相対性からの目覚めに、「良い」「悪い」という思考の判断はあるのか? | Pure Enlightenment -本質的な覚醒-

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『本質的に生きること』
__人間の究極のテーマでもある『本質的な生き方』と『本質としての覚醒(悟り)』について、ここではその初級編を気の向くままに綴っています。

覚醒について忌憚なく会話していた時に

友人からこういう問いがありました。

 

 

 

 

 

『「相対的な判断」

 

 

「相対性から目覚める」

 

 

 

 

そこに、

 

 

相対的な判断」は「悪い

 

相対性から目覚める」ことは「良い

 

 

といった

 

 

いい」「わるい

という判断が隠れていないか?

 

 

 

 

 

それは思考の罠で、

そこにエゴが潜んでいるのではないか?」

 

 

 

 

 

友人は覚醒にはとても真摯な取り組みをしていて、

自己の等身大の状態も見極めている人なので

信頼を置いて忌憚なく会話ができる人です。

そのような問題定義をどこかで見かけたとのことで、

そこはどうなの?と話題に上げたとのこと。

友人に了承を得たので、

ここでそのテーマを取り上げたいと思います。

 

 

 

 

 

 

このような疑問が起こるのは理解できますね。

これは確かに思考の陥りやすい罠だからです。

しかし、またこの定義の奥にも左脳優位な捉え方が

あるように感じます。

 

 

 

 

 

本質的な捉え方からいえば

 

 

 

 

「良い」「悪い」ではなく、

 

 

 

 

「良い」「悪い」

を超えるということです。

 

 

 

 

超えるというのは、

超えるのが「良い」

超えないのが「悪い」

ではありません。

相対性もあるし、ない。

非二元のように全ては一つという

捉え方もあるし、ない。

あるし、ない

というのは二元の捉え方ではなく、

一元論も二元論も

どちらも定義しない。

そのどちらも超えた状態。

 

 

 

 

 

 

 

様々なテーマを純粋に問い続けていくと

思考はクリアになり、

抽象度が自然に上がる状態になります。

物事や思考を見極めていった時に

「良い」「悪い」という捉え方を

思考が超えてくるようになるのです。

その状態が行きつくところまで行くと

覚醒や空の領域にまで抽象度が上がってきます。

 

 

 

 

「良い」「悪い」といった思考の罠というのは

逆に、抽象度が低い場合に起こります。

 

 

 

 

 

 

抽象度を上げることについて、

こちらの方の記事が個人的に的を得ていて

面白かったので参考までに。。。

三部作でこの記事が最終回ですが、

記事にリンクしてあるその前の二つのエントリー記事

から読むと、スピリチュアルや宗教の罠についても

明晰に書かれていて面白いです。

 

 

 

 

 

 

私の場合、相対性を超える捉え方をすることは

実は相対性を否定しているからではありません。

思考を否定しているのでもないのです。

幻想論で擬似達観もしていません。

生きる上で必要なことを完全に否定などはできません。

しかし、この世界の相対の中で生きると

無自覚に相対性に振り回され苦しみを作るのも人間です。

相対的な判断、相対から目覚めた判断

どちらの選択も各々の自由ですが

選択ではなくその状態に埋没している状態ならば

どうでしょうか。

ここでは、そのあたりも含めて、

抽象度が少しでも上がるような記事を書いています。

 

 

 

 

 

 

全ては「ある」

そして「ない」

相対だし、相対でない。

そのどちらも超えている

そう在る状態。

これは特定の人物や観念から得た知識に

同化することで得た感覚などではなく、

本質的な覚醒を得てから私の中に消えることなく

存在している状態を捉えたもので、

その状態を、私は絶対安心とも呼んでいます。

 

 

 

 

エゴという概念もまた

人間が作ったものです。

フロイトがエゴという概念を生み出し、

心理学以外にも広まりました。

エゴと定義する自分の元はなんなのか?

エゴという概念や定義をスピリチュアルにも

投影させているマスターがいますが、

覚醒にその概念を同化して捉え過ぎないことです。

そこに思考に対する「良い」「悪い」の判断はないのか

見極める必要があるかもしれません。

 

 

 

 

 

疑問や問いを追求するのは自然なことです。

ただ、覚醒というテーマは奥が深いだけに

こねくり回した論議になりがちで、

腑に落とそうとすればするほど左脳優位な判断や

思考の意味付けや罠に陥りがちです。

左脳を使えば使うほどエネルギーが燃焼し、

思考が停止してくるという手法もあるようですが、

左脳で腑に落とすこと自体、極めて難しいのが

覚醒という領域なので、腑に落とすことに

捉われ過ぎることも思考の罠ではないのか

そこも見極めが必要になってきます。