挫折

 中年空手百条委員会の有明省吾です。

 簡単な話ですけど、「空手をやめた」と思った瞬間が挫折です。ただし、道場に行かなくなったことをもって、空手をやめたとかいうことにはなりません。家でちょくちょく稽古を続けたりしている分にはやめたことにはなりません。いや、もっといえば、空手の動画や本を読んでわくわくしている自分がいるかぎり、修業は継続中だと思います。決してやめているわけではありません。

 私は18歳の時から42歳の時まで、空手の道場に「行っていません」でした。その間、体操代わりに空手をやったり、空手本を読んだり、そういうことはずっと続けていました。さすがに道場で毎週稽古している人と比べれば、まったくお話しにならない程度の稽古ですが、お話しにはならないけれども、空手をやめていたわけではありません。これは確かだと思っています。

 そして、私の仲間でも、稽古にしばらく「来てない」人はたくさんいます。しかし、その人が空手に挫折したのかどうかはわかりません。心の中で「空手はいいなあ」と思っている限り、それは挫折とは呼びません。

 昨今、どうも、自分で「挫折した」と簡単に決め付ける人が多いような気がしませんか。一か月仕事で稽古にいけなかっただけで、「俺は挫折した」とばかりに空手をやめてしまうような人。これ、とてももったいないです。一か月、半年、一年、空手にいけない期間があっても別に悪いことじゃないでしょう。人生はそんなものですから。少なくとも平凡な中年空手家である私は、空手のために生きているわけではありません。空手ができない期間というのも当然あります。私の場合、それがたまたま24年間続いたことがありましたが、決して挫折はしていません。空手に取り組める日が来るまで、道場での修業をパスしていただけです。

 さて、そう考えてみると、「挫折した」などと思っている方がいらっしゃるなら、本当にそうなのか、考えてみるのがいいでしょう。事情があって空手を離れてから久しい方などでも、まだ心のどこかに空手に惹かれている部分があるのなら、別に挫折しているわけではないでしょう。たまたま稽古に参加していないだけのことです、気が向かれたら、いつでも、どんな道場にでも参加されるのがよかろうと思います。

 そんなこといっても、20年空手やってなかったから、今やっても素人に逆戻りだよとか、そんなことを考えて気が重くなっている方もいるでしょう。確かに昨今は実用性やら実績やら、そんなものをすぐに求められる時代です。強くなれないなら意味がないという考えになってしまうのも無理のないことかもしれません。しかし、ただ空手をやる・・・・・・ただそれだけのことが、中年の人生をいかに豊かにしてくれるのか、考えてみたことはありますか。こればっかりは、やったことのあるひとでないとわかりませんね。そして空手に戻れるならば、戻ってくればいいでしょうし、やっぱり戻る機会がなければ、心の中でずっと空手が好きであればいい。そうである限り、空手に挫折するということはありません。そんな方が70過ぎになってから、ひょっこりと空手を始めたりします。なんと素晴らしいことではないでしょうか。

 前回の記事で「柔弱」ということを書きましたが、空手の修業もこのくらい柔らかくとらえて行った方がいいのではないかと私は思います。簡単に挫折と言ってはいけません。一時離れてもいつか戻ってくる可能性をしっかりと確保しましょう。その可能性が実現しなかったとしても、一生の間、「空手っていいなあ」と思う限り、それは挫折ではありません。

 もし、ハッキリとこれが挫折だと言いうるものがあるとすれば、たとえば空手では強くなれないから意味がない、別な格闘技をやろうといって空手を一切やめてしまうような人です。その人は格闘家としてはそれで成功するかもしれません。空手を捨てたこともその人にとっては多分正解なのだと思います。その人の人生の中では、それが正しい選択でしょう。

 しかし。空手から一切手を引いてしまった、諦めてしまったという点においては、「挫折」かもしれません。私の考えでは、諦めた瞬間が挫折です。愛を失った瞬間こそが挫折です。むろん、他の格闘技に移っても、空手を好きでいる限りは、挫折ではありません。その格闘技の中に、空手体験が間違いなく生かされているのでしょう。

 大事なことは、やはり好きなことに関わり続けることでしょうね。それがどんな形であれ、式である限り挫折にはならないとうのが私の考えです。

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