中年空手百条委員会の有明省吾です。
忙しい中でスポーツを愛好している社会人はとても多いと思いますけど、「武道」を稽古するとなると、どうしてもスポーツとは違う意味合いで考えるべきだと思う人も多いかもしれません。いわく伝統文化、いわく精神修養、おのれを鍛えて人格を陶冶する。こういうニュアンスが武道にはついてまわります。
まあ、私はブルース、リーが好きで、メタボにはなりたくなくて、生活を豊かにする何かが欲しかったから空手という武道をやってますが、「人格向上」なんてことはあまり考えたことがなく、技を覚え、それが決まれば喜び、うまくいかなければいらつく・・・・・・とまあ、こんな稽古生活を送っています。よって「武道」をやっていてよかった・・・・・的な気持ちはほとんどありませんでした。人格向上や精神鍛錬は「仕事」の場面の方がはるかに効果があるように思っていました。
これは基本的に今も変わっていない考え方です。
本来は殺人の技術であったものを黙々と稽古する。これが武道です。無論いまは殺人のために稽古している人はいないとは思いますが、こうした人殺しの技術は、本来の目的以外にも大きな効果が期待できるものなのではないか?私はそう考えています。健康や心身の安定という点ではスポーツも武道も変わりませんが、武道ならではの何か大きなメリットがあるのではなかろうか。そして、それがもしかすると社会人にとってとても必要な何かではないのか・・・・・・・・・
最近こんなことを考えています。
空手の修業も18年目に入りました。殴る、蹴るという稽古を、多忙な中でも無理のない範囲で続けてきました。まあ、これだけの期間を経てみると、確かにスポーツとはちょっと違うのではないかという実感が生じてきています。
武道はもともと殺人の技術である以上、技を出すときには、殺人が可能な距離まで相手に接近しなければなりません。通常他人を受け入れることがない空間へと潜り込んで攻防を繰り広げるわけですが、よほどの親しい人間でもこんな距離には入ってきません。接近して戦う極真空手や柔道などは、相手との距離がもう「恋人同士」の間合いになります。
この距離に接近して相手を実感するということは。「殺人」の技術を学んでいるからこそできることではないでしょうか。恋人でなくても、恋人の距離感で相手を感じる。感じさせられる。こういう経験を重ねていると、人間に対する感覚が敏感になります。特に相手が怒っていたり、嫌がっていたりすることはすぐにわかります。武道ではそれを利用して相手をコントロールしたりしますが、これを覚えてくると、実生活では逆に、相手が嫌がらない、怒らない、そんな駆け引きが可能になってくるように思います。トラブルの可能性を少なくできるかもしれません。
また、自分を防衛できる距離感にとても敏感になってきますから、この空間に入ってこようとする人間の挙動にもとても敏感になってきます。護身の基礎というのはまさにここではないのかなと思ったりもします。
そして、さらにこれも最近思っていることなのですが、現代人は多かれ少なかれSNSに手を出していると思います。SNSがどれだけ発達しても、人と人との、面と向かってのコミニュケーションが廃れることはないでしょう。しかし、その人対人との会話の場面は、間違いなくSNSの影響を受けるでしょう。決まり文句で褒めちぎり、とりあえず「イイネ」を押しとけばいいや・・・・・といった姿勢が、面と向かった会話にも影響を与えてくるかもしれません。こうして、褒めることは褒めるけど、相手を深く実感しているわけではないような、そんなコミニュケーションが習慣化されてしまうかもしれません。他人を実感するといっても、液晶画面を通してのの冷たく硬い手触りと同等になってしまったら、それは怖いことです。
殴る、蹴る、投げる、打つ……というコミニュケーションは極めて原始的ですが、実感はナマナマしいものです。打っても、打たれても、相手の存在をかなりリアルに感じます。皮膚感覚で人間を理解する機会なんて、職場ではまずありえません。あえてこれをやると、同性異性問わず「セクハラ」になってしまいます。(そもそもそこまで理解したい相手が職場にどれだけいるのかという話にもなりますが)
しかし、目の前の相手を皮膚感覚のレベルで理解できる。武道にはこんな特徴があります。忙しい毎日の中で、この感覚で人を感じることなど、ほとんどありえないことなのですが。武道でもこれを頻繁に感じながら相手を読むという訓練ができます。どんどんデジタル化していく人間関係を、いっときリセットする効果がありそうな気がします。
このように、武道には人間の手ごたえを感じるという一面があります。それゆえに礼儀を正しくする必要が生まれてきますし、リアルに人間を感じることで、リアルな気配りができるようになるという特性もあります。また、昨今ありがちな「他人との距離感が読めない人」なんかには、危険な距離を痛みで知り、それを抽象化して人間関係に応用するということも可能かもしれません。
スポーツにおいても、これに似たことは起きてくるかもしれません。しかし、殺し合いを実際にしなくても「殺せる」間合いに入り込んで、相手を攻撃しようとする非日常の感覚は、人間関係の中で現代人が失いつつある手ごたえを強烈に実感させてくれるものなのかもしれません。
秋めいてきましたね。新たな季節を迎え、一層稽古に精進していきたいですね。そして、みなさまの変わらぬ応援のおかげでランキング1位に常駐しております。以下のバナーをクリックして応援していただければ、大変光栄です。皆様のコメントもお待ちしております。
有明省吾
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