assumpti fuimus, ad ea libenter animum, viresque nostras intendimus, et cogitationes omnes direximus, quae ad Ecclesiasticum purum retinendum cultum pertinerent, eaque parare, et Deo ipso adjuvante, omni adhibito studio efficere contendimus.


余が、使徒職の頂点に上げられるや否や、純粋に保たれるべき教会の祭式に関する事に、喜んで余の精神及び力を注ぎ、全ての思考をそれに向けた。そして、実は、それを準備し、且つ、天主御自身に助けられ、全注意を払って完成する様に力を注いだ。

Cumque inter alia sacri Tridentini Concilii decreta, Nobis statuendum esset de sacris libris, Catechismo, Missali et Breviario edendis atque emendandis:


聖なるトレント公会議の他の勅令の中、余は、聖なる書籍、公教要理、ミサ典礼書、聖務日課書の出版及び改定に就いて裁定するべきであった。

Edito jam, Deo ipso annuente, ad populi eruditionem Catechismo, et ad debitas Deo persolvendas laudes Breviario castigato, omnino, ut Breviario Missale responderet, ut congruum est et conveniens (cum unum in Ecclesia Dei psallendi modum, unum Missae celebrandae ritum esse maxime deceat), necesse jam videbatur, ut, quod reliquum in hac parte esset, de ipso nempe Missali edendo, quam primum cogitaremus.


天主御自身のおかげで、既に民衆を博学たらせる為の公教要理を出版し、天主に返済さるべき負債である賛美の為に、聖務日課書を修正した後、聖務日課書にミサ典礼書が答える様にする為、それは、ふさわしく適しているので、(天主の教会において、唯一の詩篇の唱え方、ミサを捧げるべき唯一の挙行法が最高に望ましいので)この部門で残されたもの、つまり、ミサ典礼書それ自身の出版を出来るだけ早く考えるのが、今後必要であると思われた。

Quare eruditis delectis viris onus hoc demandandum duximus: qui quidem, diligenter collatis omnibus cum vetustis Nostrae Vaticanae Bibliothecae, aliisque undique conquisitis, emendatis atque incorruptis codicibus; necnon veterum consultis ac probatorum auctorum scriptis, qui de sacro eorumdem rituum instituto monumenta Nobis reliquerunt, ad pristinam Missale ipsum sanctorum Patrum normam ac ritum restituerunt.


その為にこそ、余は、この仕事を選び抜かれた学識豊かな人達に依頼した。彼等は、ミサ典礼書それ自体を、聖なる教父達の以前の規律、及び、挙式法に、注意深く集められた全て(の文書)を以って、即ち、余のヴァチカン図書館の古文書、そして、他の全ての方面から探し求められた、修正された又は改変されていない法文書を以って、更に、我らに同じ彼等の挙式法の聖なる制定に関して記念を残した古い文書、又、信頼のおける著者の文書を参照して復旧した。

〔以上が、聖ピオ五世によって任された「学識豊かな(eruditi)」人々が決定した原理と目的で、現代では《 批判版 》と呼ばれているものを作成する事でした。〕

Quod recognitum jam et castigatum, matura adhibita consideratione, ut ex hoc instituto, coeptoque labore, fructus omnes percipiant, Romae quam primum imprimi, atque impressum edi mandavimus: nempe ut sacerdotes intelligant, quibus precibus uti, quos ritus, quasve caeremonias in Missarum celebratione retinere posthac debeant.


熟考した後、全ての人々がこの〔典礼〕の制定及び着手された仕事から、結実をとる事が出来るように、余は、この既に認可され、訂正された〔ミサ典礼書〕が出来るだけ早くローマで印刷され出版されるようにと命じた。実に、それは、司祭等が今後ミサの司式に際して、どの祈りを使用し、どの挙行法を、どの儀式を行うべきか理解する為である。

Ut autem a sacrosancta Romana Ecclesia, ceterarum ecclesiarum matre et magistra, tradita ubique amplectantur omnes et observent, ne in posterum perpetuis futuris temporibus in omnibus Christiani orbis Provinciarum Patriarchalibus, Cathedralibus, Collegiatis et Parochialibus, saecularibus, et quorumvis Ordinum, monasteriorum, tam virorum, quam mulierum, etiam militiarum regularibus, ac sine cura Ecclesiis vel Capellis, in quibus Missa conventualis alta voce cum Choro, aut demissa, celebrari juxta Romanae Ecclesiae ritum consuevit vel debet alias quam juxta Missalis a nobis editi formulam decantetur, aut recitetur, etiamsi eaedem Ecclesiae quovis modo exenptae, Apostolicae Sedis indulto, consuetudine, privilegio, etiam juramento, confirmatione Apostolica, vel aliis quibusvis facultatibus munitae sint; nisi ab ipsa prima institutione a Sede Apostolica adprobata, vel consuetudine, quae, vel ipsa institutio super ducentos annos Missarum celebrandarum in eisdem Ecclesiis assidue observata sit: a quibus, ut praefatam celebrandi constitutionem vel consuetudinem nequaquam auferimus; sic si Missale hoc, quod nunc in lucem edi curavimus, iisdem magis placeret, de Episcopi, vel Praelati. Capitulique universi consensu, ut quibusvis non obstantibus, juxta illud Missas celebrare possint, permittimus; ex aliis vero omnibus Ecclesiis praefatis eorumdem Missalium usum tollendo, illaque penitus et omnio rejiciendo, ac huic Missali nostro nuper editio, nihil unquam addendum, detrahendum, aut immutandum esse decernendo, sub indignationis nostrae poena, hac nostra perpetuo valitura constitutione statuimus et ordinamus.


 他の諸教会の母にして教師である、神聖にして侵すべからざるローマ教会によって伝えられたものが、あらゆる所で適応され、全ての人がそれを守るように。

今後、未来永劫にわたって、全キリスト教世界〔の教会〕において、諸地方の総大主教の教会において、司教座聖堂において、参事会管理聖堂及び教区教会において、在俗及び男女を問わず如何なる修道院・修道会においても、更に、義勇修道会(仮訳)の教会においてさえも、又、「権利或いは習慣によって、ローマ教会の挙式法に従って合唱隊と共に高い声で或いは低い声で修道院のミサが挙行される」(霊魂を導く)責のない教会又は聖堂において、余によって出版されるミサ典礼式の定式による以外が歌われ、或いは唱えられる事の無いように。〔その事は上記の〕同じ諸教会が、使徒座の許可によって、習慣によって、特権によって、例え宣誓によるものであっても、使徒座の批准によって、如何なる方法で特別許可を備えていてもである。但し、その最初の制定時から、使徒座から承認されている場合、或いは習慣によって、つまり、その同じ教会において〔共通のローマ式とは区別される独自の挙行法による〕ミサ聖祭の施行(の制定)が200年以上不断に見られるような場合を除外する。それら〔の教会〕においては、余は、それらの〔ミサの〕制定、或いは習慣を取り除く事は全く無い。同様に、若し、今、余の注意して上梓したこのミサ典礼書の方が、より彼等の気に入るのならば、司教、或いは高位聖職と、全「教会参事会」との同意をもって、どのような反対があろうとも、余は彼等がこの〔ミサ典礼書〕に従ってミサ聖祭を捧げる事が出来るように許可する。他の上記の全ての諸教会に就いては、余は、彼等の同じ〔独自の〕ミサ典礼書の使用を取り上げ、それ〔の使用〕を根本的、全面的に廃止し、最近出版された余のミサ典礼書には、決して何も付け加える事無く、削除する事無く、変更する事が無いように布告し、余の憤慨と言う刑罰の下に、余の永久に有効なこの法令によって規定し命じる。

Mandantes ac districte omnibus et singulis Ecclesiarum praedictarum Patriarchis, Administratoribus, aliisque personis quacumque Ecclesiastica dignitate fulgentibus, etiamsi Sanctae Romanae Ecclesiae Cardinales, aut cujusvis alterius gradus et praeeminentiae fuerint, illis in virtute sanctae obedientiae praecipientes, ut ceteris omnibus rationibus et ritibus ex aliis Missalibus quantumvis vetustis hactenus observari consuetis, in posterum penitus omissis, ac plane rejectis, Missam juxta ritum, modum, ac normam, quae per Missale hoc a Nobis nunc traditur, de antent ac legant; neque in Missae celebratione alias caelemonias, vel preces, quam quae hoc Missali continentur, addere vel recitare praesumant.


厳しく、全ての、そして個々の上記の諸教会の総大主教、管理聖職者、そして他の如何なる教会位階の尊厳を有する人物であれ、更に、彼等が聖なるローマ教会の枢機卿、或いは、如何なる他の卓越した位階であっとしても、彼等に聖なる従順の名において、他の全てのやり方、及び他のミサ典礼書の挙式法が、例え古く、現在に至るまで習慣化していたとしても、それらを今後完全に除き、全面的に廃止する事によって、今、余によって伝えられるこのミサ典礼書による挙式法、やり方、そして法規に則ってミサ聖祭を歌い、又、読誦し、ミサ聖祭の挙行において、このミサ典礼書に掲載されているもの以外の他の儀式、又は祈りを敢えて追加、又は唱える事の無いようにと命じ規定する。

Atque ut hoc ipsum Missale in Missa decantanda, aut recitanda in quibusvis Ecclesiis absque ullo conscientiae scrupulo, aut aliquarum poenarum, sententiarum et censurarum incursu, posthac omnino sequantur, eoque libere et licite uti possint et valeant, auctoritate Apostoloca, tenore praesentium, etiam perpetuo concedimus et indulgemus.


更に、如何なる教会においても歌ミサ聖祭、或いは読誦ミサ聖祭において、如何なる良心の呵責無しに、或いは他の罰、宣言そして非難を全く課される事無く、今後このミサ典礼書それ自体に、全く従うように、そして、それを自由に合法的に使用する事が可能であり適法であるように、使徒継承の権威を以って、しかも永久のこの〔文面〕を以って、余は承認し認可する。

Neve Praesules, Administratores, Canonici, Capellani et alii quocumque nomine nuncupati Presbyteri saeculares, aut cujusvis Ordinis regulares, ad Missam aliter quam a nobis statutum est, celebrandam teneantur: neque ad Missale hoc immutandum a quolibet cogi et compelli, praesentesve litterae ullo unquam tempore revocari, aut moderari possint, sed firmae semper et validae in suo exsistant robore, similiter statuimus et declaramus. Non obstantibus praemissis, ac constitutionibus, et ordinationibus Apostolicis, ac in Provincialibus et Synodalibus Conciliis editis generalibus, vel specialibus constitutionibus, et ordinationibus, nec non Ecclesiarum praedictarum usu, longissima et immemorabili praescriptione, non tamen supra ducento annos, roborato, statutis et consuetudinibus contrariis quibuscumque.


又、高位聖職者、管理職者、教会参事会員、及び他の全ての如何なる呼称で呼ばれる、在俗又は如何なる修道会員の司祭は、余によって命ぜられたものより他のやり方でミサ聖祭を捧げる事が無いように。又、何によってであろうとも(彼等が)このミサ典礼書を変更すべく強いられ、強制される事無く、又この手紙が決していつの時代でも変更されることの無く、却って〔この手紙が〕常に堅固、且つその適応範囲において有効であるように、同じく余は規定し宣言する。〔上記の事は〕以前の決定、及び憲章、更に使徒座の命令、及び地方の、又、司教区の教会会議において出された一般、或いは特別憲章、及び命令、更に同様に、上記の諸教会におけるいとも長期にわたる、そして(記憶に無い程)昔の命令による、しかし200年以上を超えない確認される使用、如何なる種類のそれに反する規定及び習慣にもかかわらず〔適応する〕。

Volumus autem et eadem auctoritate decernimus, ut post hujus nostrae constitutionis, ac Missalis editionem, qui in Romana adsunt Curia Presbyteri post mensem; qui vero intra montes, post tres; et qui ultra montes incolunt, post sex menses, aut cum primum illis Missale hoc venale propositum fuerit, juxta illud Missam decantare, vel legere teneantur.


余は、同じ権威を以って、この憲章及びこのミサ典礼書を出版後、ローマ内にいる司祭は一ヶ月後、アルプスの手前にいる者は三ヶ月後、アルプスを越した所に住む者は六ヶ月後、或いは、このミサ典礼書が彼等に販売されるや否や、これに従って彼等がミサ聖祭を歌い、或いは読誦するようにと望み又規定する。

Quod ut ubique terrarum incorruptum, ac mendis et erroribus purgatum praeservetur, omnibus in nostro et Sanctae Ecclesiae Romanae Domino mediate, vel immeditate subjecto commorantibus impressoribus, sub amissionis librorum, ac centum ducatorum auri Camerae Apostoliae ipso facto applicandorum: aliis vero in quacumque orbis parte consistentibus, sub excommunicationis latae sententiae, et aliis arbitrari nostri poenis, ne sine nostra vel speciali ad id Apostolici Commissarii in eisdem partibus a nobis constituendi, licentia, ac nisi per eumdem Commissarium eidem impresspri Missalis exemplum, ex quo aliorum imprimendorum ab ipso impressore erit accipienda norma, cum Missali in Urbe secundum magnum impressionem impresso collatum fuisse, et concordare, nec in ullo penitus discrepare prius plena fides facta fuerit, imprimere, vel proponere, vel recipere ullo modo audeant, vel praesumant, auctoritate Apostolica et tenore praesentium similibus inhibemus.


地上の至る所で、〔このミサ典礼書が〕変更されず、誤りと誤謬から潔められ守られるように。余の、そして聖なるローマ教会の直接・間接の権威に服する全ての印刷者達に、その書籍の没収及び金貨200ドゥカを使徒座宝庫に支払う事が、その事実自体により適応される事。他の者達に対して、地上の如何なる場所にいる者でも、判事的破門及び他の自由裁量による罰を加える事を以って、余の特別許可、或いは〔上記の〕同じ場所に余によって設置される使徒座委員による特別許可無しに、又同委員により同じ印刷者にミサ典礼書〔が渡され〕、(そのミサ典礼書から同印刷者自身が他の印刷すべき規準を受け取るだろう)規範版に沿ってローマで印刷されたミサ典礼書と照合され、一致し、如何なる所も相違無いと、先ず最高の証明が為されない限り、如何なるやり方にせよ、敢えて、又は、早まって印刷し、生産し、或いは受納する事を、余は使徒座の権威及び、この同様の内容により禁ずる。

Verum, quia difficile esset praesentes litteras ad quaeque Christiani orbis loca deferri, ac primo quoque tempore in omnium notitiam perferri, illas ad Basilicae Principis Apostolorum, ac Cancellariae Apostolicae, et in acie Campi Florae de more publicari et affigi, ac earumdem litterarum exemplis etiam impressis, ac manu alicujus publici tabellionis subscriptis, nec non sigillo personae in dignitate Ecclesiastica constitutae munitis, eamdem prorsus indubitatam fidem ubique gentium et locorum, haberi praecipimus, quae praesentibus haberetur, si ostenderentur vel exhiberentur.


実に、この手紙が、キリスト教世界に至る所に行き渡るのは難しいので、又最初に全員に知られるのは難しいので、この手紙が「使徒等の頭のバジリカ」及び使徒座法務聖省(仮訳)、更に「花畑(Campus Floræ)」の脇に公示され啓示され、この同じ手紙の印刷された写しには、公証人の手による署名、更に聖会の尊厳ある人物の官印を備え、完全なる疑う余地のない同じ信頼が、民々、所々、至る所で与えられるように余は命ずる。その信頼は示され提示された場合、現に与えられる事になる。

Nulli ergo omnio hominum liceat hanc paginam nostrae permissionis, statuti, ordinationis, mandati, praecepti, concessionis, indulti, declarationis, voluntatis, decreti et inhibitionis infringere, vel ei ausu temeratio contraire.


故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。 

Si quis autem hoc attentare praesumpserit, indignationem omnipotentis Dei, ac beatorum Patri et Pauli Apostolorum ejus se noverit incursurum.


もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。

Datum Romae apud S. Petrum, anno Incarnationis Dominicae millesimo quingentesimo septuagesimo, pridie Idus Julii, Pontificatus nostri anno quinto.


ローマにて、聖ペトロの傍らにて、主の御託身より第一千五百七十年目、七月のイドゥス(15日)の前日、余の教皇座の第五年目に与えられる。

CÆSAR GLORIERIUS.


〔副署名〕チェザール・グロリエリウス

H. CUMIN.


以下に記す。

Anno a Nativitate Domini 1570, Indict. 13, die vero 19 mensis Julii, Pontificatus sanctissimi in Christo Patris et D. N. Pii divina providentia Papae V anno ejus quinto, retroscriptae litterae publicatae et affixae fuerunt ad valvas Basilicae Principis Apostolorum, ac Cancellariae Apostolicae, et in acie Campi Florae, ut moris est, per nos Joannem Andream Rogerium et Philibertum Cappuis Cursores.


主の御降誕より第一千五百七十年目の七月十九日に通告する。キリストにおいていとも聖なる父、天主の摂理による、我等の主なる教皇ピオ五世の教皇登位第五年目に、この手紙は慣習通り私達、つまり、執行使ヨハネ・アンドレア・ロジェリオ及びフェリベルト・カプイスにより、「使徒等の頭のバジリカ」の門、聖座法務聖省及び「花畑」の脇に公示され啓示された。

SCIPIO DE OCTAVIANIS, Magister Cursorum.


シピオ・デ・オクタヴァニス、一級執行使

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙

2019-03-09 22:15:39 | ミサ
オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿の

パウロ6世教皇聖下への手紙(翻訳)

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(翻訳)

1969年9月25日、ローマにて

教皇聖下

「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会」の専門家らによって準備されたミサの新しい司式(Novus Ordo Missae)を、注意深く吟味し、その他の人々が綿密な調査をするように願い、そして、長い祈りと考察の後に、私たちは次の考察結果を聖下の前に報告するのが、天主の御目の前における、また聖下に対する重大な私たちの義務であると感じます。

1、添付のミサの新しい式次第の批判的研究は、神学者、典礼学者、霊魂の牧者らから成るあるグループのなしたものでありますが、これは短いものにもかかわらず、次のことを非常に明らかに示しています。すなわち、もし暗になされた、或いは当然なされた改革を私たちが考察するとき、この改革は様々な仕方で評価できるかもしれませんが、新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。あの当時に決定的に定められた典礼様式のカノンは、この[ミサの]神秘の完全性に対して向けられた如何なる異端に対しても越えることのできない防御の壁を作っていたのです。

2、聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由係に教義上考察した上でも正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。新しい式次第における改革を見ても、そして永遠の価値をもつもの全てが、そしてそれが何らかの形であれそこに止まったとしても、単に隅の方に追いやられているという事実をみても、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変える、或いは無視する、ということをしても、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることがあたかも出来るかのような疑いを、(残念なことにこのような歌会は既に多くの所で支配的になっているのですが)確信にすっかり変えてしまうことでしょう。最近の改革は典礼に於いてしたばかりの変化のために信者の側では、ただ完全にまごつかせる以外の何ものにも行き着かなかったことを十分に示しています。信者は落ち着きが無くなり、信仰をますます無くしているとの疑うことの出来ない印を既に見せています。聖職者の中で最も優れたものの間でさえ、良心の危機の苦悶を訴え、これに関して無数の例を私たちは毎日知るに至っています。

3、これらの考察は牧者らとその群の両方の生の声によって聖下の元にのみ届くことが出来るのですが、聖下の慈愛溢れる父の心にそのこだまを見つけださざるを得ません。聖下の父の心は常に教会の子らの霊的必要を非常に深く心配しておられるからです。ある法律がその臣民の善を望んで作られたにもかかわらず。それがその反対に有害であったと分かるときにはこれらの臣民はその法律を廃止するように忠孝の信頼をもって願う権利、いえ義務があるというのはいつも本当のことでした。

 ですから、これ程の痛ましい分裂と、信仰の純粋さと教会の一致に対するますます大きくなる危機(このことは私たちの共通の父である聖下ご自身がお嘆きになったことでもあります)の時に当たって、私たちは本当に心から聖下にひたすらお願い申しあげます。聖下ご自身がかくも高く賞賛され、全カトリック世界がかくも深く愛し崇敬してきた聖ピオ5世のローマ・ミサ典書の実り豊かな完全性に私たちが続けて使用することが出来るようにその可能性を私たちから奪わないで下さい。

 オッタヴィアーニ枢機卿・バッチ枢機卿(署名)

「新しいミサ式次第の批判研究」とは何か

2019-03-09 22:14:40 | ミサ
新しい「ミサ司式」の批判的研究
Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae

1規範ミサと新しい「式次第」  

 1967年10月に司教会議(シノドス)がローマで開かれ、そこで「規範ミサ1」と呼ばれるミサを試験的に司式することについて、審議があった。この試験的なミサは、「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会 たものだった。
2」によって創られ とこの司教会議の参加者はこのようなミサのために非常に当惑していた。187票の投票者のうち、43の「反対3」、62いう多くの「保留4」があった。またその他の4票は棄権だった。
 報道機関は、司教会議が規範ミサを「拒否した」と書いた。革新的な傾向のある報道機関はこの出来事について沈黙を守った。司教達のための、ある有名な機関誌は新しい典礼をこう言ってまとめた。
「[規範ミサをつくった者たちは]ミサに関するすべての神学をすべて白紙に戻すことを望んでいる。実質的にミサのいけにえを破壊したプロテスタントの神学に近づいている。」
 ところが、『第2バチカン公会議の教令に基づいて刷新されたローマミサ典礼書を公布する使徒座憲章(以下、『ローマミサ典書5』と表記する)』という名前の使徒座憲章(1969年4月3日)によって公布された「新しい司式6」は、不幸なことにこの「規範ミサ」と実質的に全く同じものである。67年の司教会議とこの69年の公布の間に多くの司教会議があったが、司教会議の問題としてこの問題については触れられなかったように思える。
 使徒座憲章『ローマミサ典書』は、聖ピオによって公布された古い5世(1570年7月14日勅令『クォー・プリームム7』)ミサ典書が(このミサ典書は大部分が大聖グレゴリオそしてさらにもっと古くまで遡るものであるが8)4世紀にわたりラテン典礼の司祭のためのいけにえを捧げる規範であったことを確認している。さらにこの使徒座憲章『ローマミサ典書』は、世界中に広がったこの古いミサ典書を通して「無数の聖徒が、神に対する信仰心を豊かに養ってきたのであります9」と付け加えている。
 しかし、この同じ使徒座憲章によると、「キリストを信じる民の間に典礼の促進を目的とする研究が重ねられ、ますますその成果が上がるに連れて10」、このローマ・ミサ典礼書の使用を決定的に中止させる典礼改革が必要になっていたことになっている。
 しかし、明らかにこの最後の文章はゆゆしくも曖昧である。
 キリスト教の民が、もしもかつてこの典礼をより深く知り、研究し、促進しようという望みを表明したとしたら(それは主に聖ピオ10世教皇の励ましのもとにであったが)彼らが典礼という本当の不滅の宝を発見しだしたからであった。キリスト教の民は、典礼をよりよく理解するために典礼を変えるとか変更するなどとは決して、絶対に、一度も求めたことがなかった。彼らがよりよい理解を求めたのは、唯一的不変の典礼であり、彼らはそれが変わるのを望んだことなど決してなかった。
 聖ピオ5世のローマミサ典書はカトリック信者の心にとってきわめて大切なものであり、カトリックは司祭も平信徒もこれを敬虔に崇敬してきた。ふさわしい手ほどきを受けるなら、このミサ典書を使うことのどこが、聖なる典礼のより深い参与とより良き理解への邪魔になるのか、理解しかねる。この使徒座憲章「ローマ典書」が認めたように、この古いミサ典書の非常によい点を認めながらそれと同時に、キリスト教民の典礼に関する信心を養い続けることがもはやできなくなっていると評価することの理由が解らない。
 そのためにこそ司教会議は既に年にこの「規範ミサ」を拒否したのだった。しかし、その同じ「規範ミサ」が今日、67新しい「司式」によって実質的に採用され押しつけられている。この新しいミサは司教会議の司教団による判断に委ねられたことが一度もなかった。キリスト教民は(そして特に宣教の地では)いかなる種類のミサ聖祭の改革といえども確かに望んでいなかった。この新しい立法は、同じ使徒座憲章「ローマミサ典書」が認めるとおり4・5世紀から変わらず続いた聖伝を覆すものである。この新しい法が定められた動機を判別することはどうしてもできない。
 従って、このような典礼改革の理由は存在しないのであり、かかる典礼改革を正当化し、典礼改革それ自身もカトリックの民に受け入れられるようにする理由付けの根拠はないと思われる。
 公会議も『典礼に関する憲章番で確かにミサのいろいろな部分がもう一度秩序づけられるようにという望11』の第50みを表明した。「ミサの各部分の固有な意義と、相互の関連とがより明らかになるように12」と。では今から新しい「式次第」がこの望みにどれだけ答えているかということを見てみよう。あらかじめ言っておくならば、新しい式次第は事実、この憲章のことなど些かも気にかけてはいないと言うことができる。
 新しい「式次第」のした変更を一つ一つ調べていくと、それらは、以前の「規範ミサ」について下された判断と同じ判断をするのを正当化するほどの変更である。
 新しい「式次第」は「規範ミサ」と全く同じく、多くの点でプロテスタントのうち最もひどい近代主義をそのうちに見いださざるを得ない。


1 Missa normativa
2 Consilium ad exequendam Constitutionem de Sacra Liturgia
3 non placet
4 juxta modum
5 Missale Romanum
6 Novus Ordo
7 Quo Primum ここで著者は公布の日付を7月13日と書いているが7月14日の誤りなので訂正して訳した。
8 原注1:「私たちのカノンの祈りは既にDe Sacramentis(4-5世紀)という論文の中に見いだすことが出来る。・・・私たちのミサは本質的な変化なしに、最も古代の共通の典礼から初めて発展したその時代にまで遡ることが出来る。このミサはカエサルが世界を支配しキリスト教信仰を地上から消滅させることが出来ると希望したその時代の原初の典礼の香りをそのまま残している。つまり、われわれの祖先が自分たちの天主であるキリストに賛美も歌を歌うために夜も明ける前から集まり祈ったその時代のものである。・・・キリスト教世界全てを見回しても、ローマ・ミサほど崇敬すべき典礼様式は存在しない。」(A. Fortescue神父 The Mass, a study of the Roman Liturgy, 1912)
「今日あるままのローマ・カノンは大聖グレゴリオにまで遡る。今日まで使われている聖体祭儀の祈りのうち東方教会にも西方教会にもこれ程まで太古に遡るものは存在しない。ローマ教会がそのミサを投げ捨てると言うことは、とどのつまり、ギリシャ正教会だけではなく英国聖公会やまだ聖伝の感覚をいくらかでも残しているプロテスタントの目にさえも、真のカトリック教会であるという主張をすることをもはや否定していることを意味するだろう。」(Louis Bouyer神父)
9 "innumeri praeterea sanctissimi viri animorum suorum erga Deum pietatem, hausitis ex eo ... copiosus aluerunt." 日本語訳は、『新しいミサ典礼書』11ページから始まる使徒座憲章の公式日本語訳を参照した。
10 "ex quo tempore latius in christiana plebe increbescere et invalescere coepit sacrae fovendae liturgiae studium."
11 Sacrosanctum Concilium
12 "ut sigularum partium propria ratio necnon mutua connexio clarius pateant."日本語訳は、南山大学監修の『第2バチカン公会議公文書全集』1986年を参照した。

新しい「ミサ司式」の批判的研究 ー 2ミサの定義

2019-03-09 22:13:59 | ミサ
2ミサの定義 

 まず、ミサの定義から始めよう。
 ミサの定義は「ミサの一般的構造13」と題された「ローマ・ミサ典書の総則14」の第2章の冒頭にある、第7番段落にある。
 これが新しい式次第によるミサの定義である。
「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である15。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。16」
 これを見るとミサの定義は「晩餐17」以外の何ものでもなくなってしまっている。そしてこの定義は、以後何度も現れる(8、48、55d、56番)。この「晩餐」の特徴はさらに、司祭を座長とする集いであるということである。また、この「晩餐」は最初の聖木曜日に主がなさったことを思い起こし、主の記念として催されると言う。しかし、これらの一つでさえも主の御聖体における現存、いけにえが現実に行われること、司祭が聖別の言葉を唱えるときに秘蹟を執行していること、会衆が参加していようがしていまいがそれとは関わりなく御聖体のいけにえはそれ自体で内的価値があること、などのことには全く触れられていない18。この定義は、一言で言えば、ミサの本当の定義が言及しなければならないはずの、ミサがもっている基本的なしかも教義的な価値について一切言及していない。これらの教義的な価値を故意に省略することによって、ここでは「頭越し19」にされ、従って少なくとも実際上否定されるに至っている20。
 この定義の後半部分は、この既に非常に曖昧な表現をもっとひどく曖昧にさせるかのごとくこう挿入されている。「『私の名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」この後半部によれば、キリストの「2、3人が私の名によって集うところには私はその中にいる」という約束が、このミサの集いにおいて「特に21」実現することになる。しかし、このキリストの約束は、キリストがご自分の聖寵をもって霊的に臨在されることを述べているに過ぎない。しかし、この霊的現存の約束が、キリストの御聖体の秘蹟における現存、すなわち、実体的で物理的な現存と、度合いの違いこそはあるものの、全く同じ次元に置かれてしまっている。
 第7段落でミサの定義をした後に、次の第8段落においては、ミサを「御言葉の祭儀」と「聖体祭儀」に2分している。そして、ミサにおいては「神の御言葉の食卓」と「キリストの体の食卓」とによって成り立ち、信者たちはそこで「教えられ、糧で満たされる22」と断言されている。この2つの部分にあたかも象徴的な価値が等しくあるかのごとく、典礼の2つの部分を全く同等化するやり方は全くふさわしくない23。この点についてはさらに後でもう一度触れることにしよう。
 総則では、ミサがその他多くのさまざまな表現をもって描写されている。これらのすべての表現は、それを全て合わせて同時に考察すれば、相対的には受け入れられ得るかもしれない。しかし、もしそれがそのあるがまま、それぞれ別個にそれ自体の切り離された意味において24取られるなら、それらのどれも受け入れることはできない。例えば、そのうちの一部を挙げてみよう。以下の表現は、それだけでは、ミサということが出来ない。「キリストと神の民の行為」「主の晩餐、またはミサ」「復活の食事」「主の食卓への共同の参加」「主の記念」「感謝の祈り」「御言葉の祭儀と聖体祭儀」 25等々...。
 全く明らかなように、カルワリオのいけにえの無流血の再現という代わりに、取り憑かれたように26食事と記念とに強調が置かれている。
 また「主の受難と復活の記念27」という表現は不正確である。なぜなら、ミサは、本質的に、それ自体で贖いの価値を持つ「いけにえ」のみに関するものだからである。復活はいけにえの結果生じた実りである28。
 われわれはこの後に、聖変化のその言葉自体において、そして「新しい式次第」全体に亘って、このような曖昧な表現が何度も使われ新たにされているのを見よう。